やさしさの置き場



 しくじったのだ、盛大に。しくじったのだ、任務を。

 幸い、任務を継続すること自体は可能であった。けれど、しくじったことに変わりはない。ほんの少しの気の緩み、けれど仕事柄、それが最大の危機となる可能性があることを知っていた。
 だから、クラピカの怒りという名のカミナリが落ちるのは、もちろんのことだと思う。甘んじて受け入れよう。これは完璧に私の失態なんだから。

 けれど、どんな大きなカミナリも、冷えに冷えた視線も、それは仕事中だから受け入れられるのだ。プライベートも、となると話が違ってくる。
 なあにが嫌って、家でもあの不機嫌さんと顔を突き合わせなければならないことだ。
 玄関の扉を潜ったクラピカの表情には、やはりむっつりと不機嫌が刻まれていた。その顔で帰路を進んできたというのだろうか、こわい、こわすぎる。道ゆく人に謝ってほしいレベル。

「……クラピカ、」

 一言も発さずに私の横を素通りした彼に背筋を冷やされている。
 まるで部屋に誰もいないかのような素振りをするので、ソファ越しに同居人を見てそろりと、口を開き名前を呼んでみた。
 クラピカは身に纏っていた時計やらタイピンやらを、キチンといつも通りの場所に置いていく。キャビネットの上に几帳面に並べられた小物たちは、彼の性格をよく表していると思う。
 その最中も声は届いているはずなのに、背中はうんともすんとも返事をしてくれない。こわいったらない。

「あの、クラピカ……、」

 上着をハンガーにかける衣擦れと金属が擦れる音。それらが私の声より主張して聞こえた。もしかしたら、気持ちがしわしわに萎んでしまっているせいで、声帯まで萎縮しているのかもしれない。
 そう思い自分を奮い立たせ、先ほどより大きな声を絞り出す。

「あの、クラピカ!」

 糠に釘、暖簾に腕押し、濡れ手で泡。
 そんな言葉がよく似合うと思った。いや、今のは聞こえたでしょ。僅かに肩が揺れたのが見えた。それなのに、テコでもこちらを振り向かないということなんだろうか。返答はない。
 なんだろう、もともとは私のせいだ。それはわかっている。けれど、何度も名前を呼ばれているのにスルーとはいい度胸だ。表に出てほしい。いややっぱり怖いから出なくていい。
 でも、少しくらい皮肉ったっていいかと思わせるには十分な態度だった。(ただし、こういう気持ちになった後は後悔することが多い。だって明らかにクラピカの方が弁が立つのだ)

「クラピカ、もしかして執務室に耳でも忘れてきた?それか、その年でもう耳が遠く、」
「お前は、私を怒らせるのが好きらしいな」

 私の言葉に間髪入れずに返されて「やっぱり聞こえてるじゃん!」という気持ちと「やべ、やっぱ聞こえてた!」という気持ちがない混ぜになった。
 けれど、やっと言葉を返してくれたクラピカにほんの少し安堵する。いくら言葉を向けても、うんともすんとも言ってくれない相手と空間を共有することは、なんともしんどいものだから。

「やっぱり聞こえてるじゃん」
「少しも反省の色が見えない部下を相手にするほど暇ではない」
「いや、待って。反省はしてるし、自分でもあれはないと思うし悔しいよ。次はない」

 次はない。もしも同じようなミスを犯したら、その時には私の命はないかもしれない。そう思っているのは本心だ。もしかしたら、自分だけでなく大切な仲間を危険に晒すかもしれない。わかっている。
 私の言葉がやっと耳に届いたらしいクラピカは、ゆっくりとした動作でこちらに振り向いた。視線がかち合えば、私の心のうちを探るように瞳がまるっとその形をなぞっていく。
 ぴん、と張り詰めたような空気を崩したのは、クラピカの大きなため息だった。ひどく疲れたような素振りをしながらも、彼は口を開く。

「お前が口にしたことを疑っているわけではないが」
「ないが?」
、お前はいつも…………ああ……いや、なんでもない」

 たっぷりと設けられた沈黙の隙間に、彼の本心を見た。瞳の奥できゅうっと縮みこんでいた心情の色が、やっと見て取れた。言葉ではひとつも表そうとしない、やわらかな気持ちがそこかしこに落ちていた。
 クラピカは、私のことを心底心配してくれていた。いや、そんなことは分かりきってはいたのだ。気持ちの表現の仕方がとてつもなく下手な彼は、心配という感情を怒りに変換して発露させてしまう。
 それが、あのカミナリであり、冷めた視線に紐付いていくことなんて、分かりきってはいる。まあたぶん、純粋な怒りももちろん含まれてはいるけれど。
 普段はポーカーフェイスがうまいけれど、ここは自宅。気持ちが一番緩む場所だ、彼も、私も。
 だから、クラピカのやわな感情を拾えた。でも、だからこそ、この場所ではその表現方法のベクトルを、いつもとは違う形にして欲しい。

 すこし、ドキドキとしながら「あのさ、」と口を開いた。

「クラピカ。ここ、家だよ」

 反撃開始だ、と言わんばかりに私は言葉の輪郭を意識しながら口にした。
 それがしっかり届いたのだろう、クラピカは「なぜ当たり前のことを言ってるんだ、お前は」と心底訝しむように、眉間を寄せる。

「ここは家、私たちの家。それに……今は仕事中じゃないから、部下じゃないし」
 ゆっくり、当たり前のことを擦り込むように口にする。当たり前のことだけれど、どちらの場所も共有している私たちには、境界線が曖昧になるところ。
 だからね、クラピカ。少しだけ、
「だから……ほんの少しだけでいいから、」

 次の言葉を口にするのに緊張して、一度大きく息を吸い込んだ。

「いつもより、優しくしてよ」

 ぽっかりと、間が空いた。クラピカはその間、なにを言われたのかイマイチ飲み込めなかったように瞬いた。
 それから、はあ、と大きく息が落とされた。さすがに呆れられたのかと、少しだけソファの上で身を固くした。視線がどんどん下がっていく。
 呆れられているのなら、虚しいやら、悲しいやら、寂しいやら、恥ずかしいやら。一気に感情が襲いかかってきそうでこわかった。
 「……、お前は何か思い違いをしているようだが、」押し黙ったクラピカがやっと言葉を発し、空気がゆるやかに揺らされる。彼はソファまでやってきてそのまま腰を下ろした。
 それから、まっすぐとこちらを見て、落ち着いた瞳の色と一緒に話し出す。

「なにも私は、頭ごなしにお前に怒りをぶつけている訳ではない」
「それは分かってるけど」
「毎回、無茶をしでかすお前を見ていると、正直なところ気が気ではないんだ」
「……それは大変申し訳ないなと思ってるよ」
「そう思うのならば、改善を要求したいところだな」

 そう言われるとぐうの音も出ずに閉口するしかない。
 ……いや、でも無茶は私の専売特許ではなく、むしろクラピカこそと言いたい。けれど、今はそんなことを言うタイミングではないことも分かっている。やっと手に入れかけた柔和な空気を率先して壊す勇気は、私にはない。

「……私だって、そりゃ無茶なことしなくて済むならいいと思ってるし、心掛けてるよ。でも、任務になると、ちょっと熱くなっちゃうというか」
「お前の性格などとうに理解しているよ、。それを踏まえたとしても、もう少し冷静さを取り戻すよう心掛けてくれないか」
「わ、わかってるよ……いや、違うんだって!ちゃんと心掛けるけど、今はそういう話をしてるんじゃなくて!」

 どんどんクラピカのいつも通りの対応に流されていることに気付いた。この話はさっき執務室でもされたばかりなのだ。今すぐにでも改善できるなら私もそうすけれど、そうではない。
 それに、私がクラピカにお願いしたのは、お説教ではなく「やさしくしてほしい」この一点に限るのだ。

「いつも以上にやらかして、私も落ち込んでいるんです。お説教とか、どうやって改善するかとかは明日ちゃんと聞くから、」

 思いの丈を込めて息を吸う。
 そして行儀よくクラピカの膝に乗せられた手のひらに手のひらを覆いかぶせて、ぎゅうっと握り締めて、言う。

「やさしくしてくださいよ、今日くらい!……その分とびっきり甘やかしてあげるから!クラピカのことも!」

 思い切って言ってやった。削れてしまった心の表面から、じんわり染み込むようなやさしさを与えてほしいのだ。
 けれど、前半はともかく、後半は高確率で「結構だ」と即答されると予期していた。けれど、どうだろう。待てどもキレのある言葉は飛び出さない。
 瞬いてクラピカの方を見遣れば、何やら悩ましげに眉間に皺を作っている。そんなふうに押し黙るくらい優しくするのもされるのも嫌だというのだろうか。それは削れた心が消滅するくらいにはショックなので勘弁願いたい。

「ク、クラピカさん?」
「……お前というやつは、……お前の素直さには感服すらするよ」
「え?褒められてるの、これ。あ、ありがとう……?」

 素直にお礼を言えば、とうとうクラピカは手のひらで額を覆った。そんなに嫌か?
 ひとり、心のふちがどんどん真っ暗闇に吸い込まれていくような心地を感じる。握りしめた手のひらから伝わる温度だけが私を繋ぎ止めている錯覚すらする。
 けれど、この雲行きは、なんだか手を離した方がいいように感じた。だって頭抱えてるし……。承諾を得たわけではないけれど、やさしくして、と頼んだのに真逆だなんてあんまりだ。
 重たい気持ちを抱えて、絡めた指先を離そうとした時だった。

「えっ……、な、なに」

 離そうとした私に反して、クラピカが指先を強く絡め取ったのだ。指先から手のひらを伝い、見た目に反して強い力が私を呼んだ。
 それは私の戸惑いを受けても緩むことなく、むしろ「なに」なんて言ったことによってほんのり強まった。

「何、とはなんだ。お前が言い出したことだろう……やさしくしろと」
「だって、クラピカ、頭抱え始めるから……抵抗があるのかと思って」
「それは……」

 気まずそうに視線を逸らしながら「が求めている"やさしくする"という行為に見合う行動が私にできるのか、わからなかっただけだ」とそっと呟いた。
 普段ひそやかに添えられている優しさを、わざわざ形にするのは憚られるらしかった。クラピカの場合、優しさを優しさと思っていない節があるので、余計に表しづらいのかもしれない。

「普通ので、いいんだけど」
「普通、というものは人それぞれ物差しが違うだろう」
「ええっと……褒めてくれるとか、頭を撫でるとか、……好きって言うとか。普段全然言わないし」

 一通り聞いたあと、クラピカは好意を伝える言葉を口の中で転がしてみたらしい。そうして、ひどく不服そうな表情を作りあげた。
 クラピカの好意はわかりにくいから、言ってくれた方が嬉しいけれど本人にとってのハードルは山のように高いのだ。
 自分の中で気持ちに決着をつけたらしく、クラピカは深く息を吸い込んでから視線をかちりと合わせた。

「……、お前は普段からよくやってくれている。センリツやリンセンもそう言っていた」
「え?!そうなの?!」
「ああ。熱くなりやすいところはあるが、その功績は目を見張るものがある。だが、先ほども話したが、考えなしの行動はほどほどにしてもらいたい」
「善処します……」
「お前の怪我ひとつ、悪報ひとつで肝が冷える。それを知っておいてくれ」

 ゆっくりとひとつひとつの言葉が大事に生み出されているのがわかる。繋がれた指先が、掬うように手の甲を撫ぜてきてくすぐったい。
 一呼吸おいて、クラピカは言葉を継いだ。

「仲間としても、……それ以外でも、だ。お前には私のそばにいてもらわなければ、困る」
 
 これで満足か、とむっつりとくちびるを閉ざした。言葉を継いでいくごとに、クラピカの首筋にどんどん朱が差していくこと。思っていた以上に寄り添ってくれた言葉。
 むずむずと口もとが緩んでしまいそうだった。ひとところに留まっていられないようなむず痒さと、胸の内から逸る熱。
 とどまることをしらない波のように私の感情を急く。けれど、散らかされた砂浜を波がさらって均してくれたようでもあった。胸の内が滑らかに丸まる。

「うん、……うん、ありがとう。なんか、夢みたい。あんなに怒ってたクラピカが、すごくやさしい」
「仲間の危機に、呑気な反応など返していられないだろう。それも、自分の想い人ならば尚更」

 やっぱり、私は夢でも見ているのかもしれない。明日、空から何が降るか予想もつかないくらいだ。
 クラピカが発したと思えない言葉の数々を両手に抱えて胸の奥の奥に押し込む。これだけで、当分は生き抜ける気がしてしまう私は現金だ。

「何を満足したような顔をしているんだ、
「……ん?」

 まどろんだ空気を享受していれば、やけに真剣な表情のクラピカ。絡められた指先はまだ解放されていない。
 それをうまく使って、彼は私を容易に引き寄せた。耳元に埋もれるような形で、秘密を共有するように呟いた。

「とびっきり、甘やかしてくれるんだろう」

 横目に見たクラピカの、すうっと細められた瞳は端っこが柔らかに歪んでいる。けれど、その奥にある光だけが煌々と輝いているように見えた。どんどん、溶けてしまうくらい熱そうな温度に。
 らしくない言葉、態度、その温度に頭が追いつかず、呆然としてしまう。クラピカ 、どうしたの、そんなことできたの?と言ってやりたいのに、鼓動が私の呼吸を奪っていってしまって、うまく言葉すら吐き出せない。
 瞬くのが精一杯の私にクラピカは、

「……冗談だ」

 ふっと笑みを漏らし、密に温度を共有していた体を離した。
 な、なにそれ。これ本当にクラピカなの? こんな風にされたこと、今までなかった。だからこそ、私の脳内は茹であげられてしまっている。それが、とても、とても悔しい。
 だって、さっきまでクラピカの方がはじめての言葉に羞恥を覚えていたと言うのに、これでは。

「なにそれ、ずるい」

 どうしても、悔しかったのだ。だから、今度はこっちから奪われてしまった体温を奪いにいった。
 ぐっと近付いて噛み付くみたいにくちびるを合わせてやれば、クラピカは瞳をまるまると見開いた。それから、ことを理解したのか首からじわじわと熱を昇らせた。

 ちゅう、とリップ音を残して名残惜しくもくちびるを離す。
 今度は私の勝ちだと大きく笑ってやれば、悔しそうにするので余計に愉快だった。そんな風に顔を歪めてもきれいなふうに見えるのがなんとも妬ましいくらいだ。
 「お前というやつは、」と口にするクラピカに嬉しさと愛おしさがむくむくと湧いて出る。
 けれど、私がこんな風に調子に乗ったようにすると、いつも後悔をすることになるのだ。だって、クラピカの方がやはり一枚上手なのだ。



 そっと触れられた名前は自分のものでないように聞こえた。
 普段より低く、甘やかに感じるその音程で私がなぞられる。背筋を撫であげられたような感覚に頭の後ろ側が痺れるように揺らされる。
 眉間に皺を刻んだ表情は、一見するといつも通りの不機嫌に見えるだろう。でも、私は知っている。胸の内に持て余した感情を含有したクラピカの、余裕のない表情。

「考えなしに行動するなと、言っただろう」

 言葉と同時に、私はソファの柔らかさに感謝することになった。目の前で、クラピカの瞳の奥の熱がじわじわと揺れている。
 覆いかぶさる熱も、手首を抑える力も、触れたくちびるも全てがやわらかで。いつもより、ほんの少しだけやさしい気がしたのだ。瞳の熱っぽさを、除いては。