やさしさの堅さ



 自慢じゃないが、まずこの部屋に勝手に入っていい、という部分だけでだいぶ心を許されていることはわかる。新調されたふっかふかのソファに身を沈めながら思った。
 カリカリとものを書く音が響く。ソファ越しにデスクに向かっているクラピカを眺め、名前を呼んでみるも返事はない。いつものことだ。
 淀みなく動かされていく指先に握られているのはちょっと高そうな万年筆。いや、実際割と高かったんだよ。何を隠そう、私が昇進祝いの名目で渡したんだから。

 「無駄なものはいらない」だったり「普段使えるものにしろ」とバッサリ切り捨ててくるあたり、容赦ないなこいつ!と憤った。人が(勝手にだが)プレゼントするものを無駄って! でも、逆を返せば有用性があればクラピカは必ず使ってくれるということだ。まあ、なんだかんだ根は優しいこの人のことなので、無駄なものだってひっそりと持っていてくれるだろうことは知っている。
 マフィアの若頭に何をあげればいいんだ、と一マフィア構成員となってしまった私は考えていた。安物をあげるわけにもいかないし、かつ、私が有用と考えるものをクラピカが有用と考えるかという部分も難しい。
 例えば、私が居座るクラピカの執務室のソファ。綺麗だけど、座り心地としては合格点を出しにくい硬さの残るものだったのだ。あとちょっと埃っぽい。主人がいなくなって長らく経った、古いお屋敷みたいなにおいがする。

「ソファ、もっとふっかふかのやつの方が良くない?ちょっと硬いよこれ。客人通すならもっとふかふかの方が受けがいいよ多分」
「受けなどなくて結構だ。硬い椅子の方が回転率があがるだろう。用が済んだなら早々に立ち去ってもらいたい」
「ここはファーストフード店か」
「逆に、君はこの部屋に何をしにきているんだ。椅子の硬さが気になる程ここに居座っているのは君くらいだ」
「私だけか!ふはは」
「笑い事ではない」

 あの時、「そんなに暇なら仕事をこなせ。全く君はいつもいつも……」って怒られた。やるべきことはやった後でちゃんと来てるんですけどね。
 まあそれは置いておいて、私にはソファは有用性の高いものだったが、クラピカにはそうではなかったらしい。私とクラピカの間での有用性はイコールではなかったのだ。閑話休題。

 何をあげようかなぁ、と悩んでいてバショウさんにもセンリツにも、リンセンにも聞いてみたりした。でもみんな揃いも揃って「が考えて、プレゼントしたものならなんでもいいんだ」と言う。私が考えて私がいいと思うものを渡すとなると、それはきっとクラピカが望むものではない。私が普通に渡したいと思うものは有用性を除いたとしても、あまりクラピカの趣味に合うとは言えないと思う。なので、超が付くほど無難なものになった。それが、彼が現在進行形で酷使している万年筆だった。
 あげたときも「礼を言う」とサラッとクールに言われただけだったけど、私は知っている。センリツが耳打ちしてくれたのだ。クラピカ、とても嬉しそうな心音がするわ、って。
 バショウさんがクラピカをつつきに行った時、彼が「……大切にしよう」と小さく呟いてくれたこともバショウさん本人が教えてくれた。私には心音は聞こえないし、耳が特に良いわけでもない。話術が巧みで誘導ができる情報収集の達人でもない。それでも、みんながクラピカの話をバシバシしてくるから、私は何もせずともクラピカ情報蓄積機になっていた。私はクラピカオタクか。そしてそのクラピカオタクの出した結論は、なんだかんだ、クラピカは甘々野郎なのだということだ。

 ただ、その甘々野郎も仕事中となると、激辛に変わる。ので、私がここに存在していない体で、スルーして仕事を続けるのだ。仕事ができる人には仕事が寄り付く。すごいことだと思うし、尊敬もする。
 私はサボっているように見えるかもしれないが、別に仕事をしたくない訳でもない。いや、したくないけど。クラピカが「もういやだ、仕事なんて放って旅に出てやる!」と言ったら喜んで変わってあげよう。そのつもりがあるし、前に進言したこともあるのに彼は自分がやることだと突っぱねた。人に頼るということをあまり上手くできないヤツなのだ。不器用ここに極まれり、カッコ、人を頼ることに関してだけ。
 変なところで意固地なクラピカに何を言っても無駄なのは身に染みて分かっているので、彼がヘルプを出すまで待つことにした。この執務室にて。私も諦めたし、クラピカももう諦めたみたいだった。私がどれだけこの部屋に居座ろうと、眉ひとつ動かさなくなった。まあ、手持ちの仕事が片付いていることが前提条件なのはもちろんだけど。
 それはそれで、少しつまらないというか、寂しいというか。なんだかんだお小言を言われながらも、構ってくれるということが嬉しかったのだが。別に邪魔をしたい訳でも、なんでもないんだけど。儘ならないなぁ、なんて思いながら背凭れに全体重を預ける。
 このソファ、ふかふかすぎるんだよ。ふかふかが良いって言ったのは私だけど。柔らかすぎるそれは「まあまあ、とりあえずゆっくりしていけば」とでも言うように支えるということを放棄した。ソファが柔らかすぎて私の体重を支えてくれない。寝転がるようにズルズルと、下に体が滑っていく。最終地点まで落下して、ふと一年ほど前の出来事がフラッシュバックしてきた。
 昔、パドキアに向かう列車のソファに沈んでいたクラピカを思い出した。これに似たやわらかさに負けて、ずるずる引き摺り落とされていたクラピカの、照れた表情が脳裏にチラつく。あのソファと同じくらい、新調されたソファは柔らかい。

「クラピカ」

 なんだ、とも、うるさい、とも返事がない。余程集中しているのか、シカトを決め込まれているのかは定かではない。やっぱり寂しい。
 ハンター試験の時みたいにもっと喋ってくれればいいのに。ゴンとキルアとゲームして負けまくってた時みたいにもっと不機嫌を前面に押し出して、やりたくないことは投げ出しちゃえばいいのに。レオリオと馬鹿やってる時みたいに笑えばいいのに。私に向かって困った表情で「しょうがないな」と言ってくれればいいのに。
 彼の、冷静なくせに、私たちだけに見せる喜怒哀楽のかけらが好きだった。最近あんまり見なくって、かけらはかけらでも本当に小さくなってしまったと思って。

「クラピカ、私、好きだよ」

 そんなことを思っていたら、つるんと口から言葉が滑った。唐突に告白してしまった。しかも相手は聞いてすらいないのに。こんなアホみたいな体勢で。口が滑るってこういうことを言うのかと実感した。まじか、と両手で顔を覆う。
 しかも、主語がない。これじゃあ普通に告白じゃないか。聞かれてもいない告白は、とても滑稽に感じられて羞恥心を加速させていく。今ここにセンリツがいたら、ギョッとするかもしれない。そのくらい恥ずかしくて、鼓動がおかしい。聞かれていても困るし、聞かれていなくても恥ずかしい。どっちに転んでも私は負けていた。

「ああ、私もだ」

 追い立ててくる羞恥心から逃げ回ろうと、一人ソファでもんどりをうっていた時だった。びっくりしすぎてひっくり返るかと思った。
 あまりにも。あまりにも柔らかいトーンでそれが聞こえてきたから、耳を疑った。私の耳、ちゃんと機能してる? 幻聴なんじゃ、と思って、耳を引っ張ってみたりとんとんと軽く叩いてみても、特に変わりはない。健康な耳だ。
 つまり、さっきの言葉は幻聴じゃない。そこまでに辿り着くまでに長い時間が掛かった、と思っていたけど、体感が長かっただけで全く時間は経っていない。落とされたものが幻じゃないと分かった私は思い切り勢いを付けて起き上がった。低反発のソファはそれを手伝いはしてくれなかったが、それでもクラピカを急いで見遣る。
 しっかりと表情が見える訳じゃない、でも確実に見たことのない顔をしていた。声のトーンと同じくらい、それ以上にやわらかい。笑顔だけど、気分で選んだお昼ご飯がおいしかったとか、お給料がいつもよりたくさん貰えるとかそういうのが要因じゃない。
 どちらかと言えば、作った料理がしょっぱすぎるねって言い合って笑えるとか、多くもらったお給料を何に使おうかって一緒に思案できるとか、そういう、誰かと何かを共有できることに対してしあわせを感じられるような。
 私の生活の中心、思考の真ん中にえげつない程食い込んでくるこの男は、今まで私が見たことのない人に変化していた。

「く、くらぴか?」

 確認するように呼べば、ヤツは久しぶりにこちらを向いて、自分でも何を言ったかわからない、と言った風に瞬いた。自分は何かおかしなことを言ったか? いつも通りだが? みたいな顔ね。
 いつも通りじゃないからな!と私はその綺麗な顔に指を突きつけて言ってやりたかった。私だけ動揺しているなんてフェアじゃない! だって、あまりにも自然に滑り出したそれは、まるで普段から染み付いていた想いのように聞こえてしまう。
 それから、言葉を自分の中で噛み砕いて飲み込んだらしい。ゆっくりと目を見開いて、わなわなと唇を震わせる。動揺を隠すように手のひらで口元を覆った。女の私より白いんじゃないかと思う肌が首からゆっくりと、熱の色に侵食されていく。それを見ていて、事の発端の私も自分がその色に浸っているのに気が付いた。

「クラピカ、今の、え、あれ……え?」
「す、すまない」

 一体何に対しての謝罪だ。そう問いかけたいのに、クラピカがあまりにもらしくない表情をしているから言葉に詰まる。お互いがお互いを意識しすぎてよくわからない空気が出来上がる。息が苦しくなって困った。

「すまない、こんなつもりでは」
「いや、大丈夫、うん、私もこんなつもりでは、なんか……ごめん?」
「君は何に対して謝罪をしているんだ」

 一転して、不機嫌さを醸す言葉を発したクラピカに、私は体を硬くした。いやそんなこと言ったらクラピカの方がね?! 先に謝り始めたのは彼であり、私ではないはずだ。なんだってんだ、勝手なヤツだな!
 眉間をきゅっと狭めていたクラピカは、長い溜息を吐いてから立ち上がった。

「私の“こんなつもりでは”は、“こんな風に伝えるつもりはなかった”というだけだ。君の謝罪はその意図ではないだろう、
「えっ……とね、なんか変な空気にさせてごめんというか……一旦落ち着こう、クラピカ。吸って、吐いて!」
「落ち着くべきなのは君の方だろう。私は落ち着いているさ」

 一番上までしっかりと留めていたシャツのボタンを外す。今日の仕事は一旦区切りにしたらしい。自然な動作で私の隣に腰掛ける。ふかふかのソファは重みに従って、一人分沈んだ。
 隣に来られるとまた緊張するというか。私の内心だけ変わらず、クラピカは平静を取り戻したような静かな色を肌に落としていた。こういうね、すぐ冷静さを取り戻すところね、変わらないよね。そういうところを悔しく思うし、でもだいぶそのスピード感が早くなっているところを寂しく思う。

「わ、私だって落ち着いてますとも?さっきのはクラピカがどうやったら仕事を切り上げるかなって考えてて、口から滑り出た言葉というか、ね、うん」
「……やはりな。君は昔から無駄なことばかり考える」
「失礼な!私にとっては大事なこととか多いんだよ!クラピカにしてみれば無駄ばっかな私かもしれないけどさ!」

 むしろ大事なことしかない! 酷い矛盾を感じて荒波に揉まれたような声が出た。憤慨した私を見てもクラピカは特に慌てた様子も見せず、ただこちらを見ていた。
 視線に、ぐっと押し黙る。言葉の通り、落ち着け私。感情的な言葉で返したとしてもクラピカにはたき落されて終わるだけだ。落ち着くんだ。私が息を吐いてむっつりとしたのを見届けてから、クラピカはまた話し出した。

「確かに、君のすることは私にとってみれば無駄なことばかりだな」
「今日も今日とて容赦がなさ過ぎて逆に笑える」
「だが、にとって無駄ではないことは分かっている。私にもそう見える」
「……ん?」
「君を通すと、無駄なことが無駄に見えなくなることがある」

 なんて面倒な男なんだと思ったのは間違いではない。無駄なものはいらないって、自分で言ってたくせに。クラピカは私を通すことによって、自分の中の無駄の定義を書き換えるらしい。どんな告白だ。
 わかりやすいものだと、やっぱりソファだ。前のソファだってまだまだ使えたことを知っている。いくらか経ってから新調されたソファはふかふかもふかふかで、長居させる必要はないって言ってたのは誰だ、と思った。
 こういう、彼が発するほんの小さくやさしいシグナルを、私はどこまで汲み取ることができているのだろう。こんな風に言葉にしてもらわなきゃ、わからないことがあるのは必然だ。
 なんなんだよ、分かりにくいなぁもう。そう思いながら、また背凭れに体を寄せた。でも、今度は自然に下に落ちていかないように力を込めた。見事に腹筋だけで体制を維持する私、すごい。
 クラピカの方に視線を投げれば、私に倣うように背凭れに体を預けた。すると、どうだろう、私の思惑通り、クラピカはあの時のようにズルズルと下に落ちていくではないか。「お……くっ」と声を漏らしている様は最近では少なくなった幼さが現れていた。それが嬉しくて、私も重力に従ってずるずると下に落ちてみた。二人して、ソファに変な体勢で乗っている。楽しくなって少し笑って、そのままクラピカに視線を合わせて先に続く言葉を口にした。

「クラピカ、分かりにくいんで、分かりやすい言葉にして欲しい」

 精一杯の強がりだ。恥ずかしさへの対抗手段。本当は前からきっとわかっていた。些細なこともそうでないことも、拾っていけばわかる。私はもうクラピカの思っていたことも、自分が思っていたことも集め終わっていた。
 そして、私の出した結論上、クラピカは甘々野郎なのだ。だから言葉を変換してもう一度言う、なんて無駄な行為も、彼はしてくれるだろう。

「君は、本当にしょうがないな」

 そう言ったクラピカの瞳のふちは溶けている。そうなんですよ、私しょうがないんですよ。だから、ちいさな欠けらだけじゃなくて、たまには大きな塊をぶつけて欲しいと思う。

「友人や仲間という意味ではもちろんだが……それ以上に、君のことを大切に思っているよ、

 そうすれば、心音が聞こえなくても、情報収集の達人じゃなくても、クラピカのことを知っていられる。普段は私が取りこぼさないように拾うから、たまには発信して欲しい。私が誰よりもクラピカのことを知っているために。
 このソファがここにある意味を私だけが知っている。もうきっと、あの列車にだって乗らないだろう。それでも、今までの思い出は私の中にあって、やさしさは私の隣にいる。

「……まあ、私も同じくなんですけどね」

 クラピカが私たちにだけ見せる喜怒哀楽のかけらが好きだ。クラピカが、私だけに聞かせた本音の形を、私も大切に思う。そして何より、私もクラピカのことを仲間以上に大切に思っている。
 その気持ちを込めて、でもやっぱり少し恥ずかしいので素直半分、照れ半分で回答した。すると、クラピカはまたも珍しく破顔して、私の方に手を伸ばしてきた。頬に触れる指先は優しい。

「血色がいいな、首まで赤い。ここまで照れているということは、前向きな返事と捉えて問題ないか?」
「そ、そうじゃないんですかね……」
「……、分かりにくいので分かりやすい言葉にしてくれないか」

 私と同じ言葉を使い回すクラピカは嫌なヤツだなと思った。人のやり口真似するなよな! だから、私は真似せず「語彙力が足りないので翻訳無理です」と返してやった。ら、クラピカは怒るでもなく空気が抜けたように少し笑った。
 クラピカが今日はよく笑う。私はそれに酷く安心して、とても嬉しくて、ソファのやわらかさに身を委ねたのだ。この後「無駄なあがきはやめて、分かりやすく伝えた方が身のためだぞ、」と言われることをまだ私は知らない。若頭、こわいです。