光彩が未来まで手繰り寄せるの



 この真夏に自ら飛び込みにきたというのに、まるで自分の方が被害者だとでも言いたげな表情で歩くので納得がいかない。
 私のことじゃない、蘭のことだ。不機嫌そうな横顔は、心底夏の陽射しが似合わない。


「兄貴、そっちに行ってない?」
「今日も来てないよ」
「了解」

 簡素なやりとりで終わった竜胆とのメールを一瞥して、携帯を閉じた。蘭って、夏に真っ昼間から外に出ることがあるんだなあ。蘭も一応人間なんだから、当たり前のことではあるけれど、白い顔を思い出してそんなことを思った。瞬きをすればその顔もぱっと散った。
 共働きの両親は家にいないことが多く、夏休みはこれといった予定もない。夏休みらしいイベントのひとつもない中学生活なんて、と愚痴った時の竜胆の顔はあからさまに哀れみを滲ませていた。言うんじゃなかった、腹立たしい。
 私がそんな状態なのは「灰谷兄弟の幼馴染」という、まわりを戦々恐々とさせる肩書きのせいなので、つまるところ竜胆のせいでもあるのだが。そのせいで級友からは距離を置かれている。
 予定もなく、ひとり夏休みの宿題に疲弊していた私は、逃げ出したやる気を今日中に回収することは不可能だと判断した。なら、今日はもう宿題なんてやめてしまって、三日ぶりに日の光を浴びよう。どうせならおいしいアイスでも買いに行こう。
 クーラーで夏を追い出して、キンキンに冷えた部屋で毛布に包まりながらアイスを食べる。それは誰にも迷惑をかけない悪事だ、とっても贅沢に思えた。
 そんなささやかな楽しみを得るために、財布と鍵だけを手に家を出る。お小遣いの日はもうすぐだから、今はアイスふたつ分しか入っていないけれど十分だと思っていた。マンションのエントランスを抜けるまでは。

「……うわ、」

 エントランスの真正面、不良がひとりバイクに凭れて立っている。それだけだったら別にいい、知らない顔をして通り過ぎればいいのだから。けれども、そうはいかなかった。
 踵を返す前に、不良がこちらに視線を向けた。待ち受けていたように紫色の瞳がまろやかに歪む。獲物に狙いをつけた時の目だ。金色の三つ編みが動きに合わせて揺れていた。
 竜胆、いたよ。太陽の下にいるのが似合わない、君の兄がここにいます。早急に迎えに来てほしい。

「お、じゃん。いーところに」
「蘭、な、なんでこんなところにいるの」

 灰谷蘭。私の幼馴染のひとり。だがしかし、幼馴染だからといって仲が良いかは別の話だった。蘭は見るからにやんちゃをしていて、いろいろなことにおいて平均値を叩き出す私とは別の次元にいた。(竜胆も同じようなものだけれど、まだ話が通じるので傍若無人な蘭よりだいぶマシだ)
 今だってそうだ。私のかわいらしい悪事を、数段飛び越えている。なんだバイクって、いつどこから持ってきたんだ。私たちまだ中学生になったばかりなのに。
 嫌な予感は背筋ににじり寄っている。私の質問で蘭の機嫌が少しだけ下降したせいだ。

「オレがどこで何してようと、オマエにカンケーねぇじゃん」
「そりゃ、そうだけど。いや、でもここうちの真ん前だし。誰か待ってたの?」
「お前んちの前でも公道じゃん。まーいいわ。、乗れよ」
「えっ」

 投げかけた質問の回答の代わりにぽいと投げて寄越されたのは、ヘルメット。蘭の親指を辿れば、バイクの後ろに乗れという。このままでは不良の片棒を担がされてしまう!
 無免許二人乗りで警察のお世話になるのも、これ以上無駄な肩書きが増えるのもごめんだった。半歩後退ったのを目敏く見つけて、蘭は大股でこちらに近づく。股下の長さが違いすぎて、逃げられない事実に呆然とした。
 また一段、機嫌のレベルを落としてしまった。がっちり頭を掴まれて、骨が軋む。

「いたたた!」
チャンは物分かりがいい子だろ?」

 美術館に並んでいてもおかしくない、みたいな顔に凄まれると余計に恐ろしい。掴まれた頭は意思に反して縦に振られた。実力行使が過ぎると思う。
 蘭のバイクに乗りたい子なんてきっと星の数ほどいるだろう。実際に、六本木の街で彼を見かける時は、一般的には高嶺の花といわれるような女の子を連れているのに。その子たちを乗せずに、ご指名が私だなんてなんの用事なんだ。いい予感はしなかった。
 じんじんと痛むこめかみに、恨みがましく蘭を見る。季節に関わらずひんやりとしていそうな蘭の額には、珍しく汗が浮かんでいた。すこし日焼けしたような頬、張り付いた前髪に「気温って、蘭に影響を与えることができるのか」と、当たり前のことなのにびっくりした。

「じゃあ楽しいトコロに行こうなぁ、

 肯定(不本意)を受け取った蘭は満足そうに口の端を吊り上げた。それはどこの地獄への道行なんでしょうか? 問えずにいる私が逃げないように、という意味で掴まれた手首。
 引っ張る蘭の指先は冷たいだろうと思っていたのにしっかりと熱を持っていて、もう一回びっくりした。


 昼間から誘拐とは、物騒なものだ。無理矢理被せられたヘルメットはサイズが合わないし、蘭は当たり前のようにヘルメットをしていない。
 炎天下の中を排気音の大きなバイクが暴れ馬みたいにかっ飛んでいく。風を切る音が耳元で聞こえる。今後の人生でバイクに乗ることがあったとしても、ここまで鋭い音にはもう出会わないだろうなと思った。めちゃめちゃ怖い。
 あまりにも重力に振り回されるので、ヘルメットがずるずると落ちて視界を覆う。掴まるところがないので必然的に蘭の腰に腕を回すけれど、このスピードでは手が離せないしヘルメットを直せない。

「ら、らん……っ蘭! もうちょっと安全運転してよーっ!」

 悲鳴のように減速を申し出ても、風に紛れて聞こえていないようだった。しょうがないから、ヘルメットごと額を蘭の背中に押しつけて、腕に力をこめる。落下したらたまらない。
 そんな私の恐怖のサインをGOサインだとでも思ったのかバイクを無遠慮に横揺れさせるので、もはやこれは私を怖がらせるための悪ふざけなのだと思った。私の幼馴染はそういう小さな嫌がらせに余念がないタイプなのだ。
 けれど、私には逃げ場がなく、まさしくまな板の鯉だ。この状況を作り出す蘭に縋るしかない。ぎゅうっとしがみつくと、気温も相まって蘭の背中は沸騰するみたいに熱かった。
 私は蘭のことを、触れると一直線に切れてしまう鋭い氷みたいなものだと思っていた。なので、いつもの蘭とは別の生き物みたいだと素直にまたびっくりしてしまった。
 今まで一緒にいてもこんなに近くて、ましてやこんな風に触れることなんて初めてだったので、蘭が溶けるのではないかと心配になった。首筋から溶けてきて、雫がいくつも落ちていた。
 が、幸運なことに溶け切る前にバイクは静かにエンジン音を落とした。湿った空気が肌に貼り付き、目の前にはまさかの、

「う、海だ……! え、ちょっと待って。蘭が海って……なんで!?」

 似合わな! と締めくくったら、思いっきり頭をド突かれた。加減を知らないその手のひらに、首が吹っ飛ぶかと思った。

「楽しいトコロに行く、つったろーが」
「その言い方的に、素直に楽しい所に来るとは思わないじゃん」
「オマエ、オレのこと何だと思ってンの?」

 ひくりとこめかみが上下したのを見て、慌てて口を噤んだ。ひとこと口から零れるだけでも、人は地獄を見れるのだということを、灰谷兄弟の幼馴染を長らくやってきてわかっている。
 この間のことだ。竜胆に聞いた話によると「女みてえなヤロウだな」と一つ笑われたからと、蘭は高校生の不良を速攻で病院送りにしたらしい。
 キレるスピード選手権があるなら、決勝戦まで余裕でいくと思う。きっと、蘭は侮蔑の言葉を聞いた瞬間には、不意打ちのように手が出ていただろう。さっき私をド突いた時と同じように。蘭の機嫌は女心と秋の空よりも変わりやすいので、丁重に扱おう。こわいので。閑話休題。

「それで、蘭はここに何しにきたの?」
「話逸らしてんじゃねーよ」
「まあまあ、ほら、何しにきたの? 遠出したからには、なんか目的があったんでしょ?」

 そうじゃなければこの炎天下の中、蘭が外出なんてするはずがないと思っている。けれど、それがどんな目的であるにせよ、ここに来たことは私にとっては別の意味が生まれる。
 ——これは、この夏休みはじめての、一大イベントだ。
 予定にはなかったけれど、それでもいい。浮ついた気持ちを抑えられなくて、ぐっと距離を詰めて顔を覗き込む。どっかのチームの偵察とか? 竜胆がいないから、可能性としては低いだろうか。
 蘭は面食らったように瞬いて、私の言葉をやっと咀嚼したようだった。

「目的……あー、別になんでも良くね」

 一瞬考え込むようにしてから、あからさまに機嫌の波を低くしてしまったのでそれ以上の追求は諦めた。地雷原でタップダンスしているような気持ちになる。けれど、程なくして「行くぞー」と緩い動きで歩き出したので、思っているよりは不機嫌ではないのかもしれなかった。
 海まで来たはいいものの、私の手持ちは財布と鍵だけ。蘭も同じような装備だったので、私たちはまるで場違いだった。波打ち際できゃいきゃいとはしゃげる要素が一ミリもなかった。本当に何しにきたんだ?
 そもそも蘭が海ではしゃいでいる姿を見るのは、似合わなさすぎて怖いので遠慮したいという思いもある。口にしたら最後なので、それは心の中だけで揉み消しておく。
 けれど、遠慮するまでもなく、前をゆく蘭の足は砂浜には向かわず、ずっと続く防波堤に添って歩き続ける。回答のなかった目的は暑さで揺れる道の先にあるんだろうか。

「あっちーな、どうにかなんねぇのかよ」
「天気に文句言わないで……こんな暑い日にここを行き先に選んだのは蘭でしょ」

 そうは言ってみたものの、確かに暑かったし、蘭の機嫌がまたジェットコースターもびっくりなほど下降し始めても困るので、涼をとれるものがないか目を凝らす。自販機とか、ないかな。
 すると、あるじゃないか。道の先に、アイスクリームのショーケース、赤と青の傾いた看板。潮風に晒されたそれは色褪せて、店名は掠れてしまっていたけれど「商店」と書かれていた。昔ながらの駄菓子屋だ!
「あそこで飲み物でも買おう、水分補給しよう」
 そして、機嫌を急上昇させてくれ。そんな気持ちが先行する。蘭のあつくなった背を、ぽん、と一つ押して早足に追い越した。
 「はー? オマエが買ってこいよ」「遠い」なんて言う割に引き返しも立ち止まりもせず、手も出さず、蘭はゆっくりとした動作で後ろからついて来た。
 昔ながらのお店の庇まで辿り着くと、日陰になっている分だけ涼しい。けれど、海辺の潮を含んだ空気は重たいまま肌に乗っている。店にはおばあさんが一人、「いらっしゃい」と目尻を下げた。
 小さく会釈をして店の中に入ると、さっきよりも少しだけ涼しくて、やっと一息つけたような気持ちになった。
 今日のすべての元凶である蘭は、店の中をじろじろと見回してから興味なさげに外へと出て行ってしまった。待たせたら何を言われるかわからない。さっさと目当てのものを買ってしまおう。
 店内の隅に置かれた、赤地に「Coca Cola」と大きく描かれたショーケースを覗き見る。

「オレンジジュース、コーラとラムネ……」

 太陽にジリジリとやられている私には、どれも魅力的に映って決めかねてしまう。ラムネかな。と、瓶を手に取ってからふと思う。
 興味なさそうにしていたけれど、蘭も少しくらいは飲むだろう。
 そうだとしたら、ご意見を聞かないとまた不平不満を並べられそうだ。店外にいるだろう蘭に向けて質問を投げかけようと振り向く直前のこと。

「ひぃ!」
「ふは、色気のねえ悲鳴」

 ぴたりと首筋に冷気の塊を当てられて、そこを中心に震えが走る。それはまとまって最終的には悲鳴として外へ抜けていった。アイスキャンディーを手に、蘭は楽しそうに意地の悪い笑みを零す。
 油断していたから、余計にダメージを食らってしまった。三人しかいない店内に響いた悲鳴は思ったより大きく聞こえた。羞恥と冷えた感触をかき消すように、首筋を幾度も擦る。

「信じらんない、やめてよね!」
「うるせーなぁ、メーワクだろ。静かにしとけー?」
「誰のせい!?」

 私の返答に対してケラケラと笑い続け、そうした後に私の羞恥の元凶を当たり前のように手渡そうとする。夏を纏って、外装のビニールは汗をかいている。

のせいで溶けたから、コレ、オマエ持ちな」
「えっ!? 私のせいじゃないでしょ、蘭が悪戯するからじゃん」
「結果的に、オマエの体温で溶けてンだからのせいじゃん」
「ええ……というか、今月のお小遣いあんまり残ってないんだけど。蘭はお金持ってるでしょ、カツアゲしないで」
「オマエ運んできたガソリン代の方が高いんだけど。それに、オレ財布持ってきてねーし」

 財布ないんかい。その状態で遠出ってギャンブルすぎない? それに、誰も運んでくれなんて頼んでいないけれど。そうは思いながらも渋々アイスキャンディーを受け取ってしまう。
 理不尽な等価交換をさせられた。でも。強く言い出せなかったのは、目的がわからなくても海に入れなくても、友達(と言ったら、蘭には否定されるだろうけれど)とここに来れたという事実が嬉しかったからだ。

「仲良しねぇ」

 商品二点をおばあさんのもとに持っていけば、そんな風に声を掛けられたからバツが悪い。曖昧に笑うしかない私と、また興味なさそうにすまし顔でそっぽを向く蘭。
 大体のことは蘭が原因なのに、なんで私だけ恥ずかしくならなくちゃいけないんだろうか、不服だ。
 腹が立つのと同時に、否定の言葉が吐かれなかったことに少しだけ安心して、嬉しくて。そう考えること自体がなんだか悔しくって、お礼もそこそこにラムネだけを引っ掴んでお店から飛び出した。
 外は変わらず、じっくりと太陽の光に煮込まれている。蘭はすぐには出てこなかった。ただ、笑い声が店の中から聞こえたから、逃げるような私の姿が間抜けで笑っていたのだろう。
 けれど、微かにおばあさんの声が聞こえたのを境に、それもぴたりと止まった。流石に、蘭がおばあさんにまで手を上げるとは思わないけれど、少し心配になって店を覗く。

「蘭、どうしたの?」
「……なんでもねーわ、さっさと行くぞ」

 するりと出入り口を抜けてきた蘭に頭を思いっきり掴まれて、訳がわからないまま店を後にした。不機嫌そうな声音なのに、機嫌が良さそうにも聞こえる。長年の付き合いで培われた経験に基づいた勘だ。精度はいい気がする。

「ありがとうね、またふたりでいらっしゃい」

 私たちの背を追う穏やかな声。振り向こうとしたけれど、頭は一ミリたりとも動かない。
 隙間、微かに見えた蘭のしろい頬が、日焼けを重ねたみたい一層赤みを増していた。珍しいこともあるもんだと思い、ここでまたびっくりが追加された。いつも飄々としている蘭をそんな風にしてしまう理由が気になったけれど、きっとその理由に辿り着くことはないだろうなあと思った。
 きっと、聞いても教えてくれないことだと知っていた。


 クーラーで冷えた部屋が恋しいけれど、まだこの夏の、ただ一つの旅を終えたくないとも思う。
 蘭はさっきの様子をけろりと忘れたように、包装のビニールを破ってアイスキャンディーに齧り付いている。ビニールは当たり前のように私の方に押し付けられた。
 私もラムネをいただこうと、玉押しをぐっと押し込めば景気の良い音を立ててビー玉が落ちた。気泡が瓶の中でぐるぐると回ったことに、よし、と心の中で呟く。失敗して暴発した暁には、鬼の首をとったような勢いで蘭に笑われたことだろう。回避できたのは何よりだった。
 じっと横から熱い視線を感じれば、アイスキャンディーを綺麗に齧りながら蘭がこちらを見ている。

「……なに?」
「いや? 失敗しねーか見てただけ」

 ほらやっぱり! 蘭はそういうヤツなのだ。私の心配は杞憂ではなかった。
 成功者の気持ちで口にしたラムネはめちゃめちゃ美味しかった。シュワシュワと、暑さも羞恥もちょっとした蘭への腹立たしさも洗い流してくれるよう。けれど、邪魔者はいつでも隣にいる。

「ん」

 夏に追いかけられて溶け出していた表面の雫まで器用に飲み込んで、蘭はこちらに向かって手のひらを差し出している。そこには一口よこせという意思が言外に含まれている。

「た、食べ終わるのはや」
がトロトロやってるからだろー」

 もしかしたら蘭とは生きているスピード感が違うのかもしれない。そんなことを思いながら、不服ながら、瓶を手渡してやると、満足そうに蘭は喉を鳴らした。
 真っ青な空に、金色のふわふわした髪の毛が刺繍を入れていくみたいだった。カランとラムネの行く道を塞ぐビー玉が鳴る。日差しが瓶を通ると、地面に海が現れて揺れている。
 きれいだな、と思ったのも束の間、一口しか飲んでいなかったラムネがもう半分ほどしかないことに気付いて悲鳴を上げた。蘭は満足そうに笑っている。

「私が買ったラムネなのに!」
「オマエのもんはオレのもんだろー?」
「いつも思うけど、蘭はジャイアンなの? 私のものは私のものだわ!」
「わざわざ連れてきてやったんだから、これくらい文句言うなよな。チャンは心が狭くてやんなるなぁ」

 カラン、ともう一回涼しげな音を立てて、ラムネはすっかり瓶から消えてしまった。心が狭いのはいつも、いつでも蘭のほうなのだけれど。でも、今度はそれに不平を言う気にはならなかった。
 蘭は自分の失言に気付いているだろうか。何の気なしの言葉に私だけが気付いていて、それこそが大切なことのように思えた。

「ここに来たのって、私を連れてきたかったの?」
「…………あ?」
「わざわざ、連れてきてくれたんだ、海に」

 まるで、自分が口にした言葉をはじめて理解したような様子だった。薄く唇を開きかけて、閉じた。それを何度か繰り返して、蘭は自分が言うべき言葉を探しているようだった。結果、否定にもならないような「……違ぇわ」が小さくこぼれただけ。
 それは今日イチのびっくりだった。出発からここまで、何度も驚かされた。まるで、蘭の姿をした別の生き物のようで。夏の暑さに頭をやられたのではないかと、失礼ながら心配した。普段の行いの悪さから来ているのだから、失礼も何もないかもしれないが。
 私の家の前で待っていたのは、他でもない私を待っていて。見つからなかった目的は、すでに達成されていて。
 竜胆から聞いたのだろう。私が夏休みにひとつの予定もない寂しいヤツだって。それでも、こんな風にどこかに連れ出してくれようとするなんて。竜胆ならまだしも、蘭がしてくれるなんて思ってもみなかった。
 もしかしたら、蘭自身は私に何かしてあげているつもりなんてなかったのかもしれない。なんとなくバイクに乗りたくなって、人を乗せて走りたくなって、たまたま行き先が海で、乗せるにちょうどいい相手が私だった。蘭は気まぐれだから、本当に偶然がいくつも重なってこうなったのかもしれない。
 それでも。

「……ありがとーね」
「違ぇつってんだろ、調子のんな」

 違う方が奇跡みたいな確率だって、蘭はきっとわかっていて、どっちに転んでも私にとっては美味しくなってしまうことも。返事が平坦なことと、そっぽを向いてしまったことでうまく隠しているけれど、照れの証は耳の端っこにも赤く滲んでいる。私ばかりが恥ずかしくなっていたけれど、今度は蘭が自滅した。なんだかおかしい。
 苛立たしげな舌打ちが聞こえたけれど、羞恥心に苛まれているのがわかっているから、怖くはなかった。だがしかし、このままでは怖いターンが巡ってきてしまうのも時間の問題だった。だから、上がっていた気温を元に戻すように、不平を口にする。私自身も、この空気がむず痒かった。

「蘭のせいで喉乾いたままなんだけど」
「はぁ?」
「蘭が、ラムネ全部飲んじゃったのが悪いんだからね」
「……もう一本買えば良いだろ」

 中学生らしい小遣いは蘭に集られたことで底をついている。財布の中身を見せてやれば、雀の涙で、雀より私が泣きたい気分だ。逆に蘭はどっと笑ってさっきまでの空気を払拭した。

「はーあ、チャンは万年金欠だなぁ、しょうがねぇから蘭ちゃんが奢ってやるよ」
「ん、え? さっきお財布持ってないって言ってたじゃん!」
「ンなこと言ったっけ?」
「言ったよ!」
「あ〜、んじゃ、持ってたワ」
「んじゃ、じゃないんだよ」

 すっかり元に戻った温度感にひっそり息を吐く。なんで蘭が財布を持っていないと言ったのかはわからない。たかがアイスキャンディー一本の値段で不平を言うほど困窮していないのは知っている。困窮しているのは私の方だ。
 けれど、これも真相を聞いても教えてくれることはないだろう。だから、聞かない。

「もう一回あの駄菓子屋さんでいいかな」
「……あそこはババアがうるせーから無理」
「え、そんなにうるさかったっけ」

 送り出してくれた声の穏やかさを思い出すけれど、そんなことはなかったような。でも、蘭が頑として譲らないので、別の場所を探すしかなさそうだった。
 道すがら「そういえば、」と声を掛けると、いかにも被害者ですというような表情でこちらを見る。暑さの被害者は私もだし、蘭にラムネを飲まれた被害者は私ただ一人だけど。そこには触れず、気になっていたことを口にする。

「いつからバイク乗ってるの? 普通は売ってもらえないでしょ、免許もないし」
「いつでも良くね。オレくらいになると伝手なんていくらでもあンだよ」

 免許ないのは変わらないじゃん、と思う。伝手と聞いて、物騒なものしか想像できなかった。行きの荒々しい運転を思い出して、言葉に詰まる。行きは良い良い帰りはこわいとも言う。警察のお世話リーチがかかっているような気がして、苦言を呈したくもなる。

「帰りはもうちょっと安全運転にしてよね。今まで他の女の子乗せた時とか、泣かれなかったの?」
「ア? 他のヤツ乗せたことねーから知らね」
「え、私が初乗り? だからか……蘭でも苦手なものってあるんだね」
「ンだと、テメェ。特等席座っといて生意気言ってると置いて帰ンぞ」
「それは困る」

 語気は強いのにもうあまり怖くなかった。後頭部を掴む手のひらは、今日の中で一番やわらかい触れ方だったように感じる。夏の暑さにやられた幻かもしれないし、蘭の頭が暑さにやられた結果かもしれない。
 でも、そう。きっとあんなに風が唸るバイクに乗るのはこれが最初で、最後だろうなと思う。蘭の気まぐれで選ばれる女の子は、それこそきらきらと光る星の数ほどいることも知っている。
 こんな不良ど真ん中の男の子が、平々凡々な私と一緒にいることは夏に見る幻のようなものだ。きっと、もうすぐ蘭の方が飽きて話もしなくなるんだろうなと思う。
 そうすることで、ようやっと私はただの中学生になって、友達ができて、きっとラムネは全部ひとりで飲み切れる。海に来るときにバイクになんて乗らないし、無免許二人乗りなんてもうしない。
 こうやって振り回されることが「迷惑だなあ」と思うのと一緒に、ひとつひとつの出来事がカウントダウンのように胸の中ですり減って「さびしいなあ」とも思う。

「……でも、ちょっとだけ良い夏休みになったかもしれないなーって思った」
「オイ、ちょっとじゃねぇだろ。オレのバイクでニケツなんて誰も手ェ届かないくらい高ぇんだけど?」
「待って、乗ったからには借金だとか言わないでね」
「言わねェわ」

 蘭がいつか忘れてしまっても、私はきっと、まぶたの奥に今日を映して思い出すだろう。
 バイクが裂いた空気を体いっぱいに受けたこと、青い光が瓶を透かして海のように揺れたこと、夏がぜんぜん似合わない男の子が隣で笑っていたことを。


 ——と、格好をつけて思っていたのに。慣れてどんどんスピードを上げるバイクには今後も強制的に乗せられるし、ラムネだけじゃなく、私のひそやかな楽しみは半分以上は蘭に奪われる。まるで昔からずっと決まっていたことみたいに。
 頼んだって忘れてくれないことも、また未来のどこかで今と同じように蘭が隣で笑うことも、今の私にはひとつも予想できないのだ。