"いつものふたり"が消えゆく夜に



 出張のために予約した宿は手違いで部屋が一つしか取れていなかった。

 ……なんて、ドラマの見過ぎだと思う。思うでしょう、私もそう思っていたのだから。ジャポンの旅館を模したところだから、とテンション高めに予約したというのに蓋を開けてみれば、男女一室。
 さあ、と音を立てて私の頭から血の気が引いた。これが、私のミスなのか旅館側のミスなのかを突き詰めるのはナンセンスだ。と、クラピカは務めて冷静に口にした。
 たしかにそうだろう。事実は目の前に敷かれている。二組の布団は、ぴたりとその裾を合わせているのに、私の口元はそれに反してむず痒く疼いた。

 宿泊の際、部屋は分けておこうと進言したのは私だった。
 クラピカと私の関係性が、名前をつけて然るべきものだったとしても、今回はプライベートではない。任務なのだから、そうあるべきだ!と声を大にした私に、
「あ、…………ああ、君がそこまで、言うのなら」
 クラピカは呆気にとられたように頷いた。勢いに押されたと言ってもいい。
 それなのに、なんという体たらく。人目がなければ自分のことをぶん殴ってやりたい。もはや人目があってもそうしたいくらいだ。
 それは、今回の件への懺悔でもあり、戒めだ。「別に一部屋でいいんじゃねぇのか? 任務の合間とはいえ、勤務時間外だろ」なんて、バショウは頬を掻きながら言ってくれたけれど、それでは私が困る。
 クラピカが忙しいのは百も承知の付き合いだし、これまでも仲間としてある程度の時間を共有してきた。だからこそ、私たちには決定的に、こういった関係での「ふたりだけの時間」というものが不足していた。
 それが今回の件の根本原因だ。不足があれば充足を求めてしまう。今までの反動で、心の奥底で煮凝った欲求が顔を出してしまわないか?
 私は、それに強くノーと言える自信が、ない。こんなことでは任務に支障をきたすのではとすら思う。呼吸を深く、肺いっぱいに酸素を溜め込んでゆっくり吐き出した。戒める必要がある、自分を。心に鍵をかけておくくらい、できなくてどうするんだ。

 ……なんて思っていたのに、だというのに!
 あたたかく作り込まれた食事も、身をとろとろにほぐし尽くしてしまう大きなお風呂の湯も、柔らかに整えられた布団も。それらひとつひとつに、小さくとも細やかに反応を手渡すクラピカにも。
 どんどん解かれてしまう。困った、こんな、こんなつもりじゃ、本当になかったのに。私は混乱の最中に突き落とされた。


 クラピカとの会話もそこそこに、ええいままよと布団に潜り込んだ。話し続けてボロが出たらまずいと思ったからだ。肉厚な枕に顔を埋めて目を瞑り、冷静になろうとしたら逆に聴覚が鋭敏になる。
 布団に吸い込まれた後すぐにしんと静まった私に呆れたのか、重い呼吸を落とした後、彼も布団に潜り込んだようだった。
 濡れたような呼吸の重み、衣擦れの音。隣にクラピカがいるんだって、芯から理解させられる。逆にまずい。
 雑念を振り払って、さっさと眠りに落ちたい。無心になるためには念仏でも唱える必要があるのではなかろうか。けれど、念仏なんて唱えていたら寝れないのでは?
 私は最悪で、頭の悪いジレンマに陥っていた。素直に寝たい。

 右に左に、振り払うように打った寝返りが幾度か、静寂が部屋を支配するのを見計らったかのようにクラピカが潜めた声で「、」と私を呼んだ。肺にきゅっと蓋をされたように感じて、即座に「っはい」と返してしまう。
 しまった、いろんな意味で、あまりに落ち着きがなかっただろうか。これ以上の失態が零れ落ちないように、口元にぐっと布団を引き寄せた。

「私は……君が不快に感じることをしてしまっただろうか?」

 もぞもぞとのたうつ思考の中に侵入してきた言葉は、未知のもののように感じられた。あまりにも、的からずれていたから。

「え、そ、そんなことない。いや、なんで!?」

 いや、たぶん、"なんで"を問いたいのはクラピカの方だろう。私の挙動不審を前に、ここまで口火を切らなかったクラピカの忍耐強さよ。申し訳ないったらない。

「この宿に辿り着いてから、妙にそわそわしてこちらを見ようともしなかっただろう。の機微に気付けないほど、鈍感ではない」
「そりゃ、そうだよね、ごめん。えっと……ちょっと待って、言葉の整理を、」
「ああ、いや、……すまない。今の言葉は卑怯だった」

 言葉の整理という名の言い訳考案会を即座に開こうと思った。すぐに解散宣告をクラピカから言い渡されて、まごついてしまう。私が謝ることはあれど、クラピカが謝る場面ではないことは確かだったから。
 けれど、そんな戸惑いが些細なことだったと思えるほどの出来事が継いで起きたのだ。叫び出さなかった自分を褒め称えたいくらいの。

「ぇ、」

 自分と同化した温度の布地に、ひっそりと混じったのはひんやりとした指先だった。ほんの少し指先が掠めただけなのに、一瞬温度を失くしたように冷えて、すぐに逆襲のように温度が上がる。反射的に、逃げ出したいと強く思った。
 けれど、そのまま逃亡も許されるはずなく、結局余すことなく五本の指は低い温度の餌食になった。

「君の様子がおかしな理由は、だいたい想像がつく」
「え、そ、そうなの?」
「ああ。ただ少し、気に食わない部分があったから……意地の悪いことをした」

 気付かれていた。彼は私の羞恥心を言葉と指先でもって撫で付けた。指の腹で確かめるようになぞられると、悪いことをしてしまったみたいで体がざわめきに鳴く。
 わざわざクラピカが私の頭を沸騰させようとしている、そうとしか考えられない。意地の悪いことは今も続いていると思う。本当に、彼が私の理由を汲んでいるのなら。

「君の気持ちもあると思った。けれど、そこまであからさまに避けられると、私にだって思うところがある」
「それは、本当にごめん……」
「まったくだ。もう少しこちらに意識を傾けても罰は当たらないだろう」

 いつものごとくお小言は飛ぶのだけれど、その口調の端は存外丸かった。
 言葉にしながら、ぐっと手のひらに力が込められた。まるで布団から引き摺り出されるような心地で、私はやっと鼻から上だけを布団から離脱させた。すると、クラピカとの距離が思った以上に近かったことに今更気づいて心臓が引き攣る。
 障子越しに差し込む月明かりはいやに明るく、彼のはちみつのような髪色に深く入り込むようだった。それのせいで、クラピカがこちらを見ていることがはっきりとわかる。わかってしまう。
 きっと、どんな女の子よりも月映えしているとどこか冷静さを取り戻した頭の片隅で思った。一度伏せたまぶたが震え、その下から覗いた瞳は切々とした熱を湛えて生々しく映る。

「あ、」

 なんで、私の理由がわかるのかと思った。クラピカは特になんとも思っていないはずだから、あの時も私に押し負けてくれたのだと思っていた。生真面目な彼の性格を思えば、私よりも仕事とプライベートは分けるだろうって。
 私のその認識は間違っていなかったと思う。けれど状況が変わったのならば、どうだろう。じわり、ゆっくりと変化していった指先の温度はどちらのものだったかもうわからない。



 先ほど自分を律しろと唱えた唇は、またむず痒く震えている。あの時、「君がそこまで言うのなら」と感心のない様を装った彼は、熱の灯った名前を口にする。
 自分と同じ色のものが、彼の目の縁をまあるく覆っているのが見えてしまう。これからきっと、ふたりで作った形を崩すだろう。はくり、とどちらともなく呑みこんだ呼吸は、夜の片隅に静かに消えていく。