胸に春の不在
恋とはどんなものだろう。高校生になれば、自動的に彼氏ができると思っていた中学時代が懐かしい。
最近、友達に彼氏ができた。それも友人一人だけではなく、よく一緒にいる三人全員が。高校生になったら自動的に彼氏ができる、という空想はリアリティを持ってしまったのだ。ただ、私にとって空想は空想のままだったと言うだけで。
まあ別にそれはいい、幸せそうな友人を見ると私だって嬉しくなるから。遊ぶ頻度が減ったって、メールでやり取りする回数が減ったって、ちょっと寂しいけれど我慢はできるのだ。
ただ、みんな口を揃えてこういうから、どうしたもんかと頭を悩ませているというわけだ。
「高校生になったんだし、も好きな人とかいないの? 彼氏作れば?」
友達は言う。にも早く春が来るといいねって。
でも、好きな人って、彼氏ってそんなに簡単にできるもの? 今まで恋愛なんてしたことがなかったし、そもそも私の周りの男の子なんて、幼馴染の灰谷兄弟しかいないのだ。
絵空事が現実に追いつくことがあるのか。作れば?と言うなら、作り方を教えてほしい。
「という訳よ」
「という訳よ、じゃねーわ。くだんな」
「ひどっ! 竜胆、真面目に話してるんだから、ちゃんと聞いてよ。二人は好きな子とかいないの?」
学校終わり、幼馴染の家に上がり込んで熱弁を繰り広げた私に対して、竜胆は鼻で笑い、蘭はくあっとあくびを漏らした。
三人並んでソファに座っていても、いつも通り空気はからりとしている。私のまわりの数少ない男の子はこんな調子なのだから、幸先は良くない。私にとって好きな人や彼氏を作るということは、砂漠で一粒のダイヤを探すのと同じくらい難しいかもしれない。
なんだかんだと言いながらも、二人のことは好きだ。長年連れ添ってきた仲だ。腹が立つことがあっても、ちょっとやそっとでは離れない気持ちがある。
それに、六本木のカリスマと恐れ謳われ暴力三昧の二人も、昔から私には優しかったから。悪戯を仕掛けられることはあれど、本当の意味で傷付けられたことなんて一度もない。
でも、それって恋人同士になるとか、そういうのとは別の話だ。二人だって私のことをそんなふうに見たことはないだろう。それに、二人の爛れた女性関係も知っているから。好きな女の子、なんていう定義が存在するのだろうか。このふたりの中に。
「んー?」
「なんでオマエに言わなきゃなんねぇんだよ」
「え、興味……幼馴染の純粋な面を覗いてみたくなったから……?」
あわよくば、恋人を作る秘策でもあれば盗みたいと思った。ふたりが固定の彼女(本当なら彼女に固定も何もないと思うのだが)を作ったなんて聞いたこともなかったので、望み薄かなと心の隅っこでため息だ。
「やっぱり、セフレは日替りにできるくらいの数いるけど、好きな子はいないタイプ? 爛れた生活してるねぇ」
「オマエ、オレらのこと馬鹿にしてんだろ」
「うーん」
「そこは否定しろよ!」
律儀に突っ込んでくれる竜胆に笑い声で返す。こういうところが、竜胆のやさしいところだ。興味がなくても、くだらないなと思っていても、ちゃんと受け止めて返してくれるところ。優しさと誠実さは共存しないことがあるのだなという学びを、私は竜胆から得た。
「で、どうなの?」
私の追撃は部屋にしん、と沈黙を降ろした。なんでほんのり気まずげな空気が充満しているのだろうか。ソファの真ん中の竜胆はなんだか居づらそうに座り直した。なんで?
いないならいないで、一言で切り捨ててしまえばいいものを。特に面白い返しを期待せずにいた問い掛けも、答えを引き伸ばされるともしかして?と気になってしまう。
「、オレの好きなヤツ知りてぇの?」
今まで黙って携帯をいじっていた蘭が、やっと口を開いたので大げさに反応してしまう。
「え、本当にいるの!? 知りたい!」
「いいよ、教えてやる」
「オレ、ちょっとコンビニ行ってくる」
このタイミングで!? びっくりしている私をよそに、蘭は和やかに片手を上げて見送っている。
この兄弟、こういうところがある。私にはわからないところで分かり合っていて、それが当たり前のように行動する。幼馴染といえども、私は極論他人なのでしょうがないけれど、少し寂しいような。そうでもないような。
けれど、よく考えたら、兄の恋愛事情を赤裸々に知るのも気恥ずかしかったりするのだろうか。それか、自分に火の粉がかからぬうちに蘭を生贄にして逃走したか。(もしそうだったとしても、蘭がタダで生贄になんてなるわけがないので多分ハズレだ)
竜胆は後回しだ、まずは蘭の好きな女の子の話を聞こう。
「ん」
「ん……?」
手渡されたのは蘭の携帯。意図が掴めずに、持ち主と携帯を交互に見遣る。首を傾げれば、蘭はなんだか眩しそうに目を細めて言った。
「解除してみ。そうしたら、オレの好きな女がわかる」
「解除って、ロック? なにその謎解き要素」
「そー、ロック解除してみような〜」
人の携帯のパスワードなんて知る由もないのに、蘭は小さい子に言い聞かせるように言う。解除すればわかるって、好きな子の写真を壁紙にでもしているんだろうか。あの蘭が。超マジじゃん! 似合わな!
でも、もしそうなら。あの日常生活でも女性関係でも、自由気ままな蘭がそこまで執心する子がどんな人なのか気になる。
蘭にはたくさんの女の子の知り合いや、それ以上の関係の子がいるのは知っている。けれど、女の子として蘭に選ばれる子がどんな子たちなのか、私は一切見たことがなかった。
どんな子がタイプで、どんな話をして、その子に対してどんな表情を、蘭が見せるのか。私は、目の前の幼馴染である蘭しか知らないから。
そこまで考えて、言い知れない感覚に包まれる。冬の夜がひとり分だけ用意されて、そこにすっぽりと置いて行かれたみたいな。
いやいやいや、何をちょっとしんみりしているんだろう。こんなに面白い話を前にしているのに。
「ていうかさ! ヒントないとわかんないよ。ヒントちょうだい」
「ヒントなあ、よくあるパスワードといえば?」
「……誕生日?」
カチカチと四桁分のボタンを押していく。蘭の誕生日、では、
「解除されないじゃん!」
「オレの誕生日だなんて一言も言ってねぇじゃん。は単純だなぁ〜」
「うるさいな」
竜胆がいた、ひとりぶんの余白をそのままに、ソファの端っこで蘭はケラケラ笑っている。目のふちをいつも以上に緩めて、「これが愉快だと感じている人間の顔、その代表です」と紹介できそうな表情。
今日は、なぜだか、蘭の瞳が雄弁な気がした。
「だって、蘭の知り合いで、私が知ってる人なんて……あとは竜胆くらいじゃん」
竜胆の誕生日。素直に入力してみるけれど、これも違う。
「」
「なに?」
「だから、」
「え、だからなに?」
「オマエの誕生日入れてないだろ」
「え、」
どきりとする。蘭がこちらをじっくり探るように見つめてくるので余計に。
でも、一瞬の間の後にしっかりと理解する。びっくりした、これは危なかった。その視線の意図に、蘭の策略を見た。
パスワードが私の誕生日だったとして。「もしかして、蘭の好きな人って……」と思わせておいて、ロックを解除したら知らない美女の写真が壁紙になっているんだろう。本命はこの子でーす、という悪戯な紹介の仕方。タチの悪い上げて落とす作戦なのだ。
くっ、なんてヤツだ! どうやったら彼氏ができるんだろう、なんて悩んでいる健全な女子高生の心を弄ぶな!
と思いつつも、蘭の言う通り自分の誕生日を入力してみれば、本当に解除されたロックに少しのむず痒さを覚える。くちびるをしっかり結んでいないと、弛んでしまいそう。
けれど、次弾が装填されているのは目に見えているので、上げて落とす作戦に心を備える。備えたのだ、けれど。
「……え、壁紙に好きな女の子設定してるんじゃないの!?」
「ハ? してねぇわ。ンなこと誰も言ってねぇじゃん。はいつも一人で突っ走ってんな、ウケる」
壁紙爆撃は起こらなかった。シンプルな待ち受けに、思わず拍子抜け。肩の力がゆっくりと抜けていく。
……ううん、待って。なんで私はちょっと安心しているんだろう。陽だまりに悴んだ指先を突っ込んだみたいに、じんわり解けている。
え、だって。この謎解きを始めた意味を思い出してみてほしい。私が思ったことをそのままなぞるように、蘭が言う。
「オレが最初に言ったこと覚えてっか?」
珍しく、蘭が本当の意味でやさしい笑みを浮かべた。それだけで、いまこの時この場所が人生の中で特別なものに塗り替えられてしまう。
最初に言ったこと。壁紙には絶対美人がいる、と勝手に戦々恐々としていた私は、蘭の意図とはずいぶんズレたところに立っているらしかった。
最初に、蘭が言ったこと。ロックを解除できれば、好きな女がわかる。壁紙に写真はなし、ならばその手がかりはパスワードしか、
「えっ」
「やっと気付いたのかよ、オレがのこと好きだって」
携帯なんて用済みだとでも言うように、蘭の細長い指先に奪われる。と同時に、残されていた一人分の距離を一気に詰められてしまい、思わず後ずさった。
私に残されたソファはわずかばかりだったというのに。当たり前のように、ソファの端っこからお尻が落ちた。
「うわっ!」
「あぶね」
落ちた原因に腕を引っ張られて、思いっきりその腕の中に誘い込まれてしまった。間抜けに落下しなかったのはよかったけれど、これなら落ちた方がよかったかもしれない。
蘭はもともとパーソナルスペースが狭いけれど、こんなに近いことは滅多にない。竜胆よりは薄い体でもこうやって触れてしまえばしっかりと固くて、相手が私なんかだともう無力化は赤子の手をひねるようなものだろう。
片手で簡単に閉じ込められてしまっている事実と、さっきの言葉の真偽に戸惑いを隠せない。誰にも届くことのない救難信号を込めて視線を上げれば、間近でばっちりと蘭と目が合う。唇が触れ合いそうな距離で、なんともなさそうな様子で笑う。
「チャン、積極的じゃん」
「な、な、そんなワケないでしょ!!」
あまりのことにせめてもの抵抗をとそっぽを向けば、ガラ空きになった反対側の首筋に蘭が顔を埋めるから。蘭が吐き出す息が、やたらと熱くて首から全身に熱が巡っていくみたいで、人が羞恥で死ぬなら私は今死ぬ。
キャパオーバーをわかっていながら、ひょいと追い越していく蘭は、全然やさしくない。少しでも、どうにか少しでもいいから一矢報いたい。
「らっ……蘭が好きな女の誕生日をパスワードにするなんて似合わない!」
「ハァ? オマエ、オレのことなんだと思ってんだよ」
「女遊びの激しいロクでもない幼馴染……」
でなければ、こんな風に手慣れていないだろう。否定はされずに鼻で笑われる。腕の力が少し強まって、息がしづらい。
「じゃなかったらボコボコにしてるわ」
これはきっと嘘じゃない、蘭は誰にでもひどい。それはもちろん竜胆にも。
でも、私には一切ひどくしなかった。私は今、生まれてはじめて蘭にひどくされている。
「もうボコボコにされてる」
「そうだなぁ、心臓ボコボコ言ってんなァ」
「うるさい! 引っ付かないでよ!」
押しても引いてもびくともしないから、その腕の中で憤慨するしかやることがない。
「オレ、オマエが何してもかわいく見えんの。昔から」
もがけばもがくほど、私を抱く腕が強くなる。まるで、蜘蛛の巣に引っかかった獲物みたいだ。
それでも、そうせざるを得ないようにさせられている。だって、胸の内側に満たされてしまったこの熱の発散の仕方がわからない。
「なんで暴れんの」
「だ、だって、突然、なんかこんな、」
「突然じゃねぇよ。が知りたいって言ったんだろ」
たしかにそう。正論パンチにぐうの音も出ない。私が暴こうとしたところにはお宝だけではなく、こちらを狙う盗賊もいたのだ。このままだと、全部盗まれてしまう。
「は一人で勝手な方向に走っていくから、そろそろちゃんと捕まえといてやろうかなと思ったんだよ」
オレ以外の前で突っ走られたらたまんねェもんなァ。一段、声のトーンを下げて警戒するように蘭は言う。
表情は見えない。ちゃんと捕まったら、私はどうなってしまうんだろう。私だけの冬の夜は明け、春が訪れるのだろうか。
「で? オレの一世一代の告白、はなんて返事するワケ?」
ほんの少し、ようやっと緩んだ腕とは反対に、硬さを含んだ声で蘭は問い掛ける。もうきつく抱き締めなくても逃げられないと言われているようでもあった。
蘭の瞳が、じっとりとした熱で濡れている。
「で、どーすんだよ。チャン」
蘭はうっそりと笑う。答えは決まっている、という空気が肌を包んでいるのが悔しい。それを強く否定できないのがさらに悔しかった。
「何も言わねぇなら、オレの好きなように取るけど」
言い方は傍若無人に聞こえるけれど、無理やり屈服させようとしないところに蘭の本気を感じてしまう。みぞおちのあたりから、ぐっと迫り上がるような気配がする。私の心臓を蹴り上げるみたいに。
蘭が恭しくこめかみに唇を近付ける。キスなんかじゃない。けれど確実に触れているくちびるは、慰めるようにただやさしく触れている。
「……生活習慣改善してくれないと、イヤだから」
しっかりとした言葉にするには、まだ輪郭を持っていない。けれど、私の中には確かに存在しているそれをどう伝えていいのかわからなくて、蘭の首筋にぎゅっと額を押し付けた。
ちいさく、息を呑んだような音が聞こえた。
「は手がかかるから、他の人間なんて構ってる暇ねぇよ」
いつもみたいにケラケラと笑う音が、こんなにも軽快だったことはあったかな。蘭が嬉しそうだと、私も嬉しい。私が嬉しい時、蘭も嬉しく思ってくれるといい。
恋とはどんなものだろう。
春の訪れのように例えられるけれど、きっと春の木漏れ日みたいにやさしくない。強い風で全てを一気にさらって、掴んで離さない。
私の中の春の到来はそんな、嵐のように乱暴でやさしいものなのだと思う。
生まれたての春は、瞳を嬉しそうに崩してはじめて選んだ女の子を映していた。
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amethystの菩薩さんへ。長編完結おめでとうございます!