春を連れてくる少年



※夜天くんの性格がよくないです。

ちゃん、スリーライツ知らないの?今をときめくアイドルだよ?ものすっごく人気のアイドルなんだよ?!」
「なんだそれ……」

 バイトの同僚は力強く語り掛けてくるが、そのアイドルの顔すら思い浮かばない。"スリー"ライツというくらいだから、三人組なんだろうか。熱を上げて話す彼女の隣でそんな風に思った。

 は芸能に疎かった。それは元々、彼女がその世界に触れる機会が少なかったことに所以する。小さい頃は外を駆けずり回っている方が多かったし、成長してからも部活動に精を出した。テレビは見ても、アニメや将軍が出てくるような時代物が多かった。家族内のテレビリモコン争奪戦のカーストを彷徨っていた彼女に選択肢はなく、また特に不満もなかった。
 だからだろうか、高校生になってみて周りの話題についていくのが難しいと思うのは。それは高校で、または高校生になって始めたバイト先で顕著になった。世の中はとてもきらきらした、自分とはかけ離れた世界を中心に回っているのだと、はその時初めて知ったのだ。
 それが苦痛とまではいかないが少しの疎外感と申し訳なさに変わり、積もり積もった後に彼女はバイト先を変えることとなる。

「いらっしゃいませ」
「ブレンドで」
「かしこまりました、すぐにお持ちします」

 丈の長いスカート、裾を揺らしながらマスターに注文を告げる。彼は注文を聞き「いつも通りだね」と目尻にしわを寄せた。
 次に見つけたバイト先は大通りからはほど遠く、路地の奥まったところにある喫茶店。見つけにくいけれど、ここのマスターの入れる珈琲は香り高くておいしいのだ。と、常連のおじさんが笑顔を携え言っていた。あいにく、はコーヒーの違いにも疎かった。けれど、そのひっそりとした佇まいとマスターの人の良さに惹かれ、彼女はここに腰を据えて働き始めることにした。働き始めてから季節を一つ越えた。
 そんな中でもここ最近、とても綺麗な少年が出入りするようになった。はじめて見たのは、春のかおりがいっぱいに溶け込んだお日様を浴びながら扉を開いた彼だ。
 にとってそれは衝撃だった。見た目の麗しさにも驚いたが、自分と同年代の少年がこんなところを見付けて憩いの場にできるなんて。しかも、制服が、自分の高校のものであったから更にその気持ちに拍車が掛かった。
 少し、羨望を含んだ気持ちが心を掠める。けれどそれだけ。そう思ったところで、彼女はオーダーを受け笑顔で提供し、マスターの飼い猫に餌をあげるだけである。眉目秀麗できらきらと光るような少年が、なんの思惑があってを毎度一瞥するのか、そんなことには気を配らずにいつも通り並んだコーヒーカップを手に取った。


 路地の奥の奥の喫茶店の、更に奥まったテーブル席を夜天は気に入っていた。誰の好奇の目にも晒されない自分の時間を持つことができるから。神経を擦り減らし、ストレスを溜める程度には彼は今の仕事に不満を持っていた。
 彼にとってアイドルというのは、手段であって目的ではない。大事な人を探すためのただの手段。それなのに、きゃいきゃいと群がられてしまっては本末転倒な気がするのだ。本当に探したい人の手掛かりすらまだ、ないのに。

「お待たせいたしました。ブレンドコーヒーになります」
「……ん」

 ひっそりとした空間に入ってしまえば、歓声も、人の目もすっかり彼のことを見つけられなくなってしまう。それに、猫がいるし。「……ちゃん、これもよろしく」奥からマスターに呼ばれ、コーヒーを置いた店員は会釈だけして背中を見せた。
 そう、一つ気になることがあるとすれば、店員が女だというところだ。だが、彼女は自分に対して赤面するどころか、騒ぎ立てもしないし、営業用の笑顔を貼り付けるだけである。だからだろうか、彼はそれを居心地がいいと思っていた。
 しかし、それは客と店員としては正しいところだが、アイドルと一般女性としてはいかがだろうか。なんで、こいつは僕に気付いていないような素ぶりなんだ? 逆に気を引こうとでもいうんだろうか?と心中で呟く彼、夜天光の自尊心は山のように高かった。

「お寛ぎのところ失礼します」
「…………なに?」
「マスターがこれをどうぞと。本日のケーキなんですが」

 たっぷりと間を空けて返してやっても彼女は臆することも気分を害したようなそぶりすら見せず、変わらぬ笑顔でそれを差し出した。たっぷりのクリームと熟れたイチゴを乗せたケーキだった。おいしそうじゃん、と夜天が思えば、彼女はやわらかなよそ行き声で「どうぞ」と皿とフォークを置いて踵を返そうとする。
 夜天は、またそれが気に食わなかった。気付かれれば知らん振りをしたくなるし、けれど返って知られていないとなると、知らしめたくてたまらない。
 何か、彼女を揺るがすことができる何かはないか。子供ような悪戯心と対抗意識で、夜天は頭をフル回転させる。……そういえば、先ほどここのマスターが彼女のことを名前で呼んでいたのを思い出す。その名前はなんだっただろう。
 トップアイドルの自分が名前を呼んでやれば、彼女だって赤面くらいして慌てふためくだろう。器用に貼り付けたその鉄のような笑顔を崩せるという期待が胸を打つ。そうに違いない、と夜天は内心ほくそ笑んだ。「ちゃん」彼女の名前がはっきりと頭の中に浮かび上がる。

「君、って言うの」
「は、…………あの、えっと……はい」
、ね。ふぅん」

 ひとつふたつと名前を呼んでみる。口の中に転がるそれは悪くない。
 は思いがけず、腕を引かれたかのように夜天を振り返る。かぱ、と半開きになった表情は、普段の鉄の笑顔よりも彼女を身近な存在に感じさせた。最も、夜天は身近に感じたいと思うタチではないのだが。そう、普段は。
 けれどを身近に感じた時、夜天は少し得意な、満ちたりた気持ちになった。彼女の営業スマイルを打ち破ってやったぞ、と。自分が思っていたような高鳴るような赤面や響く歓声ではないが、ともかく自分が勝ったということだけで今日は気分がいい。

「……もう行っていいよ、
「は、はあ、失礼、します」

 後ろ髪を引くように歩いていく彼女を見て、さらにその高揚感は重なっていく。スリーライツの夜天光にかかれば、こんなものである。今後この店に来る度に、彼女は胸を高鳴らせるだろうか、自分には関係ない話だが、それはそれで愉快だと夜天は思った。
 この時点で、夜天は自分のことを知っているだろうとタカを括っていた。それが大きな間違いであると、彼が気付くのはずっと先のことだ。

 夜天光は知らない。その表情がただただ、なぜ突然名前を呼び出したんだこの男は、という気持ちからくる表情だということを。彼女の中で「春を連れた麗しの美少年」が「唐突に名前を呼ぶ変なやつ」に変わってしまうまたことを、アイドル夜天光は知らないのだ。