震えるこころはいつも二つ



 手にした紙もペンも特別なものではなく。もし、これが誰かの特別になるのだとしたら、そこには一筆足りない。私だけでは完成しない代物で。

「……これは?」
「えっと、なにか私にできることがあればなと思って」

 いつもと同じく、屋敷が夜にとっぷりと沈んでからディルックさんは帰宅した。
 くちびるに馴染んできた迎えの言葉。受け取るディルックさんもずいぶんと慣れてくれたように思う。やっと息を落とせると、眉間の皺をやわくほどいて「ただいま」を口にする。
 最初のころはアデリンさんと一緒に出迎えていたけれど、ここのところは私の役目になっている。
 今日はどんなことがあったのかとか、明日の朝食のパンに塗るジャムの味とか。取引先のご主人からもらったクッキーは私が好きそうなものだとか、そういう日常をそっと補うような話をとりとめなく繰り返して。
 そういうことの一つ一つが、ここでの明確な役割となって私を満たしていくこと、ディルックさんは知っているだろうか。
 ——ありがとうの大きさは、なかなかどうして、伝えるのが難しくって。
 エントランスホールはひっそりと。夜の隙間に、あたたかな光を落としている。
 今日はいつもより少し緊張しながら出迎えて、そのままディルックさんに手渡した、特別になんてなり得ない一枚の紙片。
 空白と、横にひっそりと佇む「チケット」の文字。頼りなさげに、縒れているようにも見えて、まるで私の気持ちそのもののよう。
 ディルックさんは簡素なそれを見て、何度かゆっくり瞬いた。真意をはかりかねている。その姿が、さらに私のやわなハートを追い立てる。

「ディルックさんに渡せるような、すごくて素敵なプレゼントが思い浮かばなくって」

 言い訳みたいに、自信の無さで尻すぼみ。まるで子供が親に渡すような小さな贈り物なので、このワイナリーのオーナーであるモンドの貴公子に手渡すのはなんとも情けなく気恥ずかしい。


 アカツキワイナリーに籍を置いてからしばらく経つ。というより、生活の全てをここに置かせてもらっているといって過言ではない。
 身寄りなく、テイワットの地に言葉の通り落っこちてきた私を拾い上げたのはディルックさんだった。最初こそ、得体の知れないものを相手にするディルックさんの態度は、剣の鋒のように鋭くてよく泣きを見たものだ。
 けれど、ディルックさんは必要以上に厳しい目を向けるわけではなかったし、今となってはかろうじてアカツキワイナリーの一員になれた、のだと思う。そう思いたい。
 ここに置いてくれたのも、得体の知れない人間が自分のもとにいた方がモンドの危機管理がしやすかったのだと思う。それでも、次第に柔化していく態度が、私をこの世界に受け入れて、手を引いてくれているようで嬉しかった。
 ——まあ、あまりにも世界を知らず何もできず、攻撃力がスライムよりも低かったからだと思うのだけれど。
 ディルックさんは未だに最初の頃の、獲物にとどめを刺そうとするような態度(泣きを見た、というのも比喩ではなく)を申し訳なく思ってくれているようだった。
 けれど、疑われようとも、訳のわからない状況で知らない世界で、衣食住が保障されたという事実は、どんなに心強かったことか。
 そんな風にされてしまっては、少しでも何か報いたいと思うのは当たり前のことではないだろうか。
 といっても、モンドの貴公子とも呼ばれる人に、なんでも持っていてなんでも手に入るようなお金持ちなのだ。私は、今も昔も、この人以外に、そんな身分の人に縁がないので妥当なプレゼントがわからない。
 それに、身元のはっきりしない私が自主的に行動して、何か裏目に出ることがないか気が気じゃない。
 だから、恐る恐るアデリンさんにこっそり相談してみれば、

「今更そんなことは気にしていないと思うし、が贈るものならなんでも喜んでくれると思うけど。でも、そんなに心配ならディルック様自身に決めてもらえばいいわ」

 いたずらに微笑まれて困ってしまった。けれど結局、その助言に乗っかって「なんでもお願いを叶えるチケット」を渡している。父の日か母の日のような心持ち。

「ここに書く内容は、なんでもいいのか?」
「もちろん、なんでも」

 修飾語として「私にできることならば」がつくのはご愛嬌だけれど、そんなのディルックさんにはわかりきっているだろうから割愛する。誠実な人なので、無理を強いることなんてきっとしない。
 ただそうなると、このチケットの有効範囲はものすごく狭くて。もしかすると、モンドの子供たちができることと大差ないかもしれなかった。自慢じゃないけど、私にはテイワットの常識も知識もあまりないので!

「なんでも」

 そう神妙な声色で繰り返しなぞられても、私ができることの幅が増えるでもなし。

「私にできることなんてほんっとうに少ないですけど。最終的にはディルックさんだけじゃなく、ワイナリーのみんなにもお礼ができればなって」

 肩身が狭いのを誤魔化すみたいに捲し立てる。与えてもらった分を返せるとは思わないけれど。気軽に、なんでも言ってほしくて。
 ——すると、どういうことか。
 ぴくりと、綺麗な形をした眉の端が跳ねるのを見た。やわらか、解けていた眉間がまたぎゅっと詰まる。細く長く、吐き出された息はずいぶんと引き延ばされて、私のまわりをぐるぐる回る。
 それだけで、なんだか身動きが取れなくなってしまう。触れれば切れてしまいそうに、瞳がすっと細まる。

「君は、ずいぶんと警戒心がないらしい」

 一歩、ディルックさんがこちらに歩み寄る。一気に距離が近くなって、その分だけ後ろに下がろうとすれば腕を引かれたのでびっくりして顔を上げた。
 不服さを煮詰めたような色の視線がかち合って、まずいかも、と思った。

「あの、」
「なんでもいいと言うのなら……そうだな。僕が屋敷へ帰ってきた時には、迎えの言葉だけでなく、ハグを頼もうか」
「え、……え?」

 はぐ。今、ディルックさんはなんて。ハグって言った? あのディルックさんが?
 面食らって何を言うべきかを逡巡し、そろりと確認をひとつ。

「えっと……ディルックさん、もしかして相当お疲れ、です?」
「疲れては……いや、確かに疲れているのかもしれないな。ある意味、頭が痛い」

 やっぱり。でなければ相当なご乱心だ。だって、どんな人に対してもクールな態度を崩さない彼がこんなことを言うなんて、誰が想像できるだろう。
 ハグがストレスの軽減になると聞いたのは、元の世界にいる時だったと思うけれど、こちらの世界でも同様なのだろうか。でも、だからって私に頼む?
 考えあぐねている私にディルックさんは有無を言わさず畳み掛けてくる。

「なんでもしてくれるんだろう」
「そ、それはそう、なんですけど」

 自分の舌の根が乾いていないので、ノーとは言えない。ただ、私がそれをしたとして、ディルックさんにメリットがあるとは到底思えないだけで。
 けれど、ディルックさんがあまりにもまっすぐ真剣なので、言葉に詰まる。腕を掴む力が強まって、手袋越しなのにひどく熱く感じる手のひら。じわりと侵食する熱は腕を辿って体を占拠していくみたい。炎元素持ちの人ってみんなこうなんだろうか!
 ディルックさんは平常心を保っているのに、私だけが意識してドギマギしているようで羞恥心が加速する。けれども、そこでハッとした。そういうことかと合点がいく。
 故郷、日本ではスキンシップというのは、ある程度関係が深まった人たちですることだ。恋愛的にお互いに好意のあるひとたち。
 けれど、海外の人たちはもう少しフランクに活用しているもので。家族だとか友人だとか。モンドはどちらかというと海外に近い感覚なのだと今までの生活で学んだ。
 そういうことならば、頷くほかない。そもそも意識のレートが違うのだ。けれど、裏を返せばディルックさんが少しは親しみを持ってくれているということだと考えれば、断る理由なんか一ミリも存在しない。この際、恥をかなぐり捨ててもいいだろうと思う。

「では、」

 ただ、こんな美形と、モンドの女性人気を掻っ攫う人とのスキンシップはひたすらに緊張する。

「失礼します!」

 意を決する、とはこういう時のための言葉だろう。でも、ハグに対して掛け声って、ダサすぎない?
 自問自答しながらも言葉に任せて、ディルックさんの背中に腕をまわす。焚き火みたいにゆらめいた香りとワインみたいに少し苦くてあまい香りが混ざって私を占める。
 ベビーフェイスに反したしっかりと筋肉のついた体が、緊張したように固まった。言われた通りにしただけなのに、今度こそディルックさんが深くため息を吐いたので、ぜんぜん納得がいかない。

「……一応聞くが、。君は要求されたら誰にでもこうするのか」
「いや、そんな訳ないじゃないですか!」

 返答が腑に落ちないのか、ディルックさんは曖昧な空気をふたりの間に落とした。けれど、私たちの物理的距離をぐっと縮めたのもディルックさんで。私の背に回された手のひらは今も変わらずにあつい。そこから心臓に直接熱を受けているみたいで、鼓動がじわじわ早足になっていくのを感じる。
 誰もいないエントランスでふたり、いけないことをしているようで。今更ながら、変な噂が立ってしまったらどうしようと冷や汗が出そう。「——ディルック・ラグヴィンド、身元不明の女性と深夜に密会」なんて、週刊誌のタイトルが脳裏を駆けた。(スチームバード新聞社でも、私邸の内側の様子なんて押さえられないと思うけれど)
 こんなことなら先に聞いておくべきだったと、じわじわ後悔が沁みてくる。だって、ディルックさんが「当たり前だが」みたいな顔で言うから。モンドの常識かと思ったのに。

「……あの、今更なんですけど、ハグってモンドでは挨拶的なもの、ですよね?」
「そんなわけないだろう。僕が他の誰かとこうしているのを見たことがあるのか?」
「えっ、じゃあなんで私たちこんな風になってるんですか!?」
が抱きついてきたからね」
「完全な風評被害だ……!」

 まるで私が許可もなく、自主的に飛びついたかのような言い分に憤慨する。私のテイワットでの常識のなさはこの際棚上げにして。
 すると、耳元でディルックさんがさっきとは打って変わって小さく笑みをこぼすので、胸でうずまいていた熱がしぼみ速攻で毒気を抜かれてしまった。我ながらちょろくて参る。

「さて、いい機会だ。なんでこうなったのか、その疑問については君一人でゆっくり考えるといい」
「なんかおもしろがってませんか? ディルックさん、性格がわるい!」

 今度こそ堪えられなかったように肩を震わせたディルックさんが、いつもより数段愉快そうで。こんなところを誰かに見られて困るのは、あなたの方ではないかと思うのに。(いや、考えずとも私かもしれない。ディルックさんファンを刺激しないようひっそりと生きていけますように、と心の中でそっと祈る)
 ディルックさんは最後に一度、腕に力を込めてから私を解放した。そうしてみると、離れてしまう熱にすこし寂しくなり、けれど妙な背徳感に襲われて閉口する。

「今後は、なんでも、なんていう言葉は気軽に使わないようにすることだ」

 見上げれば、眉間の皺はちゃんと解けていた。幾分かすっきりした表情で声色はいつも通りに。今までの一連の流れに思考を馳せつつゆっくりと頷いた私に満足したようで「僕は部屋に戻る。は早く休むように」と言って背を向けた。
 ぱたん、と扉の閉まる音がエントランスに響いて、夜が戻ってきた。そこでやっと、全身に滞っていた息を吐き出せたから存外緊張していたことに気付く。
 こんな突拍子のないイベントが発生する可能性があるとは考えてもみなかった。
 深く息をすると、新鮮な空気と一緒にくるりと頭も回り出す。考えなしに走り出す私に、ディルックさんは「なんでもする」という言葉により発生する「想定外」を身をもって体験させてくれたということ。遅まきながら理解させられた。
 ということで、私はワイナリーのみんなへの日頃のお礼の仕方を再考せざるを得ないと考えを改めたのだ。
 ——だけど、だからってわざわざディルックさんと私がハグをする必要、なくない?
 背中にゆっくりと、けれど強く触れた手のひら、寄り添う熱を思い出す。夜も謎も深まるばかりである。


「ああ、そうだ。、これを」

 洗濯されたシーツみたいにすっきりと晴れ渡った翌朝。ディルックさんは出掛けにわざわざ声を掛けてくれた。記憶は洗濯なんてされていないから夜のことが染みついたままで、どんな顔を作ればいいかわからず微妙な顔で振り向く。
 昨日からずっと、拭いきれない楽しさがポーカーフェイスのうえに滲んでいる。

「ちょっと待ってください! これ、なんで」
「なんでもしてくれるんだろう?」
「えっいや、でもディルックさんが昨日考えろって……」

 言ったじゃないですか……と呆然と口にする。だって、幻が息をしている。

「ああ。けれど、僕はもうすでにこのチケットをもらっている」

 差し出されたのは紙切れ。意味もなにもなくなったはずなのに、一筆追加されたことで予想外に特別になってしまった。
 昨夜、ディルックさんが身をもって示してくれた注意喚起、のはずだったものがまた紙の上で踊っている。うつくしい文字だからといって、記載内容までそうかといったら別物だ。
 チケットを返してもらった記憶はないのだから、間違ってはいない。けれど、ゴミ箱行きだと思っていたものが不死鳥のように舞い戻るとは思わない。
 「僕の持ち物なら使っても構わないだろう」と宣う姿に戦々恐々とする。夜をなぞるように「なんでこんなことに!」と投げ掛ければ、ディルックさんはとける炎のような色の瞳を和らげた。色と同じ熱が見えた気がして。

「僕は性格が悪い男でね」

 では、また夜に。と絶望的な期待を手渡されて呆然としている間にディルックさんは出掛けて行ってしまった。しかも、チケットに成り上がったものは懐にしまわれてしまったので、証拠品を消すことも不可能。
 否定も取下げもできず、私はどんな顔をして夜を迎えればいいのか? 答えはない。このままだと本当に週刊誌にすっぱ抜かれる運命かもしれないと暗澹たる気持ちになった。
 後ろからくすくすと笑う声。アデリンさんが、全てを知っていたというように、にっこりと笑っていた。

「ほら、なんでも大丈夫だったでしょう?」