すべてはとんだ誤算だったってわけ



 つくりものみたいに綺麗な生き物だなと、のんきに思っていた。そんな風に悠長に思っていたことが自分の死因に直結するなんて思ってもみなかった。

 久々に帰国した幼馴染から律儀にも「実家に着いた」とラインが来ていたから、嬉しくなって早々に糸師家に突撃したのがことの始まり。
 冴のお母さんが「冴なら自分の部屋にいるわよ」とすんなりにこにこ通してくれたのも、今になって考えてみると良くなかった。勝手知ったる糸師家、第二の我が家みたいなものだから、警戒心が抜け落ちていた。そう指摘されたらぐうの音も出ない。
 それでも、礼儀としてちゃんとノックして、冴から「入っていい」の返事をもらってから入室した。
 すると、なんと日本の至宝が上半身裸で立っていた。見ればわかるお風呂上がりの姿。
 濡れた髪からゆっくりと雫が落ちる。肩から体のつくりに沿って流れる水滴を含めて、まるで美術品のように見えた。同じ人間だろうか? こんなところを気にせず人に見せるなんて、冴はスペインでもこんな感じなんだろうか。無駄に心配になる。

「久しぶりだな、
「う、ん。久しぶり」

 幼馴染だから見慣れていたけれど、初見の人間だったら死んでいた。小さい頃の冴とは一緒にお風呂だって入っていたし、部活帰りの冴のお風呂上がりだって何度も見てきた。
 だから、慣れてはいるのだけれど、数年経って雰囲気が更に大人びたのもあって、なんだかこそばゆい。少年ではなく、青年の体つきになっている。

「……あのさ、見慣れてるからいいっちゃいいんだけど、上着てないなら入っていいって言わないでよね!?」

 手に持ったタオルで鬱陶しそうに髪を拭いていた冴が、まるで漫画のようにぴしりと固まってしまった。それから、地獄の底から響くような声で「は?」とだけ発声。
 さすが世界の糸師冴、圧が違う。ちょっと指摘しただけでこれはこわすぎ。

「……どういうことだ?」
「ちょっと待って、なんで怒った?」
「見慣れてるってどういうことだっつってんだ」
「いや、見慣れてるでしょ、ご存知の通り」
「あ? 俺は知らねぇ。誰と勘違いしてやがる」

 普段感情がフラットな冴に、わかりやすく滲んだ怒りに目が白黒する。ずかずかと私の方にやってくるので後退するも、後ろはドア。見慣れてる、見慣れてはいるけど、わざわざその状態で迫ってこないでほしい。間近に見る鍛えられた身体は目に毒だっていうことをしっかり理解してほしいのに。逃げ場がないのに冴は止まらない。
 ダン、と強い音とともに私の耳横に腕が二本。目の前には冴の整った顔。冷えた視線は冬の水を浴びたみたいできゅっとくちびるを結んだ。

「俺があっちに行ってる間に、随分楽しんでるみたいだな」
「ちょっと、」
「どこのどいつだ、口割れ」
「いや、見慣れてるでしょ、冴と凛の上裸とかは!」
「あ?」
「ちっちゃい頃から見てたじゃん! 二人が練習帰りに、私が家寄った時とか。お風呂入ったあと、暑いからってそのまま二人ともフラフラするから」

 冴の視線が私の輪郭をなぞっている。誤魔化していないかを確かめられている。なにこの浮気を咎められてるみたいな空気。別にひとつも悪いことはしていないのだから、私は堂々としているべきだ。
 怖気付かずに見返してやれば、鬼気迫るピンと張った糸が伸縮性のものに変わるのを感じた。弛んだ雰囲気に無意識に力んでいた体から力を抜く。

「紛らわしいこと言ってんじゃねぇ」
「勝手に勘違いしたのそっちじゃん!」

 冴は鼻で一笑してべ、と舌を出す。それで事態の収束を図る気のようだった。腹立たしい、昔から自分勝手なやつ。思春期に愛想の全てを置いてきてしまっているからしょうがないのかもしれない。

「ていうか、どいてよ。服も着て! 今後は服着てから入室許可して!」

 胸板を押してもびくともしない。さすが現役サッカー選手、一般人の力なんてものともしない。
 けれど、これは自分にとって悪手だった。肌の感触がダイレクトに伝わってきて、なんだかいけないことをしてしまったような気になって。私は今、情けない顔をしているに違いない。
 いや、冴がどいてくれさえすればいいのだ。なのに、当の冴が動く気配を見せない。それどころか、腕を掴んで押し返す始末。



 一歩間違ったら取り返しがつかない至近距離で名前を呼ばれるから、心臓が変な音を立てている。まるで、その間違いを誘発しようとするように冴が私の顔を覗き込む。

「お前、今自分どんな顔してるかわかってんのか」
「ど、んな顔って……普通の顔してるでしょ」
「は、自覚してねぇなら今日ここでさせてやる」

 冴の言葉はいつもやさしくなくて、いつも振り回されてばかりだ。
 人生で一度も経験したことのない空気感なのに、つよく甘みを感じるひどく危険な肌触り。頭の中で警告音が響く。
 「こ、ここ、実家!」という不慣れなディフェンスカードを切ったのに、「実家じゃなきゃ良いってことか、タコ」と上手で返されてさらにはデコピンまでされた。
 た、たしかに。切るカードを明らかに誤っている。なんでそんな回答をしたのか、自問自答しているとぐんぐん顔全体に熱が蓄えられていくのを自覚する。
 反芻する冴の言葉。え、私ってそうなの!?
 百面相の私とは違い、冴は冷静にこちらを見下ろしていた。私たちの間にある熱量の差が羞恥心を煽るので、ちょっと泣きそうになった。

「俺はミッドフィルダーだが」
「え、あ、うん? 知ってるけど」
「やっと見えたシュートコースを逃すほどアホでも鈍間でもねぇ」

 ゆっくりと、言い聞かせるように。ひとつひとつ言葉を刻み込むように口にした。
 がっちりと冴の手のひらが私の頬をホールドする。幼馴染由来の手荒さでもみくちゃに押しつぶされた私の顔に、冴はひとつ呼吸を落として笑った。ここまでくると失礼すぎるんじゃない!? と、その時、私は確かに憤慨しようとしていたはず。
 ——それなのに、冴が。あの冴が、まるで宝物を見つけた少年みたいに嬉しげに、やわらかく瞳を細めたから。逆に私は呆気に取られて目を丸くした。
 そのきっかけを冴は見逃してなんかくれなくて、ゼロ距離。あつく、触れた唇がやさしくて、それなのに絶対に逃がさないという意志を感じる。
 小さく出かけた悲鳴も全部、冴が食べきってしまったので、どこにも逃せなくなった熱で私の頭はパンクしたのだった。南無。