見えざる思慕



 蘭って、ちょっとバカなんだろうなと思っていた。地頭が悪いとかそういう話じゃなくて、こう、感覚の話で。自己演出だという言動を見ていて思う。
 人を恐怖で支配することで、みんなそんな言動にすら恐怖とカリスマ性を見出しているのかもしれないけれど。(悪知恵が働くという意味であればピカイチに賢いとも思う)
 そう思うもう一つの要因が、本当に風邪をひかないこと。弱った姿を見たのは、遥か昔の記憶だ。昔からよく顔を合わせる仲だけれど、小学生くらいの時に寝込んだのが最後だと思う。
 ——そんな蘭が、風邪を引いたという。

「ワリ、兄貴パス」
「は?」

 全然悪いと思っていない声で竜胆は私の肩を叩いた。凶暴な君の兄貴をその一言だけで押し付けないでほしい。
 普段、家に呼びつけることといえば、やれゴミを捨てておけだとか、クリーニング出せだのメシを作れだの、私は召使いじゃないと思った回数は数えるだけ無駄だ。
 そんな私へ命じられたのは、熱で浮かされた機嫌最悪であろう蘭を起こし薬を飲ませろという任務だった。絶対嫌だ。

「兄貴が寝てるから、任せた」
「いや、訳わかんない。絶対イヤだけど?」
「いや、オレの方が無理だから。断られたらオレがボコられる」
「私だって寝起きの蘭には何回もどつかれてるからイヤだよ! そこは弟の竜胆が起こしに行く役目でしょ」

 過去、蘭を起こしたことは何度もある。そのどれもがイヤな思い出で、竜胆に手を上げる時とは比べ物にもならないけれど、私も蘭には痛い目にあわされている。それを前提にしたとして、起こしに行きたい訳がない。

「しょうがねェじゃん、兄貴のご指名なんだから」
「え!? 指名制!?」

 竜胆が苦い記憶を思い起こすように言う。絶対不機嫌な蘭に蹴られながら言われたやつじゃん。

「アレ呼べ、って兄貴が」

 アレ。蘭と顔を合わせるのが余計に嫌になった。呼ぶならせめて、幼馴染を人間扱いしろ!
 と、心の中では思うけれど、指名制。過去の熱に沈んだ蘭が私の脳裏に蘇り、どうしても断れなくなってしまう。たった一回の辛そうな姿をずっと覚えていて、縛られているなんて呪いみたいだ。
 大人になったんだから、きっと蘭は一人でも風邪くらいどうってことないだろうに。

「ケーキでもなんでも、好きなものいくらでも買ってきてやるから! 薬とか水とかポカリとか、必要なものはキッチンにある。あとヨロシク」
「ちょ、」

 言いたいことだけ言って、竜胆は颯爽と部屋を出ていった。玄関の扉がそっと閉められたのはきっと蘭への配慮だと思うけれど、その音が静寂を引き立てた気がする。ひっそりとした部屋はこわい。なぜか、蘭の部屋から威圧感を感じるから。

「いくか……」

 さながら、魔王に挑むレベル一の勇者の気分。装備はかぜ薬とペットボトルのお水だけ。心許ないどころの話じゃないけれど、覚悟を決めて魔界への扉を開くのだ。


 魔王の部屋は思いの外、濁った空気ではなかった。静かにドアを開けて、そろっと部屋に踏み込んだ。できれば見つかりたくないけれど、見つからないと仕事にならない。
 なるべく蘭の機嫌を刺激しないように傍に寄った。いつもは寝綺麗な蘭だけれど、今日は布団がぎゅっと詰まっている。左右で巻き込まれた布団に簀巻きにされた蘭は、頭だけがちょこんと飛び出ていてなんだかおかしい。
 壁側を向いているから、表情は見えないけれど呼吸音は荒い気がする。これは薬を飲ませて早急に寝てもらった方がいい。その方が、私のお役も御免になるだろう。そっと蘭の顔を覗き込む、と、

「ヒッ!」

 ばっちりと目があったのであまりの怖さにひっくり返った。ペットボトルが手からすっぽ抜けて転がったし、私自身もお尻から床に転がった。

「うるっせェ……」

 寝起きなのか、風邪のせいか低い声に地獄の様子を垣間見た。
 けれど、今日はなんだかいつもより蘭が大人しい。起きてすぐの一発目の挨拶は、言葉じゃなくて拳が恒例なのに。
 蘭もやはり体調不良には勝てないのだと、少しだけ存在が魔王から人間に近付いた。

「病人の部屋で騒いでんじゃねぇよ」
「ご、ごめん」

 寝ていると思った人間がばっちり目を覚ましていたのだから驚きもする。けれど、確かに蘭はこれでも病人なのだから、配慮が必要だったと申し訳なく思う。

「蘭、薬飲んで。持ってきたから」
「起きんのめんどクセー……」
「わがまま言わないでよ。ほらー、起きてー」
が飲ましてくれればいーだろ」
「は?」
「口移しで」
「は?」

 語尾にハートマークがついたような錯覚。ありえない、と固まる私を嘲笑うように、蘭は熱そうな息の塊を吐き出した。

「は、ジョーダンに決まってんだろ。本気にしてんの、チャンやらしー」

 病人じゃなければ、パンチの一発でも入れてやりたい。返り討ちは免れなくても、この苛立ちを受け止めさせたい。むっと唇を引き結ぶ。

「じゃあもう飲まなくていいからさっさと寝れば」
「はー? なに怒ってんの」

 これでも一応配慮や心配があるのに、こうもおちょくられると腹も立つ。
 ほらやっぱり、蘭は風邪くらいどうってことないじゃん。こんな冗談言えるくらいには。
 すべてを無碍にされている感覚が、私を怒りの波に晒す。でもそれを素直に口にするのも癪だった。

「怒ってない。蘭は一人でも平気ってことでしょ、思ったより全然元気そうだし。薬と水置いとくから飲んで。じゃ、私は帰る」

 一息に言い切って、踵を返す。

「待てよ」

 手首を弱い力で掴まれた。起きるのが面倒だと言ったのに、体を起こした蘭は荒く息こぼしている。よく見れば、額にもうっすらと汗が。

「……帰んな」

 面倒なんじゃなくて、だるくて起き上がれなかったんじゃん。ハの字眉が余計垂れていて、しんどいんだなって私でもわかる。
 でも、それを押しても引き止めたと思うと。すっと怒りの海が凪ぐ。

「……しょうがないなあ」
「ナマイキ」
「その生意気な奴を引き止めたの蘭じゃん」

 なにも言い返せなくて、むっつりと黙る蘭も珍しい。普段ならこういう時は力でねじ伏せるのに、その元気もないみたい。
 一人でも大丈夫。そう思っていたけれど、風邪を引くと蘭でもやっぱり弱るらしい。
 昔、ただ一度だけ同じように弱っていた蘭を思い出す。布団の上に無防備に晒された金髪を拝むこと、それは限られた人にしか許されないことを知っていた。
 確かに、私はそれを嬉しいと思っていた。
 だから、これはその贖罪みたいなもので。人が辛い時に喜んだ、自分への罰みたいな。

「じゃあ、ちゃっちゃと薬飲んで」
「ん」
「ん、じゃなくて。ほら、飲んで」

 体だけ大きくなった、子供みたいな蘭は熱にぼやかされた瞳で私を見つめた。人によってはくらくらしそうなその視線を無視するみたいに、錠剤を蘭の唇に押し当てた。
 薄い唇が手のひらで食む感覚がくすぐったかった。ペットボトルを渡せば、ぐっと水を飲んで中身は半分くらいまで減っていた。

「オレ、熱あんの」
「体温計で測ってないの?」
「測ってねー、オマエが測れよ」

 ん。と無防備にまぶたを伏せられるとどきどきしてしまう。そのくらい、蘭の顔面はつくりもののように綺麗で。
 反面、その表情には強制力がある。有無を言わさず、自分のやりたいことを相手に強制させる力。それに従い、一息をついた私は蘭のまるい額に手のひらを当てる。
 詳しいことはわからない、けれど、温度は高く汗だけで表面が冷えていると感じた。

「つめてー……」

 ほろりと崩れた表情は、どこか小さな子供のようだった。小学校のころにも見たことがある、どこにも邪悪さのない顔だった。この表情を見せるのは、蘭が本当に弱った時だけで。きゅっと唇を噛む。
 冬でもなし、冷たいと感じるのは蘭の体がどこもかしこも熱いせいだ。それでも、冷たさを求めて擦り寄る蘭は邪気なんかなくてかわいらしかった。振り切るみたいに、声を出した。

「何度かは全然わかんないけど、熱があることだけは分かる。はい、寝て!」
がそこまで言うならしょうがねェなぁ、寝てやるかあ」

 人ごとみたいに言う蘭にちょっと眉を顰める。言っても無駄なんだから、反論は抑えて早く寝かせてしまった方がいい。
 しぶしぶ体を横たえた。一仕事終えたように息をついた私に、蘭は布団を口元まで引き上げて強請るように小さく口にした。

「手」
「て?」
「手ェ寄越せ」

 普段体温の低い蘭の、温まった大きな手のひら。布団から出た指先は有無を言わせない。

「繋いどけ」
「ちょっと、私もう帰るよ。蘭に薬飲ませるミッション終わったし」
「ハァ? 風邪ひいてる人間置いて帰んのかよ。どんだけ薄情なんだよ。信じらんねェ」

 蘭だけには言われたくないセリフだけれど一理ある。普段は傍若無人な蘭だとしても病人を放置するのは、良心の呵責を生む。

「……わかった、竜胆が帰ってくるまでいる。手はいつまで繋いでればいいの?」

 その答えに満足したのか、蘭は目のふちをとろんと下げて気の抜けた顔をした。
 瞬きもままならないような様子で、

「オレが次、起きるまで」

 「離してたら、ブン殴る」そう言うと、蘭はすっと眠りに落ちた。入眠スピードのトップを決める戦いがあるなら優勝できる速さ。
 なんだか、眠るのをずっと我慢していたように見えた。あの蘭が? ……まさかね。
 そう思いながら、手持ち無沙汰で蘭を眺める。ずっと苦しそうにしていたけれど、手の甲に唇を寄せて眠る蘭の雰囲気は溶けているように思う。

「……無邪気」

 蘭に想いを寄せる子たちがみたら、悲鳴が上がりそうな光景だ。その時には、私は嫉妬の余波で殴られたりするんだろう。そんな、誰も彼もが見れるわけではないレアな光景。
 これも自己演出なんだろうか、と思う。うまく弱っているところを見せて、オマエだけ、みたいに見せること。そうやって体のいい召使い役を逃さないようにしているのかもしれない。

「蘭が、ちゃんと甘えられる人が、できるといいね」

 その時が私のお役御免の時だろう。息をつけるだろうという気持ちと同時に、この傍若無人なひどいぬくもりを手放すのがさびしいとも感じる。
 まぶたの裏で思い出すのは、小学生のころ蘭が熱を出したときの記憶で。あの時も、蘭は私の手のひらを冷却材のように使って言っていた。

「オレが次起きるまで、手ェ繋いでなかったらコロス」

 あまりに物騒で、あの頃の私は体をガチガチにしていたけれど。今思えば、それは蘭のせいいっぱいの甘えだったように思う。親でもなく、竜胆でもなく。ただ、私にだけ託されたその言葉を。
 手を繋いでそばにいて欲しい。その言葉を、こんなにも物騒に言えるものなのかと、ちょっと笑える。何年経っても、甘えるのがど下手くそ。
 そういえば、今日は寝起き初手パンチが飛んでこなかったな、とぼんやりと熱い手の感触に思う。実はずっと起きて私が来るのを待ってたのかな、なんて思ってみたけれど、まさかそんなことはないだろう。……まさか?
 そこでふと思ったのだ。蘭って二十四時間フルで寝るじゃん、という事実。
 最初に目があったあの時、本当に寝起きではなかったのかもしれない。蘭は私を待っていて、起きていたのかもしれなかった。だって、そうじゃないと説明がつかない。
 蘭は寝起きが良くない。体調の良し悪しに関わらず、あんなにすっと会話ができるわけがない。
 全身の表面が氷で撫でられたようにさっと冷えた。もしかしたら、私を待っていたのかもしれないという仮説よりも、もっと怖い事実が私に迫っていた。蘭が頑張って起きていたのだとすると、そこからの眠りは、薬の効果も手伝って深いものになる。
 ということは、私がここから動けるのって、最悪、二十四時間後の可能性……? ひやっとした。

「手ェ繋いどけ」

 そう言った蘭はかわいらしいかもしれない。けれど、その言葉を裏返すと、私をここに繋ぎ止めて動けなくするための嫌がらせなのでは……?
 手を引き抜こうとしても、案の定、手のひらは固く結ばれていて、離れる気配がない。

「蘭、ごめん、ちょっと待って寝ないで……!」

 魔王はゆっくりと眠りについたまま。次に目が覚めるのは、竜胆が帰って来た時。蘭が眠りに落ちてから四時間後のことだった。
 竜胆が部屋に入って来たことで目が覚めた蘭は、眠りを邪魔されたと竜胆に殴りかかったけれど、私はほっと息を落としたのだ。ていうか、殴りかかる気力あるんかい、元気じゃん。


 後日、六本木の往来のど真ん中で。

「で? は、オレが他のヤツに甘えてもいいと思ってンの」

 まるで、私たちの関係性を六本木の街に知らしめるような。
 有無を言わせない様子で、表面だけ笑顔を繕って言ってきた。それ、蘭が寝てる時に私が口にした言葉ですよね。
 どこまで起きてたワケ? そう思いながらも、寝起きよりも機嫌最悪の蘭から逃げられそうにない。

「なに勘違いしてるか知らねェけど、がおてて繋いでいられるのはオレだけだって理解してっか? ……かわいそうになァ」

 喉の奥を引き攣らせるように笑う蘭を前にして。どうすれば私はここから生き延びることができるのか、必死に考えている。