恋の方程式は導けない



「鳴呼っ! 美しい人、あなたのこの細腕で私の首を絞めてはくれないだろうかっ」

 カラン、と軽い音を立ててが喫茶うずまきの門扉を潜ったのと、同僚の太宰が本格的に女給を口説き落とそうとしたのは、奇しくも同じタイミングであった。
 可愛らしい女給の、口上通り細い腕を握り、彼女の顔を覗き込む様は彼の欲求を顕著に表している。
 は顔に何の表情も乗せないまま、扉の取っ手を苛立ち交じりに強く握った。こんな現場を見ても、だからなんだという思いではあるが、こう度々続いてはゲンナリする。シンプルに鬱陶しい。
 太宰は握った手をそのままに彼女の方を向き、悪びれずにこう宣った。

「おや、ちゃん。仕事に区切りはついたのかな?」

 そのあとには「よければ、食事を一緒にどうだい?」と続いたが、けたたましい音によってその言葉は打ち切られた。太宰の言葉の終端と彼女が扉から出て行くタイミング。それはふたたび、奇しくも重なったのであった。


「バカだなぁ」

 遅い昼食を取りに行ったはずが、数分も経たずに早足で戻ってきた。勢いをそのままに仕事を再開したを見て、乱歩はケラケラと笑った。乱歩には全て読めていた。どんな状況なのかは、自分の天才的とも言える能力を使わずとも。
 点滅し始めた青信号を見てそろそろ赤に変わると判断できるような、当たり前の話だ。言い換えれば日常茶飯事である。
 そろそろ終わりそうな兆しが見えていたの報告書。昼食を摂りに行ったきり、帰ってこない太宰。ほぼ毎日どこかで起きるへの歪なアプローチ。
 それら全てを鑑みて、うずまきに太宰が陣取っていることは分かりきっていることだったのに。
 乱歩としかいないこの空間に、ガタガタと不機嫌を示すように鳴るキーボードの音はよく響く。その音に重ねるように、飲みかけのラムネのビー玉をカランと鳴らす。彼はしみじみと言葉を吐き出した。

「バカだなぁ、は」
「はてさて、何のことやら」
「やっと積んでいた仕事が終わったって、足取り軽くお昼を食べに向かった君が惚けるのか?」
「……そんな風に言われてしまうと、私はもうこれを出すしかありません」

 彼女が机の一番下の引き出しから引っ張り出したのは、色とりどり大小様々な駄菓子や茶菓子。そこはにとっても乱歩にとっても宝箱であった。
 その幾ばくか大きく作られている四角から取り出されるのは、いつでもハズレを知らないお菓子たち。
 言外に彼女の間抜けさを咎めないでくれと釘を刺された。口止め料という訳かと彼は笑った。しょうがないから絆されてやる。僕は優しいからね、とにんまり笑う。

「今日のはとっておきですよ!」
「そりゃあ楽しみだ。この名探偵の僕の舌を唸らせてみ給えよ」

 の自信に満ちた言葉がぱちぱちと目元で光るようだった。取り零さないように受け取って、二の句を次ぐ前に口に頬張ってやった。ふーん、うん、これは。
 乱歩の特徴的なキツネ目のはしが、ゆるりとほんの少し和らいだのをは見逃さなかった。……オオアタリだ。外れることは稀だけれど、こんな風にわかりやすいのも珍しい。
 こんな些細なことで少しいい日になったように感じてしまうので、乱歩という人は不思議だ。与えたはずなのに、与えられている。は傾いていた気持ちが平らに均されて肩の力を抜いた。
 けれど、そんな安寧は束の間の出来事。鋏を入れるように彼女の携帯がジリジリと音を発した。表示板には「太宰さん」という字が畏まったように映っている。

「おや、噂をすれば、というやつだね」
「……え、うわ」
「早く出なよ。うるさいったらないんだから」
「わ、わかってます!」

 背筋を伸ばしたのうなじを見つめ、乱歩は投げやりに言う。さして大きくない着信音、しかし、ふたりしかいない事務所にこの音はうるさすぎるのだ。駄菓子によってまるまる、つやつやと撫で付けられた乱歩の神経を逆撫でするくらいには。
 は脳裏にいやな思いが過ぎりつつも、諦めたように電話を取った。即座に部屋に流れ込むのはもちろん、太宰の声。

「ああ、ちゃん!? 酷いじゃないか、話も聞かずに出て行ってしまうなんて!」
「……そもそも私、話しかけられていたんですかね?」
「ええっ、ひどいなあ! 私はこんなにもちゃんとのランチを待ち遠しく思っているのに!」

 芝居がかった声が響き、回想を巡らせる。乱歩のいう通り、バカな状況を思い出して頭を抱えた。
 なぜは毎回、太宰のああいう場面に出くわさなければならないのか。神経がやすりで削られて行くような感覚。「もうこの喫茶店で食事など摂るまい!」とは思わせない絶妙な加減で、頻度で、試されているような。
 そもそも、なぜ太宰の縺れた事情に、こちらが疲弊しなければならないのか。太宰との関係性は、よくある「そういう」ものではない。の想いはどこへも向かっていない。
 けれど、太宰からのアプローチは日毎に深みを増していく。それなのに、他の女性にも手当たり次第なのだから、無責任な人だと憤慨もしたくなる。
 太宰からするとゲーム感覚なのかもしれないが、それに付き合うのは非常に疲れるのだ。
 まあ、手の早い男なのだというのは、この探偵社内では周知の事実なのだが。
 まあ、太宰としては本気の心算で、それがカケラも伝わっていないだけなのだが。
 はあ、とは感情の抜け落ちた声を吐く。ふむ、と乱歩はひとつ頷く。
 鳴呼、今日は機嫌がいい。に貰ったとっておきが今日の乱歩にヒットしたためだ。それに、彼はある程度彼女のことを気に入っている。と、胸の中で理由をつけた。
 騒音のように紡がれていく太宰の言葉が溢れる小さな電子機器。それをの手から攫えば、彼女は突然の事に瞳をパチクリさせた。
 小動物のようなそれに、乱歩は小さく息を漏らした。庇護欲ってこういうものなのかな。

「やぁ、太宰」
「おや、乱歩さん。なぜ、ちゃんの携帯電話に?」
は僕とお昼を食べることにしたから」
「……乱歩さんは二時間ほど前に食事は済ませたはずでは?」
が食事を摂るにあたって、僕が食事をする必要は別にないだろう? 時間を共有しさえすれば、彼女は昼食を堪能できるし、」

 一度、わざとらしく言葉を切る。すうっと薄く開かれた瞳には、見たこともない色が宿る。僕がよければ全てよし、と言いきる男が、誰かのために動くなんて明日はきっと槍が降る。

「そうじゃなくてもデザートは別腹、ってよく言うよねぇ」

 はその表情に似たものを何度も見たことがあった。推理の際に見せる、江戸川乱歩の本領発揮。それをこんな謎でもなんでもない、日常茶飯事の中で見ることができるとは。些事に乱歩が動いてくれたこと。
 その感動を乱歩に伝えたら、有り得ないと表情を崩すかもしれない。けれど、にとっては喜びが胸を闊歩する出来事だった。僕がよければ全てよし、と言いきる男は、が太宰に辟易とすることをよしとはしなかったのだから。
 彼は携帯電話を耳から離し、静かになった電話口にひとつ頷いてみせた。すると、がこちらを見上げ嬉しそうに笑っているので乱歩は問い掛けずにはいられなかった。

「どうしたの、
「いや、乱歩さんかっこいいなぁって」

 乱歩は一度はキョトンとし、すぐに言葉を処理したのか高らかに笑った。そうだろう、だって僕はこの探偵社の要だからねぇ。彼女は「そうですね、いつも乱歩さんが頼りです。乱歩さんかっこいい!」と煽てるように笑顔を作った。乱歩はにやりとした。きっと太宰には我慢できまい。
 すると予想通り、携帯電話から大きく打撃音が聞こえてきた。切れていると思い込んでいた電話が音を鳴らしたものだから、は不意を突かれ体を跳ねさせた。

「なんです……?」
「さあ? なんだろうね」

 恐ろしく頭のキレる男が、ここまでとは形なしだ。彼女の言葉ひとつで心を揺らし、嫉妬心を煽ろうとして煽られるなんて、愉快で不快で仕方ない。乱歩は相反する気持ちに気付かないまま笑うのだ。
 おそらく太宰はうずまきのドアを持てる全ての力で閉め、エレベーターを待つ暇にすら耐えられず、階段でこちらに向かってくるに違いない。もちろん、今日もブレずにツケたに決まっている。
 けれど、今日は「おばちゃん、ツケにしておいて」の一言も漏らす暇がなかったと見る。武装探偵社の社員ともあろう者が、食い逃げとはけしからん事態だ。国木田に言いつけてやろう。
 そしてその後は、の登場と同じくものすごい勢いで探偵社のドアが開かれるだろう。「ちゃんお昼を一緒に」との言葉も乗せて。ドアが外れて国木田からお小言が飛び出るのも織り込み済みだ。
 まったく、全てにおいて非生産的だ。

 「え、乱歩さん?」とイマイチ状況を掴みかねているを放って自席に戻り、貰った駄菓子の続きを食し始めた。新聞を開けば、今日は事件の香りが仄かに漂っているようだ。刮目して概要を追う。
 しかし、どういうことだろう。この新聞は朝から見ていたはずだが、見落としがあったらしい。目を細め、なんということだと乱歩は自分に呆れた。優先すべき事件が解決しないことには、他の事件が目に入らなかったらしい。
 そしてやっと現場に辿り着いた太宰は乱歩と彼女を交互に見比べ「ちゃん、お昼を摂りにいこう」「通りの角においしいイタリアンが出来たと聞いたよ」と矢継ぎ早に言葉を続けた。太宰と冷めた表情をしたを両の瞳に差し込ませ、そうしてからやっと自身を顧た。
 嗚呼、口実ではなく、本当に昼食を共にするのもいいかもしれない。そう考えて、乱歩はひとつ苦い息を吐いた。

「バカだなぁ」