真夏日、夜のこと



 つう、とこめかみを滑り落ちる雫を見て、私はなんだかいけないものを見てしまったような罪悪感に駆られた。クラピカはそれを雑な手つきで拭う。反射的に目を逸らしてしまったので、余計にその感情が強くなる。暑さで頭がやられてきているのがよくわかった。
 誰だこんな状況を作り出しているのは、と言いたかったが誰も悪くないので声に出せない。猛暑の中、ガンガンに稼働させていた空調がぴたりと止まったのは夜が始まる前のことだった。
 運が良いことに、運が悪いことに、今日はみんな出払っていてここに居残っているのはクラピカと私のみだった。珍しいことでもなく、ましてや嫌なこともない。けれど、急かすような熱のなかに二人だけでいるのは、なんだか心許なかった。

「空調、いつ直るんだっけ」
「明日の午前中には修理に来ると言っていた。今はどこもかしこも修理の依頼だらけなんだそうだ」
「この暑さにやられてるのは人間だけじゃないってことだね……」

 輪郭に沿って、汗が流れたので手の甲で拭った。まだやらなければいけないことは山ほどあるのに、明日の朝まではこの暑さに付き合う必要があるらしい。なんてこった……と、ため息を吐いていると、横から視線が刺さるのでそちらを向く。他に誰もいないのだから当たり前のことではあるが、クラピカの青みがかった瞳が私を刺していた。
 しっかり交わった視線をそのままに瞬けば、勢いよく顔を逸らされたので、どきりとした。また何かやらかしただろうか、と不安に思いながらクラピカを見つめれば、露わになった耳の端っこが少し赤い。ああ、そうか。この人も暑さにやられているクチだ、クラピカもボーッとすることがあるんだなと納得した。


 春のおわりと、夏のはじまりがどこにあるのかなんて、誰にもわからない。そのはずなのに、最近の熱量は季節の変わり目を確実な線にしてしまって、目に見える切り込みを入れている。ただ、それは事後報告でしか知らされないので、みんな夏の準備を怠ってしまうんだなあ。
 彼の性格通りの服の着こなしを見ながらそんなことを思う。気温にも湿度にも負けず、クラピカはきっちりと首元までシャツのボタンを締めている。二人しかいない部屋なのに、律儀なやつだなと思った。
 そんな私はといえば、襟元のボタンを二つほど開け放ってしまっている。自分のシャツの襟はしをちらりと見ながら問い掛けた。

「クラピカ、暑くないの?」
「……暑いに決まっている。そんなこともわからない程、思考力が低下しているのか、君は」
「辛辣すぎてびっくりする」
「君が当たり前のことを聞くからだろう」
「だって、なんでこんなに暑いのにちゃんとボタン締めてるのかな、って。ちょっとくらい外しても誰も怒らないよ」

 外せば? もとよりクラピカのことを怒れる構成員なんていないに等しいんだから。そう口にすれば、この部屋の湿度と同じくらいじっとりとした視線を浴びた。な、なんで? 訳がわからないという顔をした私に、クラピカはわざとらしく息を吐いた。空気に馴染んで、それは床の方に落ちていく。
 それから、暑さを振り払うようにシャツの一番上のボタンを片手で器用に外した。緩んだ首元と不服そうな顔を見て、私は勝手によかったと思った。

「これで満足か?」

 問われたので素直に頷く。また小さく息を吐いて、そのまま机に向き直ったクラピカの頬にまた一筋雫が落ちる。先ほどとは違い、拭おうともしないクラピカに、私が慌ててしまう。滑り落ちるその様は先ほどと変わらず、何か色めいたものを含んでいるように見えたのだ。手を伸ばせばすぐに触れられる距離にあるのだ、クラピカがそうしないなら、私がしよう。
 軽い気持ちで触れた頬は熱かった。避けようと思えばできただろうし、嫌ならばそうしただろうから、私は戸惑わずに触れた。つう、と流れ落ちた方向とは逆に指を動かせば一度、クラピカは肩を震わせた。濡れた感触に安堵を覚える。私が触れてしまえばなんてことはない、ただの暑さへ抵抗する印だとわかる。
 私は何に焦っていたのか、一人で勝手に慌てて安堵する。そうして自分勝手に指を離そうとすれば、それを制するように、クラピカは指先を手のひらで包んだ。今度、肩を震わせたのはこちらだった。

「えっ、な、なに」
「なに、ではない。いつも思うが、今日はいつにも増して思う。君の行動は突拍子がないし、ついていけないよ」
「わ、私だって、クラピカに驚かされること、多いよ。今だって、」
「今だって?」

 不機嫌というには、少しばかり冷ややかさが足りない。面倒というには、少しばかり熱が含まれすぎている。どちらかといえば、これは。
 そこで一度言葉を切ってから、繋がる指先が強い力で引かれる。熱に浮かされている私は、抵抗するすべもなくぐらりと体勢を傾けた。クラピカはゆっくりと、私に言い聞かせるように言葉にした。後頭部がくらくらと揺さぶられた気がした。

「煽ってきたのは、君だろう」

 瞳をすうっと細めてこちらを真っ直ぐに見る。その中に、暑さとは異なる熱が灯ったことを知る。
 再度、私の輪郭に沿って流れた雫にクラピカがゆっくりと口付けた。触れる吐息はとてもあついのに、唇だけはとてもひんやりしていて、胸の奥がぎゅうっと締め付けられる。
 一番上のボタンまで締め切っていたのは、クラピカなりの戒めだったんだとわかった。解いたのはもちろん私だった。それから、内包した熱の膜を突いて破ったのも。
 指先から手首へ、つたう手のひらは柔らかい。どこを触れられても、そこから侵食するように熱が入り込んでくる。私たちの背中を押し、急かすように夏の空気はゆらゆら動く。
 私たちは二人とも、夏にしてやられているなあ、と輪郭を持たない熱の中で思った。