所有権
頬を滑り落ちる滴の一粒すら、綺麗に見えるなんて。まるで違う種類の生き物みたいだ。
雨濡れで走り込んだ店先の軒下、肩がぶつかりそうな近さで目の当たりにして、私は思わず確かめるように瞬いてしまった。
「ビックリやなぁ。こんな大雨、予報になかったはずやけど」
テーブルシティに備品の買い出しに来たはいいけれど、想定外がふたつ。
ひとつ目は、「夕立やろか? かなわんなぁ」と全く参っていない様子でけらけら笑う上司が、なぜか買い出しに着いてきていたこと。
ふたつ目は、街の中心で誰かあまごい使った?と聞きたいくらいの雨雲が、テーブルシティを包み込んでいること。まだ、当分止みそうにない。
雨特有の沈み込むような空気に押し出されて、ため息混じりに吐き出す。
「うわあ、オモダカさんとハッサクさんに怒られそう……」
「なんで? 自分の上司はチリちゃんやろ、二人は関係ないやん」
つんと不服そうに突き出したくちびるの形すらきれいで、またため息が出そうになった。
——それはそう、なんだけれど。
その通り、私はチリさんのサポートトレーナーなのだから、チリさんが「よし」と言えばある程度のことは片付くのである。
けれど、チリさんと私の間に寝そべる問題は、チリさんの知らないところでひっそりと息をしている。
「だって、本当はこの時間、チリさんは書類やっつけてるはずじゃないですか」
「そんなん、帰ったらキッチリ終わらしたる」
「終わらないことを心配してるわけじゃないんですけど、」
ごにょごにょ。取り繕うみたいに、表向きの理由。本当の理由は。
チリさんは、人気がある。四天王という立場はもちろんのこと、自他ともに認める整った容姿、それに加えて物腰やわらかく誰にでもフランクに接するところ。反面、バトルになると苛烈な表情を見せることも含めて、チリさんの人気を確立している。
だからこそ、最近は過激なファンも多くて。少なくないのだ、アンチが。
……こう言うとチリさんのアンチのように聞こえるけれど、そうではなく私のアンチだ。チリさんの横に居座る目障りな女として、女性ファンから怒りの矛先を向けられている。
いやなんで!? 改めて言葉をなぞってみると、とばっちりすぎて笑えてくる。ただの上司と部下なのに、火はないんだからわざわざ煙を立てないでほしい。
現状、アンチからの攻撃は物理型ではなく、特殊型(目安箱で私のメンタルを刺す)のみなので、実害はなし。なるべく過激派ファンを刺激しないように、外でチリさんとふたりきりにならないように、とオモダカさんたちから言われていたのだ。
人の噂も七十五日、波が収まるまで待ちましょうと。言われていたのに、この現状。「ついて来たったで〜」と肩を叩かれた時には、大袈裟ではなく飛び上がってしまった。
本当は、要因であるチリさんにも報告しておくべきなのだろうが、あなたのせいで私にアンチ湧いてます!とは言いにくかった。だから、チリさんにだけは内緒でことを収めたい、のだけれど。
「……まあ、もう来ちゃったものはしょうがないですよねぇ」
「そーそー、雨も降っとるし、ゆーっくりしてこ」
カフェでもなし、狭い軒下に二人で身を寄せているのに、ゆっくりも何もないよなぁとは思う。けれど、チリさんはじっとりとした空気を吹き飛ばすように、思った以上に楽しそうで。そんな顔をされると、蟠る気持ちも鎮火するというか。
テーブルシティへの買い出しくらいでピリピリしていることに、息が詰まっていた。どこからか監視されてるんじゃないかって身構えていた。
見回したって、大粒の雨に呑まれて人はいない。やっと肩の力を抜ける気がしてそれと一緒に、はた、と視線がたどり着く。
澄んだ深い海を掬ったような長髪も、白地のシャツも、チリさんの輪郭にぴたりと沿うように張り付いて。雨のいたずら。
なんだか見てはいけないような気持ちにさせられる。バッグからタオルを引っ張り出して、あわてて手渡す。
「チリさん、」
「どうしたん、そんな慌てて」
「肩とか腕、めちゃくちゃ濡れてるから。これで拭いてください」
必死な形相とタオルを交互に見てキョトンとする顔は、いつもより幼く見える。「透けちゃう」の追撃に、自分の肩を一瞥。それから意地悪くくちびるの端が持ち上がる。
「なんや、自分そんなことで慌ててたん? なあに、チリちゃんにドキドキしてもうた?」
振り向いた拍子に、チリさんのなめらかな頬を髪から落ちた雫がすべる。
声には悪ふざけの色が見える。のに、表情はやけに真剣で、思わず瞬く。
反応を促すみたいにぐっと体ごとこちらに寄ってきて肩をぶつけられると、全てが計算ずくのように感じて。流れるようにチリさんは切長の瞳を細めて、こちらを覗き込み挑戦的に笑う。
うわ、こういうところだ、と思う。
「どきどき、しますよ」
チリさんは眉を片方だけ跳ねさせて、してやったりとでも言いたげ。
くちびるをぎゅっと結ぶ。いつもどきどきしてしまう。
「チリさん、男女問わずモテるのに、こういうところ気にしないから。さっきみたいな仕草も、勘違いするファン出てきますよ。人たらしめ……」
「は?」
今もチリさんがリーグ職員といちゃついていたという根も葉もない噂が立つんじゃないかと、どきどきしている……!
握り拳ひとつ。私がどれだけ緊張感を持ってこの場に臨んでいるのかを伝えるべく。真っ直ぐチリさんを見ると、
「……そういうこと言いたいんとちゃうけど」
「え、チリさんの色気でみんなどきどきしちゃうって話じゃないですか」
「それはそうやけどー、大勢がドキドキしてもこーんな調子じゃ意味ないやんなぁ」
機嫌が一気に急降下。じとりとした瞳。まあええわ、今日はここまで。首を振って肩を竦めて、呆れたのポーズ。まるでこちらが悪いかのように事を収めた。
あからさまにため息を吐かれるので納得がいかない。ため息つきたいのはこっちの方なんだけど!? チリさんが人たらしだから、過激派ファンが生まれてゆくのに。
むすむすと怒りを腹の中で捏ねていると、不服さを全面に押し出してチリさんが言う。
「それ言うたら、の方が透けてるやろ」
「え、私はまあ……良いんですよ」
別に下着が透けているわけでもなし。肩や腕の地肌がうっすら透けるくらいどうってことない。少し、肌寒いだけで。私の服が透けたところで、ファンがいるわけでもなし。人の心を射抜き歩いているチリさんとは違うのだ。
すると、むすっとしたチリさん、片手に持っていたジャケットをおもむろに差し出してくる。タオルとの等価交換? 首を傾げれば、察し悪いんかと暴言を吐かれた。
「これ着とき」
「え、いいですよ。というか、上着ならチリさんが着てください」
「それは困る」
「困る!?」
なんで!? 聞いても、答えは沈黙。でも最終的に困るのは私な気がぷんぷんする。だって、チリさんのジャケットを着ていたとなれば、炎上必至。
「だいぶ濡れてるを放置して、ちょびーっと濡れただけのチリちゃんが着てたらあかんやろー」
「誰もそんなこと思わないですよ……」
だってこれはチリさんのジャケットなんだから。
「いーや、あかんで。そんなずぶ濡れで歩かれたらこっちがかなわんわ」
それでもチリさんは頑として譲らないから、こういう時は私が折れるほかない。今までの経験で存分に思い知らされている。
「……クリーニングして返します」
「気にせんでええよ。上司命令や、大人しゅう着とき」
しぶしぶ、その気持ちが表に見えるようにゆっくりとジャケットを肩に羽織る。細身のそれは、チリさんのものなんだなあと実感させるに十分。傍から見てもわかるだろう、これが誰のものかって。
こういうのは、困るんです!と言えればいいのに、チリさんがあまりにも嬉しそうに笑うからそんな気持ちはしおしおと枯れてしまう。
いつも振り撒かれる快活な笑顔よりも、やわらかくてしっとりしてる。あまり見られない一面をこうやって手渡されると、なんだか宝物を見つけた時のような気持ちになる。
アカデミーの宝探しはとっくの昔に終えたのにまだ、宝物は増えるものなんだと私も嬉しくなる。
とん、とまた肩をぶつけられて、チリさんがこちらに身を寄せたのだと知る。こういう、こういう一連の流れですよ、チリさん!
「ズルい人たらしを上司に持った……」
「なんやねんそれ。でもまあ、せやな。わからしとこーと思うてな」
「もう存分にわからされますけど!?」
「なはは、言うてはるけど、ちゃんはなーんもわかっとらんよ」
「え!?」
まあ、まだそのまんまでおってなぁ。とチリさんが笑う。分かってない、と言う割には満足そうな、その横顔を不思議に思いながら眺めた。
結局、リーグに帰るまでジャケットはそのまま。それを見たハッサクさんにはこっそり叱られた。でも、なんとなく肩に乗るジャケットが「大丈夫やって〜」と励ましてくれているような気がして。
ただ、明日以降の外出は、チリさんの尾行に気をつけること! 頬をなめらかに滑り落ちた雫を、横顔を思い出して。人たらしだなあ、とやっぱり思うのだ。