寄り添うこわさ



 風の強い日だった。窓が唸るような音を立て攻め立ててくる。畳が敷かれた部屋の真ん中、一組の布団の上で彼女は頭を抱えていた。一夜恐怖と戦うか、明日一日中お叱りを受け続けるか。どちらも嫌だ、けれど背に腹は変えられない。それならば、後者を取るしか道はなかった。

 出張だ、ということでクラピカと共に足を運んだ東洋の国への道のりは遠かった。飛行船と電車を乗り継ぎ、現地へ着いたのはとっぷりと日が暮れた後だったので、予定通り宿へと直行した。
 宿はジャポンの旅館を模したもので、作りはしっかりとしているが年季の入った建物だ。ずっしりとした木で設えた梁はあたたかみを持っていて、少し懐かしい気分にさせる。それは彼女の故郷のものだったからであろう。
 クラピカもお気に召したらしい。普段なんだかんだと小言が多い彼の口からは「いい宿だな」という言葉がこぼれ、満足がほんのりと口元と目元に表れていた。夕食は共に取り、風呂に浸かって懐かしい浴衣を身に付けた。クラピカの方は慣れない浴衣だった故か、珍しく襟元がよれてへにゃへにゃとしていたので整えてあげれば、仏頂面で返された。
 クラピカと明日の予定を軽く確認し、それではまた明日、寝坊などしないようにと言い含められてからそれぞれ部屋に戻った。足早に部屋に戻るクラピカに、そんなに疲れていたのかと思ったが、たしかに長旅であった。ゆっくりと近づいてくる眠気に彼女も抗わずに自室の扉を開いた。そこまではよかったのだ。……そこまでは。


 合法的な、とは言ってもマフィアに所属しているし、ゾルディック家の試しの門だって開けてみせた。念だって使える。腕っ節にはある程度の自信がある。けれど、それとこれとはまた別の問題であった。彼女は、お化けの類いが得意ではなかったのだ。
 寝る前に、ジャポンにいた頃からの癖で、部屋を華やかに彩っていた掛け軸の裏側をめくって見た。すると、どうだろう。あってくれるなと願っていたものがあった、お札が貼ってある。つまりそれは、この部屋で何かがあった、もしくはこの部屋に何かいる、ということだ。彼女の背筋がつうっと、氷に浸した指先で撫でられた。一先ず、急いで布団を被ってみたが、追い討ちをかけるように窓ががなり木々がわななくのだ。幼い子供の泣き声のようなものが聞こえてきた時点で、もう耐えられなくなっていた。
 意を決し、部屋を飛び出し隣のクラピカの部屋のドアを遠慮なく連打した。なかなか開かない扉に、もうクラピカは眠ってしまったのだろうかと絶望感が心に浮かび上がる。そんな、叱られる決意すらして来たというのに。
 滅多なことでは出張ってこない涙さえ浮かぶ始末で、半泣き状態のままドアをもう何度か叩けばゆっくりと扉が開いた。扉の隙間から見えたクラピカには後光が差しているようにすら見えたが、顔はどちらかというと般若であった。お化けより怖いのではないだろうか、重苦しいため息が彼女の肩に乗る。

「……お前というやつは、何のつもりだ」
「ご、ごめん。ごめんって、ごめんなさい」

 やっぱり戦う意志を捨てるのは早かったかもしれない。これでは、追い返され泣く泣く部屋で一人恐怖と戦いつつ、明日はお説教が続くやもしれないと彼女は察した。
 クラピカが女性に対して「お前」という二人称を使うのは彼の琴線に触れてしまった時だけだ。どんなに長い付き合いだとしても、彼はそういうところは紳士であった。言葉の端々に感情の揺れが見える。
 けれど、彼女とてこの状況をわかっていながらも部屋を訪ねたのだ。とにかく、部屋に戻るのは翌朝にしたい。明るく太陽の照らす時間帯でなければ、もうどうしようも太刀打ちできない。わなわなと震える彼女に、クラピカはその整った眉をしっかりと寄せたが、もう一度大きく溜息を吐きながらも部屋へ招いた。良くも悪くもクラピカは優しい。

 部屋に入るやいなや、彼女はまず、掛け軸の裏を確認した。身の安全と心の安全が確保できるかどうか、確信を持ちたかった。どちらにせよ、クラピカがいてくれるというだけで、ぐずぐずに崩れていた自分自身の形を保てるようにはなっているのだが。
 突然掛け軸に駆け寄った彼女に、何をしているのかとクラピカが尋ねてきたので自室で起こったことをそっくりそのまま伝えてみた。すると、彼は体調でも悪くなったのかと思うように力なく、壁に身を預けた。それから手で目元を覆って言った。「そんなことのために、部屋を訪ねたのか」
 彼女の中の重要度とクラピカのそれは噛み合っていなかった。

「そんなことじゃないよ、掛け軸の裏にお札なんて……曰く付きも甚だしい!」
「だからと言って、こんな夜更けに部屋を尋ねるやつがあるか!」
「だってこのままじゃ、明日の仕事にも響くと思って……寝不足で」
「……部屋を尋ねたことは百歩譲るとしても、お前は……男と部屋を共にすることがどういう意味を持つか、理解しているのか?」

 ハンター試験でもあるまいし、仕事で強要された訳でもないのに男女が一夜を共にするなんて。クラピカが言いたいことが分からないほど、彼女は鈍感ではなかったが、些細なことを気にできるほど繊細でもなかった。長年連れ添った仲間だ、今更一緒の部屋にいようとどうってことはない。それが彼女の正直な気持ちではあったが、気心が知れているからこそ、言葉の選び方が良くなかった。

「まあ、でもクラピカだし」

 そう彼女が口にした瞬間、クラピカの瞳が鋭さを持った。重たい足取りで、彼女の方へ向かい浴衣から伸びた腕を取った。

「うわっ、え、ク、クラピカ……?!」
「いい機会だ。お化けなどより、気にすべきものを教えてやろう」

 腕を引く力に、熱に、地雷を踏んだのだとやっと気付いた。けれど、もう遅いのだ。気付いた時には、クラピカの背に頼りない豆電球のぼんやりとした灯りが見えた。彼女の部屋と同じ場所にぽつりと敷かれた布団の上に、自身の体が横たえられている。ぎゅうっと、皺が集まっていく眉間とゆっくりと上下に動く喉仏を見た。
 ごうごうと窓の外は荒れている。縋るような音は未だに続いているのに、もうそんなことは意識の範囲外にある。耳のすぐ側で鼓動の音が聞こえる。こんなことになるなんて思っていなかった、そう思ってももう、遅い。