ハートブレイクにつき



「蘭、誕生日おめでとう!」

 その一言で、蘭が表情を崩したのを鮮明に覚えている。普段は澄まし顔で何事にも動じないのに「ありがとなー」と笑った顔は、その言葉は、途方もなくきらきらしていた。蘭が誰にも見せたことのなかった宝石を、私だけに見せてくれたような。
 輝いて見えたのは、金髪が太陽に透けたからじゃない。珍しく年相応なその表情は蘭を身近に感じられて嬉しくなった。それは特別な感情の種を私に植え付けた。
 味を占めた私は、竜胆も巻き込みお祝いをずっと続けてきた。言葉から始まり、ケーキを買いに走り、プレゼントを用意した。私たちが年を重ねるにつれて、誕生日という一日はお祝いの名にふさわしくなっていった。
 昔から変わらず、何を考えているかわからないあの顔が、わかりやすく柔らかくなるのを嬉しく思いながら。
 毎年、飽きもせずに同じケーキで同じ顔ぶれで同じ言葉を。少しずつ変わっていったのは、ひっそり隠れながらも健やかに育っていく、私から蘭への想いだけだ。
 きっとこれからも変わらず、せっせと隠しながら成長を見守ることになると思う。
 蘭はきれいな女の人を取っ替え引っ替えして忙しいし、幼馴染という枠組みに守られている方がこの特別は長続きする。
 しんどいなあと思うこともあるけれど、夢を見ない方が楽なこともあるんだよなってわかっているのだ。

「毎年思うけど、蘭の欲しいものってわからないなあ」
「だいたい欲しいものは自分で買ってるしな。まあ、オマエからならなんでも喜ぶよ」
「えー、そうかな? 竜胆がいるからだと思うけど。蘭、竜胆のこと大好きじゃん」

 竜胆とふたり、蘭が喜びそうなものってなんだろう、と頭を突き合わせて悩んだ回数も二桁になる。
 蘭には内緒で六本木の街を歩くのも、もう恒例行事だ。きっと本人にも気付かれてはいると思う。でも、気付かぬふりを今まで通してくれたから。
 今回もそうだと思っていた。いつも通りの買い出しの中で、視界の端に見慣れた黒と金の髪が流れた気がして。無意識にその糸を辿れば、しっかり紫色の瞳がこちらと絡んだ。
 それが不自然に逸らされたとしても、それは、蘭の思いやりによる知らんぷりだと思っていたのだ。だから、プレゼントを買い終わった時には、そんなことは思考の海に埋もれて忘れ去っていた。
 竜胆と選んだ贈り物は、当日まで竜胆が隠し持ってくれることになっていたし、あとはいつも通り私が当日にケーキを買いに走ればいいだけだ。
 準備は万端、あとは当日を待つのみ!と浮ついた気持ちを撫で付けた。
 またあんな顔が見れるんだなあ、とまぶたの裏にあの日を映し出す。蘭の特別な日は、私にとっても特別な日になる。
 本人よりも楽しみにしているなんて「馬鹿だな、オマエ」と笑われるかもしれない。それでもよかった。
 そうやって浮かれていたから、気付かなかったのだ。不機嫌を全面に押し出した、色の抜け落ちた顔と真正面から対峙するまでは。


 誕生日を数日後に控えたある日。学校帰りに蘭と竜胆が住む部屋に寄った時のこと。
 リビングのローテーブルを囲んで、当日は何時に集合するかと話していたウキウキな竜胆と私の元に、のそりと今起きたという様子で蘭はやってきた。いくら夜型人間だといっても、もう夕方なんだけど、と思いつつも口にはせず蘭を見る。

「蘭、おはよう」

 視線が合ったにも関わらず一言も発さないから、なんだなんだと構えてしまう。そこからじろりと、竜胆と私を一緒くたに視線でなぞってから心底怠そうにソファに座った。
 なんだか、蘭史上最大の機嫌の悪さな気がする。竜胆を見れば、同じことを考えていたのか、こちらも瞳が困惑に揺れていた。

「オマエらなんの話してんの」

 疑問の音を含まない、威圧的な質問に疑問符を重ねながらも竜胆が「二十六日の話だけど」と口火を切ってくれたので私も続く。

「蘭の誕生日、今年もお祝いしたいなって」

 恒例だから、サプライズもなにもあったものじゃない。蘭本人だって、そんなことはわかりきっているはずなのに、今までになかった質問にしどろもどろだ。
 こちらの様子をよそに、蘭は無感情でそっぽを向いて言った。その声は表情に似合って、一切の起伏がなく冷え切っている。

「オレ、予定あるし。誕生日のお祝いとかいらねーわ」
「えっ」
「え、兄ちゃん、マジで言ってる?」
「は? マジだけど」

 当たり前のように、私たちのウキウキが更地にされた。笑っていない目で、さらには鼻で笑われて二の句が継げない。

「つーか、この年になって、弟とオサナナジミに誕生日祝ってもらうとかサムイだろ」

 この年って、まだ十七歳だろうが!とか、サムイってなんだ!と憤慨したくなったけれど、言葉が出なかった。反論してやりたかったのに、あまりの言いように何て言っていいかわからなくて、竜胆と顔を見合わせた。
 その様子すら今の蘭には不快なようで、訳がわからない私たちと大きな舌打ちをリビングに残して、蘭は自室に引っ込んでしまった。滞在時間、二分足らず。えっ、不良みたい、態度最悪では!?(みたいではなく、正真正銘の不良だが)
 そうやって元気に不平を生み出す心中と、ずぶずぶの真っ暗闇に包まれた気持ちが胸で半分ずつ暴れている。
 今年で、蘭は十八歳になる。この年齢まで飽きもせず繰り返してきたことは、蘭にとっては飽き飽きしていたこと、だったのだろうか。
 それとも、私たちの知らない間に本命の彼女でも出来ていたのだろうか。それだったら確かに、この状況は寒いのかも、しれない。
 そう思うと、しん、と落ちた沈黙が瞳に滲みてくる。でも、

「いや、待って。本当に嫌だったとしても、さすがにあの言い方はなくない!?」

 じんわり染み込んでくるさみしさと蘭への気持ちの終端のことは、今は見て見ぬ振りをしたい。

「あー……兄貴が悪い」

 竜胆が謝ることじゃないのに、困ったように言う。謝られると、こんな訳のわからないことで、本当に終わるんだなと悲しくなった。ふつふつと腹の奥で煮立つ怒りに、心を任せている方がきっと楽だと思う。
 頭の中に残っている、光りを蒔いた蘭の笑顔は、ぱちんと弾けて消えてしまった。


 そうして迎えた誕生日当日。布団から抜け出せずに、携帯を開いて日付を確認する。五月二十六日、時間は七時。特別な日はただの平日に取って代わった。
 なのに、普段とは違う意味で布団から出られない。私の後ろをあの時の蘭の言葉が追いかけてくるので、眠ったままの方が気が楽だった。

「学校行きたくない……」

 学校に行ったって、どうせ蘭はいないのだし、今日はただの平日なのだし。だから行くべきなのだけれど。
 ぎゅっと布団を巻き込んで葛藤していれば、部屋の外からお母さんが呼ぶ声がした。朝ご飯早く食べちゃって、と急かされたので遅い動作で朝食まで辿り着く。

「今日お父さんもお母さんも遅くなるけど、は灰谷くんのところに行くんだよね?」
「え、なんで?」
「なんでって、誕生日はいつも集まってたでしょ」

 当たり前のことのようにお母さんに言われて、返す言葉に詰まってしまう。もうその「いつも」は消え去りました、と言えるほど私が回復していなかった。

「……今日は行かない日」

 ついでに学校にも行きたくない日なんだけどな、と言えば大きなため息と一緒にノーの答えが返却された。どうせ灰谷くんたちと喧嘩したんだろうと言われて、唇が勝手に尖っていく。
 違う、喧嘩なんてもんじゃない。あれは意思疎通なく、蘭の人生の道ゆきからはたき落とされただけだ。そう思うと、じわりと寂しさが目に滲む。
 けれど、親というのはそんなものには慣れたもので、早く行けとお尻を叩かれた。なぜなら、昔から蘭や竜胆と喧嘩した次の日はこんな様だったから。今回はちょっと様子が違うんだけどな! 容赦がなくて泣きたくなった。仕方ないから行くけどさあ!


 ——しぶしぶ遅い歩みで学校に行けば、まさかの事態になっていた。
 普段、お昼から来れば御の字、そればかりかほとんど学校に顔を出さない灰谷蘭が昇降口で女子たちに囲まれているではないか。
 学ランをゆるく着崩して、校則どうした?と言われそうな黒と金の髪の毛を三つ編みにして。蘭以外にそんな人間を見たことがなかったし、私が蘭を見間違えるはずがない。
 上履きに履き替えるにはその横を通らなければならない。近付くにつれて「蘭くんおめでとぉ!」だったり「今年は直接お祝いできて嬉しい!」だったり湧き立つ声がはっきりと聞こえ始める。
 私には、もう許されない言葉たちが飛び交うので腹立たしい。始業前から学校に来ているだけでも天変地異の前触れのような気分だけれど、素直に祝われている蘭も蘭だ。
 私たちからのお祝いは素気無く断っておいて、他の人からのお祝いは素直に受け取るんだ。ふうん。暴れ出した気持ちは、私の胸を食い荒らすだけ食い荒らして収まるところを知らない。

「おー、ありがとなー」

 嫌なことには蓋をしたい。平坦な声でも、特別な言葉でなくても。あの時と同じ言葉が他の誰かに手渡されるのは堪える。
 見ざる聞かざるで通り過ぎるしかできない自分が情けない。どうせだったら一発くらいやり返してやりたいけれど、百倍で返される未来が見えていて何もできない。私はひ弱だ。
 このどうしようもない気持ちは、後で竜胆にでも全部ぶつけてやる。蘭が来ているなら竜胆も来ているだろうから。ここにいないなら教室にいるだろうと、さっさと上履きに履き替え教室に向かおうとした時、



 そう呼ばれた気もしたけれど、あんな喧騒の中からその言葉だけが耳に届くはずもない。気のせいだと、聞き慣れた声を振り切った。

「あれっ、竜胆、今日来てないの?」
「来てないよー、ていうか来ることの方が珍しいじゃん」

 何言ってんの?と友達は言う。教室を見回しても、確かに水色と金色の目立つ頭はどこにもいない。

「でも、確かに蘭くんは来てたね。珍しい」

 そう、そうなのだ。そうすると、蘭は一人で学校に来たってこと? 別に小さい子でもないんだから単独行動してもおかしくはないけれど、そんなに大勢に誕生日を祝われたかったってこと? それとも、やっぱりこの学校に彼女でもいるのか。
 そうだったら最悪だ。やっぱり今日は学校に来るべきじゃなかった。蘭が来るはずがないと高を括っていた。一番見たくないものを見せられる可能性が高い。……いざとなったら、お昼に体調不良ってことにして早退しよう。
 そう強く決意した私を嘲笑うように、蘭は休み時間の度に私の目の前にやってきては色々な女の子たちから祝われていた。トイレに立っても、教室移動の最中も、購買に友達と行く時も。
 女の子たちと蘭の応酬も、ぺったりとくっ付いて寄り添う姿も、私の目には猛毒で。致死量で息の根が止まりかねない。どの子が蘭の彼女なのかはわからない。私がこの十年溜め込んだ気持ちを消化しきるまでは、知りたくない。

「体調不良! 帰る!!」

 いざとなってしまった私は、四限目の先生が教室からいなくなった瞬間に鞄を引ったくるように持つ。「がんばれー」というゆるい見送りを背に教室を飛び出した。あとは、私の四限目までの醜態を見ていた友達がうまく先生に伝えてくれるだろう。


 ——早退したはいいものの。私の足が向かった先は毎年二回、必ず足を運んでいるケーキ屋だった。完全に無意識で、辿り着いてしまった。
 もうこれは癖だ、十年も続けていたからこの日はここに来るものだって染み付いている。ハッとした時にはショーケースの前で、店主のおじさんが「今年は何にする?」と笑っていた。

「あの、今年は、」
「今年でお祝いも十年目なんだっけ? 区切りの年だね。長いこと仲が良くていいことだ」

 「区切りの年に本当に区切られたんですよ、笑っちゃいますよね!」とは言いにくかった。笑えない。ぐう、と言い淀んでくちびるを噤む。ここまで来てしまったのだ、お財布には痛手だけれど傷心パーティ用に買おうじゃないか。
 蘭が甘ったるいものは好きじゃないからと、選んでこなかったつやつやのいちごがたくさん乗ったショートケーキを選んだ。見栄を張って、ホールで買った。今日はただの平日になったのだと、自分に突きつけているようで胸がぎゅっとした。
 ぼんやりとしながら帰り着いた家には、誰もいなかった。それはそうだ、まだお昼だし、お父さんもお母さんも今日は遅いって言っていた。このホールケーキは本当に私ひとりの胃袋に収まるのだろうかという懸念が過ぎる。

「もしもし? え、学校は?」

 なにかあった時の竜胆だ。学校にも来ていなかったんだし、この時間でも暇しているだろうと電話すれば、予想通りすぐにコール音は途切れた。

「早退した。蘭が学校に来てたから」
「……兄貴におめでとうって言った?」
「言ってないよ。あんな風に言われて、祝う気にならないでしょ」
「あーマジか」

 心底びっくりした、といように竜胆の声が揺れていた。いや、あの現場に一緒にいたんだから、びっくりされるのはこっちも想定外なんだけど。

「マジだよ。みんなに祝われに学校来ておいて私たちからは祝われたくないって、なに? 行くところ行くところで、蘭と女の子たちがいちゃついてるの見かけるし。最悪だよ!」
「いや、あれは……あー、うん。そうだよな」

 全体的に歯切れが悪い。あの後、蘭と竜胆の間でどんなやりとりがあったのか私にはわからない。もしかしたら、竜胆はどの子が彼女なのか聞いたのかもしれない。
 でも、もうそれでもよかった。大っぴらに愚痴を聞いて、ケーキを一緒にお腹に溜めてくれるのは、もう竜胆しかいないだろう。

「ていうか、これから暇? ケーキ食べようよ」
「え、買ったの?」
「うん、癖でお店行っちゃってさあ。今年からは祝いません!とも言えず……買っちゃった。ショートケーキ、ホールだから後でうち来てよ」
「ホール!? 祝うつもりなかったのにホールとか無謀かよ」

 自分でもそう思う、と竜胆と一緒にひとしきり笑えば、ちょっとだけ気持ちがまろやかになった。きっと、ショートケーキを食べ終わる頃には、十年分の一ヶ月くらいは過去の思い出にできる気がした。
 「……ま、あとで行くわ」と、なんだか微妙な余韻を残しつつ、軽い返事で竜胆は通話を終わらせた。いつもとは違うショートケーキで、笑い声は一人少ないふたり分、お祝いの言葉は言わない。
 さみしいはすぐに涙腺をつつく。すぐ胸に迫ってくる熱い塊を、大きく息を吐き出すことで処理した。竜胆がくるまでにお茶の準備をしておこうとキッチンに向かうと、軽快なチャイムの音が響いた。
 早くない!? 竜胆と私の「あとで」は尺が異なるようだった。外出でもしていてそのまま来たのか、短気すぎやしないかと思いながら、念のためインターホンの応答ボタンを押してモニターを見れば、

「ら、蘭!?」

 映ったのは予想外すぎる、蘭だった。……なんで?

「な、なんで?」
「開けろ」

 素直すぎる口は思った通りの形に動いた。それに対して、不機嫌を隠そうともしない声が電子機器を通して部屋に満ちる。
 インターホン越しなのにここまで威圧感が出せるなんて、就職先は殺し屋とかがいいんじゃないかと思ってしまう。蘭がまともに働く姿なんて想像がつかないから、当たらずとも遠からずの職には就く気がするけれど。
 呑気にそんなことを考えていれば、相当焦れたのか玄関の扉がひどい音を立てた。ガンッ!という音は通常ドアから出ていい音じゃない。ドアが蹴られている!
 蘭の評判は六本木不良界隈ではいいのかもしれないが、それは悪名高いというものだ。これ以上一般人界隈での評判を落とされたらたまったものではない。それは、そんな蘭たちと関わっている私への評判にも直結してしまう。

「な、なにしてんの!? 近所迷惑でしょ、やめてよ!」

 慌ててドアを開ければ、間髪入れずに蘭の長い足が我が物顔で部屋へ入ってきた。
 私の話なんて聞いちゃいないようで、足の次は半身を。何をしてでも扉を閉めさせないという強い意志を感じて、思わず身を引いてしまう。

「オマエ、なんで祝いにこねぇんだよ」
「話聞いてくんない!?」

 体を逃したら逃したで、獲物を狩るように追い詰められてしまう。普段は去るもの追わず、なのに、自分に反抗するものに対しての執念深さったらない。
 ダン!と鈍い打撃音が顔の真横で聞こえて、思わず息を呑んだ。か、壁に穴が開いてしまう……!
 伊達に幼馴染をやっていない。怒った時の蘭には慣れている。けれど、家に物損があるとなれば話は別だ。だって怒られるのは私になる! はらはらとしながら突き出された腕を辿って壁の様子を伺えば、確認が取れる前に首があさっての方向に引っ張られた。

「オイ、よそ見とかいい度胸じゃん」
「いった!」

 頬を片手で挟み掴むようにして、蘭は力任せに振る舞った。結果、私は蘭の絵画のように整った、けれど感情の全てを削ぎ落とした顔に真正面から向き合うことになった。
 これは蘭の癇癪だ。自分の思い通りにならないから、そうやってねじ伏せようとする。ここら辺が昔から変わらない蘭のひどいところ。
 何が不満だったのかはわからない。ただ、その顔が笑みで飾られていないことだけが、蘭の余裕のなさを物語っていた。
 だから、すこし冷静になれるのだ。

「オレが先に質問してんだろ、なんで来ないんだって聞いてんだよ」
「いや、私が先に質問したよね!? 横暴すぎるでしょ!」
「ハァ? 知らねェよ。つーかオマエ、あんなにオレの誕生日祝いたいとか言ってたくせに、結局一言もなしかよ。薄情なヤツだよなァ」
「は、はあ!?」

 冷静に、なれたはずだったのに。蘭がこれでもかと、ガソリンタンクの蓋を取り去って逆さまにしてしまったみたいに、私の消えかかっていた火に燃料を注いでいく。

「オレがあんだけ学校の奴らに祝われてても、チャンは素通り、一言もナシ。しかも早退とかオマエ、マジでふざけんなよ」

 右には蘭の腕が檻のように、顔も掴まれているから逃げ場なんかなくて、真っ直ぐに蘭の怒りを受け止めるしかできない。
 色素の薄い瞳は爛々と輝いている。けれど、それは昔に見たやわらかいものではなくて、剣呑なもので満ちていた。
 一身に視線と言葉を浴びながら、ふざけているのはどっちだ、と体が震えた。蘭の一言一言で、あの見たくもなかった光景がまぶたの裏で模られていく。私には言う権利がなくなった、もうもらえない言葉が響いて苦しくて、惨めだ。
 喉の奥が熱くなって鳩尾あたりがぎゅうっと掴まれたように縮んだ。どんどん視界が悪くなっていく。

「ていうか、お祝いなんていらないって言ったの、蘭じゃん……!」

 私の奥で燻っていた火はちりついて、導火線に引火した。ずっと隠していた、ずっと育ててきたものだから、きっとよく燃えてしまう。
 大きくなってしまった想いを、どうせならここで全部燃やし切ってやると思った。思ったのに。

「あ、あれ、」

 今までで一番の罵詈雑言を浴びせてやる!と息巻いていたのに、思ったような言葉は出てこなかった。代わりに目じりが熱く冷えて、それは蘭の指先を伝って落ちた。
 ぼろぼろと、枯れることなく湧く泉みたいに落ちていくのは、確かに涙だった。泣くことなんてあまりに久しぶりで、泣くつもりなんてなかったから驚いて。

「は、」

 でも、それよりも。まるでこの世の都合が悪いことは全部お前のせいだとでも言うように私を責め立ていた蘭が、私以上に驚いていたので、さらにびっくりしてしまった。
 目を丸くしたら、一際大きな雫が蘭の手を濡らす。すると、元々困った眉なのに本当に困ったような顔をした。



 どうしたらいいかわからない子供みたいに、名前を辿々しく呼んで、親指で涙を掬い上げた。

「や、やめてよっ」

 手のひらまでべちゃべちゃの蘭にそうされると、顔中が涙に塗れてしまう。(べちゃべちゃなのは私のせいなのだが)好きな男の前で顔が液体まみれになることと、久しぶりに泣いてしまったことへの羞恥があった。
 顔を横に逃そうとすれば、易々と蘭に阻止される。でも、逃げられない事実は変わりなくとも、今度は強引ではなかった。手のひらはやわらかく濡れたまま。



 それからむっつりと黙った蘭と、視線を逸らすことが許されない私。蘭は眉間をぎゅっと詰めて、持て余すようにまるい額を私の肩口に押し当てた。
 腕で作られた檻からは解放されたのに、さっき以上に逃げられなくなってしまった。手持ち無沙汰で、蘭の丸まった背中を見つめた。
 いつもは竜胆がどうにか宥めすかしてくれていた場面でも、お助けキャラはここにはいない。泣かせることも屈服させることも得意な蘭は、もちろん泣き止ませることなんて得意じゃない。
 今のこの状況から察するに、蘭は今回、私を泣かせようと思っていなかったのだと思う。烈火の如く言いがかりをつけられていたけれど、蘭は泣かせようと思っている時はこんなふうに困惑しない。蘭は想定外に弱いから、今回は、本当に。
 でも。じゃあそれって、なぜなんだ、という疑問が浮かぶのは当然な訳で。

「逃げんな」

 肩にくっついた蘭が空気を揺らす。その振動は静かなもので、すっかり熱が抜け落ちている。私のまぶたは涙に炙られた後だったけれど、涙はすっかり乾いていた。

「逃げてないよ」
「逃げただろーが」
「なんの話かわかんない」

 正直、心当たりがありすぎて、どのことを言われているのかわからなかった。けれど、素直に「蘭に関わりたくなくて避けていました」というは癪だし、数分後の私の身が危険に晒される気がして閉口した。
 それに、行く先々で結局蘭に捕まっているのだから、全く逃げられていないと思う。言いがかりだ。

「……さっきも、その前も、朝も、今日一日逃げ回ってただろうが」

 不服申し立てをする様は、蘭にしてはしおらしい。さも自分が被害者のように言うけれど、元々は蘭が「私たちと一緒にいるのはサムイ」みたいなことを言ったのが発端だ。すこしは反省してほしい。物理攻撃よりも攻撃力が高い精神攻撃もあるんだと理解して欲しい。

「いや、だってさ。あんな風に言われたら、もう一緒にいたくないのかなって思うでしょ」
「それは悪かったって言ってんだろ」
「え……いや、一言も言ってなくない!?」

 一瞬思い返してしまったけれど、蘭は今日一回も謝ってなんかいなかった。灰谷蘭と一緒にいると、口に出ていない言葉まで空気の中から探し出して翻訳しないといけないらしい。
 けれど、追求に対して「ウルセー」という姿には普段の強気な様子は見えず、本当に少しは悪いと思っているようだった。悪かったとは言われていないけれど、近しい言葉が蘭の口から聞けるなんて希少価値が高い。

「オマエもなんか言うことあンだろ」
「言うこと?」

 流石に、蘭が言いたいことは理解している。ここに訪ねて(押し掛けに、の方が正しい気もする)きた時から、一貫して蘭はひとつのことに苛立っている。
 だから、これは私からのすこしばかりの意地悪だ。はたき落としたならば、ちゃんと蘭手ずから引き上げてほしいのだ。

「……祝えつってんの」

 苦虫を噛み潰したように、蘭は言った。そんな顔がみられると思っていなくて、思わず笑ったらどつかれた。祝ってほしいと言った人間の起こす行動じゃなくない?

「あー、ふふ、はいはい、おめでと」
「ハ? もっと真剣に祝えよ」
「それ、お祝いいらないって言った人が言うセリフ?」

 あまりにも横暴で笑みが溢れた。あまりにも子供みたいに蘭が強請るから、落ち込んでいたのも、全部捨ててやる!と息巻いていたのも、馬鹿みたいでどうでも良くなる。
 きっと、この気持ちは捨てても勝手に手の中に戻ってくる。厄介だなあと思うけれど、やっぱり手放せないのだと思う。
 蘭は何ごともなかったみたいに、すんとした顔をしてやっと私を解放した。靴も脱がずに、玄関で、私たちは何をしていたんだって笑えてくる。蘭は我が物顔で上がり込んで私の背中をリビングまで押してきた。

「ていうかさ、なんでこの前はあんなに不機嫌だったの?」

 今日のことはなんとなく、わかった。けれど、ことの起源はさっぱりだった。数日前、不機嫌を煮詰めた男が誕生した理由にとんと思い当たる節がない。
 勝手知ったるでソファで寛ぐ蘭の隣に座って、顔を覗き込む。すると「コイツ、マジかよ」と言いたげな顔と遭遇した。あからさまに大きなため息。こいつ、まじかよ。それはこちらのセリフなのだが!

「竜胆と何してた」
「竜胆? いつの話?」
「先週の土曜」
「先週の土曜が、なにって……いつも通り、蘭の誕生日プレゼント選んでただけだけど」
「来年からそれヤメロ」

 ピタリと時計の針が止まったかのようだった。耳から通ったひとつひとつの音を繋げて、言葉に落とし込むのにいつもより時間がかかった。
 ふたりの間に横たわる沈黙は、きっと蘭にとってはとても居心地が悪かっただろう。蘭が気まぐれに落としていったピースを追いかけて拾って、ていねいに繋ぎ合わせたら。

「毎年恒例なのに? いつも通りだよ」
「いつも通りだからだろ」

 まるで、竜胆と私がふたりでいたことが気に食わないとでもいうような。不自然に逸された視線は、思いやりの知らんぷりじゃない。竜胆と頭を突き合わせていた時の蘭の視線に、蘭だけがここにいる意味を。
 だってさ、蘭。それってさ。
「もしかして、蘭って思ったより私のこと好きなの」
 口にはしなかったけれど、そういうことだと思った。自惚れかもしれなくても、それって。多分、やきもちって言うんだよ。
 蘭から移された不機嫌も吹き飛ぶようだった。おかしくって、笑みが溢れてしまう。大事に育てていた想いは手元に置いておいても良いらしい。
 蘭は恥ずかしさを感じていても、今までの手前、それを吹き飛ばせずにいるようだった。「笑ってんじゃねぇよ」と拗ねたように小さく溢れただけ。

「んふふ、あ、ケーキ食べる?」
「あんの?」
「癖で買ってた。一緒に食べよ」

 そう言うと、蘭は珍しくぱっと目の色を変えて本当に嬉しそうにした。「オレのこと大好きじゃん、オマエ」と言う蘭を否定はしない。そう、私はずっと蘭のことが大好きなんだと思う。あの時からずっと変わらずに。

「あ、竜胆にも連絡入れよっか、後で来てとは言ったんだけど」
「……竜胆は呼ばなくていいだろ」
「でも、プレゼントは竜胆が持ってるから、」

 持ってきてもらわないと私には手持ちの贈り物がケーキしかなかった。だって十八歳の誕生日がそれじゃあ味気ない。
 そう言いかけた私を制したのは蘭で、さっきとは打って変わって不機嫌そうにくちびるを曲げている。こんなに表情がコロコロ変わる蘭も珍しい。ふてぶてしく当たり前のように言う。

「オマエにしか渡せないモン、あんだろ」
「渡せるもの、本当にケーキしかないんだけど」

 まさか、サプライズを期待されているのかとドギマギしていると、蘭が呆れたように私の頬を掴んだ。半目でこちらを見る様子に、私はどうやら見当違いなことを言っているらしいことはわかった。
 しょうがねえから教えてやるよ、と前置きをする。蘭の瞳がやわくたゆんだ。

が好きだから、全部寄越せって言ってんの」

 言葉の後に「竜胆にやる分はねーよ」と続いたことで、さっきの自惚れは確信めいたものになる。あんなに可愛がっている弟にすら、ずっと一緒にいた私たちの関係性にすら、やきもちを妬く蘭に心臓が撫でられて肌がざわめいた。
 呼吸が止まるって、こういうこと。頬を掴まれて格好がつかない私を、そうしているのは蘭の癖に「ぶっさいくな顔」とあまく笑って。
 もしかしたら、そうなのかも、とさっきも思った。けれど、あの蘭が真っ直ぐな好意を言葉にすることなんて一生ないと思っていたから。

「予言してやったろ」

 指先が頬を撫でる。オマエはもう幼馴染じゃないんだと言われているような、そういう触れ方だった。

「今年は、幼馴染に祝われる気はねぇの」

 いつからか占い師に職を据えたらしい。どこをどう見てもエセ占い師なのに、その予言は当たってしまうのだろうから悔しい。
 ここまで言えばわかんだろ。さも、どうでもよさそうに言う蘭の、形のいい耳の端っこがほのかに色づいているのを見て、本気なんだと悟る。落胆しなくてもいいということを、ていねいに理解させられている。

「今年は好きな女に祝ってもらう予定だったんだよ」

 それにしては不機嫌が過ぎたでしょ、とか、言い方ってもんがある、とか。竜胆はきっとこのことを知ってたんだな、とか。
 不平不満はいっぱいあるのに、そんなことを言う隙がないくらい、胸がいっぱいだ。成長しすぎた気持ちが収まりきらなくなったのか、蘭のせいで心臓がぎゅっと掴まれてしまって余裕がないからなのかはわからない。
 でも、言葉にして外に出してあげないと、破裂するんじゃないかと思った。答えを催促するみたいに蘭が瞳を細めた。

「私も、蘭が好き。ずっと前から、ずっと好き」
「言っとくけど、オレの方が先だわ」

 してやったり、みたいな顔をされて目を丸くするのはこちらの方だ。
 つまりは。やわらかく光ったのは、金髪が太陽に透けたからじゃない。本当に誰にも見せたことのない宝石を、蘭は最初から私にくれていたらしい。
 蘭が撒いた種は、目論見通りに大きく育ってしまったようだった。思い通りになるのはちょっと悔しいけれど、蘭の心中を乱せた事実で一矢報いているのだ。それならば、この気持ちは素直に蘭に返そうと思う。

「お誕生日おめでとう、蘭」

 大好き。添える笑顔にするには瞼は腫れぼったいし、涙のあとは残っている。それでも、蘭はわかりやすくうれしそうに笑っているから、それでもいいかなと思えた。

「ありがとーな、

 毎年、飽きもせずに同じケーキで同じ顔ぶれで同じ言葉を。
 今年は崩れてしまった当たり前を、また違う形でも作り直していきたい。変わらないのは、私が蘭をずっと好きなこと。蘭がわかりやすくきらきらと笑うこと。
 これからも変わらずに、ずっと隣にいるということ。
 私が誰にも見せたことのない宝石を蘭に手渡せていたらいいなと、そう思う。お誕生日おめでとう、蘭。


------------------
2022/05/26 蘭ちゃんお誕生日おめでとう!