指先からはじめよう



 ソファに横並びで座って、言葉は何も発さなかった。こわごわと、キルアは私の指先に触れた。ちょこんと、まずは爪の先に。それから、ゆっくりと形を把握するみたいに指の付け根まで進んできた。
 自分で触れたくせに、爪先がぶつかっただけでビクついたキルアにすこし笑いが漏れそうになる。だけど笑ったら本気で怒りそうだから、隠すことに私は必死だ。普段のキルアにならバレそうなその挙動も、今はバレない。なんていっても、キルアの方が必死だからだ。
 そんな様子をぼんやりと眺める。やわやわと触れている、その中でも親指が私の爪先をなぞった。あ、と思った時には遅かった。

「あ、」
「……なんだよ」

 思った時にはもう声が先んじていた。ぴくりと体を揺らしたキルアは平らな声で私に問い掛ける。まずい、これはまずい。思うだけに留めておけばいいものを、私のバカめ。
 なんでもないよ、と言っても、キルアは「気になるから言えよ」と先を促した。いや、だってこれ今考えるべきじゃないことだったから、多分キルア怒ると思うんだよね。そう私が内心で思っていても、目が急かす。ので、しょうがないから私は理由を説明するしかない。

「えっと……いや、爪伸びたなって思って。切らなきゃなーって思った」
「は?……ハァーーー?!今、お前、今、それ?!」
「だからなんでもないって言ったのに」

 このタイミングで、お前まじかよ、ふざけんなよな、とブーブー言うキルアを往なしながら、見つめる先の耳が色付いていることを知る。ごめんって。
 空気をぶち壊した私だが、悪いと思っていない訳じゃない。いつでもだいたい、余裕だしオレ?と余裕ぶっているキルアにしてみれば、とても頑張ってくれているのだと思う。
 キルアはきっと何かまずいことでもしたか、と不安に思っていたのだろう。それが結果、本当にどうでもいいことで腰を折られる。不安が解消された安心感と、何を心配していたのかという羞恥。それがあったことを耳の配色が雄弁に語る。

「ごめんってば」
「お前、そういうとこマジで腹立つ」

 本当にキルアのお腹の中では苛立ちやら恥ずかしさやらが立って走り回っているんだろう。耐えるように触れていた指先にぐっと力が入った。でもそのあとすぐに、キルアははっとしたように力を緩めた。
 そこで今度こそ隠せず口元をにやっとさせてしまえば、キルアは目をキッと釣り上げた。でもその威力も半減する。だって、耳からの赤い侵略者は頬まで到達している。
 溜め息を吐いてから、ぶすくれた声で爪切れば、と言われたのでその通りにする。これはヘソを曲げてしまったので、少し時間が必要だと思ったのだ。
 するっと抜けた指先に、心臓が元の位置に戻ったような感覚を覚えた。そのまま爪切りを取って座っていた位置に戻り、ゴミ箱を引っ掴んで爪切りをパチリとやる。爪切りとか、あまりにも日常に寄った代物を手にしたことで、私は気付いた。キルアのことを面白がっていたくせに、私も大概緊張していたみたいだ。そりゃそうか、腐れ縁みたいなものが関係を一新したのだから。日常には当てはまらない。
 それを考えると、やっぱりさっきは悪いことをした。今も現在進行形でキルアに対して悪いことをしている。不機嫌な沈黙にごめんねも込めて切り込む。

「キルアって、爪切ったりするの?」
「お前オレのことなんだと思ってんだよ、切るに決まってんじゃん」
「だって、肉体操作したらすぐ爪伸びてすぐ爪短くなるじゃん」
「ソレはソレ、コレはコレ。だって、走った方が早くっても車乗ったりするだろ」
「ええ、そういう話?」
「じゃねーの」

 なんだか、それとコレとはレベル感が違う気がするけどまあいい。機嫌が悪い方向に向かってないのでよしとする。
 でも、昔キルアの爪が伸びるのを見た時は手品かと思った。ゴンも最初はビックリしたよ!って言ってた。人間ってあんなことができるのか、と私も必死に指の先に力を込めてみたときがあったが何も起きなかった。その時は相当キルアに馬鹿にされた。悔しいぞ。まあ、にょきっと生えられても困るんだけど。
 相当な訓練の賜物だ、って話も聞いたけど、私の中ではやっぱり納得できない部分がある。だって、爪が伸びるのって、生きてるって感じがする。それを無理やり伸ばすって、

「キルア生き急ぎすぎじゃん」
「お前さっきから喧嘩売ってんのか?買ってやるよ」
「いや、売ってない!」

 自分から危ない橋を渡っていくスタイル。キルアの眉間がぐぐっと縮まって半目で睨む。機嫌をとろうとしていた私はどこに行った。
 伸びていた爪を切り揃えて、キルアがしたように撫でてみたらざらっとしていた。これはきっと今切るべきじゃなかった。と、後悔しても遅い。後悔は先には立たないものだ。爪のことなんて考えなければ、こんな変に難しい話が頭に浮かぶこともなかっただろうに。

 キルアの爪が伸縮自在なこと自体がどうだとか、その環境がどうだとか、そんなのはどうでもいい。ただ、前のキルアは確かに、その爪と同じようにごちゃごちゃだった。
 爪が伸びるって生きてるって感じがする。そう考えていたから、爪が伸びたり縮んだり、自由にできるということは生きるとか死ぬとかも自由にできてしまう印象を受けた。その実、キルアは命に対して重みを感じていない節が、最初はあった。暗殺者だったっていうのもあるだろうけど、それとは別に、他人と関係を築くことが極端に少なかったからっていうのも大きいと思う。

「キルアさん」
「ん?」
「爪を切り終わりました」
「だからなんだよ」
「はい」

 爪が短くなった手をキルアの方へ差し出す。どうぞよろしく、と笑顔付きで言えば、苦虫を噛んだような顔をしながらも私の指先をまた辿ってくれた。ゆっくりとした動作でふりだしに戻る。ただ手を繋いでみようかというだけなのに、その動きはいつもの、素早さを活かすキルアには程遠い。
 そんなキルアを見て、私もやっぱり鼓動がぐっと早まったのを感じた。緊張が指先から伝染する。普段は冷えたような印象を受ける指先は、そこから溶けるんじゃないかと思えるくらいには熱かった。

「……キルア、爪短いね」
「ん、てか、お前ちょっとは黙ってろよな」

 照れくさくて、口を回してしまう。言葉の通り、絡まる指にくっついている爪は全く伸びていない。触れる指先はやわらかい。ハンター試験からここまで、いろんなものと出会ったキルアは指先だけじゃなく、その人となりがやわらかくなった。その一番やわらかいところを享受できる私はとても特別な位置なのだなと再認識して胸がむずがゆい。
 人との関係性が家族とその他しかいなかったキルアに、友達という関係性が生まれたのはきっとハンター試験の時が初めてだ。それからヨークシンでの出来事やグリードアイランドやらを経て、仲間や他の関係性を見出した。
 最初は私も友達や仲間の枠組みの中だったはずだ。その時は、そんなぺたぺたと無闇に触ることもない。むしろ友達だ仲間だ、と言い合っていた時はど突き合いだってしていた。だから、キルアは私がある程度頑丈なことを把握しているのだ。なんていっても、あのどぎついハンター試験をこなしたのだ。
 だけど、今、キルアと私は関係性のラベルを貼り替えた。またキルアの関係性の中に新しいものを生み出した。そうしたら、どうだろう。知っているはずの私への対応も、見てきたはずの私の頑丈さもキルアは全て忘れてしまったようだった。自分が触って傷付けないように、爪の先の扱いも、力の入れ具合まで気を巡らせている。
 それが少しさびしいような、少し嬉しいような。全てまとめて、胸を打ち震えさせる要素に変換される。キルアの染まった耳を見ていると、乗算するみたいに加速していく。

「……なんだよ。こっちばっか見てんなよ」
「もう、注文が多いぞキルア……なに、じゃあケータイでも見てた方がいいのか、この状況で」
「そーいうことじゃねーよ!ホント、マジ腹立つなお前!」
「キルアくん、照れとか恥ずかしさを腹立たしさとイコールにしちゃうのはよくないぞ!」
「な……っ、照れて、ねぇし、恥ずかしくも、」
「だからそんな照れないでよ、私も恥ずかしいんだからね」

 そう伝えれば、キルアは今度こそ顔全部を赤い色に染めて唇を一つに結んだ。その表情と色はキルアをすごく幼く見せた。彼だけに頑張らせるのはフェアじゃないかもしれない。そう思って、絡まった指先に力を込めて、えいっ、と指の絡め方を変える。いわゆる恋人繋ぎというやつだ。
 すると、キルアはびくり、と体を震わせたので、また少し口元がにやにやと緩んでしまった。そうしたら、心の紐もゆるゆると緩んでしまって、恥ずかしさをこえて気持ちが口から出てきた。

「でもさ、恥ずかしいけど、私はキルアと手を繋げるのは嬉しいし、ドキドキするし、もっと触ってたいなと思うよ」
「……っおま、お前……あーもう、のそういうところが!マジで!腹立つ……」

 耐えきれなくなったキルアは爆発した! 爆発したように言葉を吐き出したけれど、尻すぼみだ。繋いでいない方の手で目元を覆ってしまった。「でも嫌いじゃないくせに」と追い討ちをかければ、「うるせー!嫌いじゃねーし!好きだっつーの!」と返ってきたので今度は私が爆発した。繋いでいない方の手で顔を覆って、指の隙間からちろりとキルアの方を覗き見れば、真っ赤な顔でいつもみたいににやりと笑った。そのギャップに私もまた表情を崩してしまった。

 ゴンが友達として、クラピカやレオリオが仲間として、人との関わり方を知らせたのなら、私とのこの新しい関係で、キルアは何を知るんだろう。お互い、指先が触れるだけで私たちは心臓を震わせる。
 キルアが私への触れ方を探るように、私もキルアとどう過ごしていくかを、探り探りでもゆっくり捕まえていきたいなと思った。