惚れられた強み



 春色が目の前で頭を抱えているのを見て、真っ白い天井を仰ぐ。私は困り果てていた。
 さして広くはない、けれど白さのせいで通常より広く見える四角い部屋の中。扉はひとつ。扉には質素な部屋には似合わない電子パネルが埋め込まれていた。
 中央にはキングサイズのベッドが一台。部屋の半分を占めるように置かれている。ここは梵天の所有するビル内の仮眠室だったはずで、どこぞのホテルではないはずだが、と首を傾げるしかない。
 そんな場所に同僚の三途春千夜と私は、ふたりで閉じ込められている。

「あれ、三途も休憩?」
「おー……バカのおかげで帰れなくなったからなァ」
「なるほど」

 ことの始まりは、三十分ほど前だ。九井と一緒に書類仕事を親の仇のように片付けていた私と、灰谷兄弟の悪ふざけの煽りを受けて徹夜を余儀なくされた三途。
 二人ともそれぞれ、一夜をこのビル内で過ごすことになったので仮眠でも取るかと幹部用の仮眠室に意図せず集まった。

「オマエは、今日はなんの案件だよ」
「フロント企業とのお金のやりくりをちょっとね。決算時期だからさあ」
「へえ、オマエひとり?」
「ううん、九井とふたりだよ。九井が気を利かせて一回寝てこいって」
「……へぇ」

 聞いてきたくせに、興味なさそうに切り捨てられてしまったので口を噤む。もう少し話を膨らませてくれたっていいのに。なんて、疲れと眠気に塗れた相手に思うものじゃないよね。
 三途って、たまにこういうところがある。ふとした瞬間に、なんだか遠い存在になる。興味を持ってくれているのではと勘違いして調子に乗ると、するっと離れていってしまうような。
 そういうところがあるから、余計に気持ちが追いかけてしまうんだろうか。想い人が三途だなんて、灰谷たちには絶対に知られたくない。なんでかって、面白がられて気持ちを使い潰されるから。
 そんな想いを片隅におきながら、認証キーで電子錠を解除してふたりで部屋に入ったその時だ。
 ——ガコン、と響いた音は普段聞く施錠音ではなかった。部屋の明かりを点けると、

「えっ」
「ア?」

 まるで見たこともない部屋になっていた。仮眠室から高級ホテルに無駄にランクアップしていた。いらない。三途とふたりで寝るのに、ベッドが一台のみとか笑えない。同僚と同じベットで寝るのは避けたいけれど、潔癖症の男(ついでに好きな人)と一緒に寝るのはもっとハードルが高いじゃん!

「びっくりした、改装した?」
「そんな話は聞いてねぇけど、オマエが九井から聞いてなけりゃやってねえだろ」
「確かに」

 もしそういう話があるなら、手続きは私がやっているだろう。私が知らないということは。
 なんだか、いやな予感がしてドアノブに手を掛けた。

「……ねぇ、眠気の覚めるこわい話していい?」
「……聞きたかねぇけど聞いてやる」
「びっくりなことに、ドアが開きません」

 ドアノブは回らないし、退出用の電子錠もなくなっている。扉は押しても引いても、うんともすんとも言わない。試しに三途が蹴飛ばしてみても、三途の足が痛そうなだけだった。
 私たちを嘲笑うように、扉に埋め込まれた電子パネルが光を灯す。微かなモーター音と共に浮かび上がった言葉は、

「この部屋はキスをしないと出られない部屋です。この部屋に入った二人は必ず実行してください。対象箇所:唇」

 時間が止まったよう、ってこういうこと。
 おふざけみたいな内容に、一瞬呼吸まで止まった。あはは、まさか。……いや、まさかでしょ。
 敵組織の陰謀か、はたまた灰谷兄弟の悪ふざけか。……なんか、どっちも違う気がする。敵ならこんな生ぬるいことはしないだろうし、灰谷兄弟にしてもこんな模様替えが朝飯前とはいくまい。
 それに、これは聞いた話だけれど、鶴蝶もこんな部屋に閉じ込められたと言ってた。どんな部屋だったのかは、顔を赤くしたり青くしたりしていた鶴蝶のためを思って聞かなかった。
 けれど、表示された条件をクリアしないと出られないのだと。あの鶴蝶がわざわざ私に嘘を吐く必要もないんだから、その話は信じるに値する。(実際に出会すまでは信じていなかったけれど)
 一緒に閉じ込められたのが、想い人である三途でよかった!なんて思えなかった。だって、三途は潔癖症なのだ。好きでもない女にキスなんてできるワケがない。(他人も利用する仮眠室のベッドに直接触れたくないからと、除菌スプレーとタオル一式を持ってくるような男だ。ただの同僚とのキスなんて夢のまた夢だろう)
 そうなると私が辿るのは悲惨な運命だ。好きな人にめちゃめちゃ拒否されながら無理やりキスを迫るか、キスを拒否されて一生ここにいるか。どっちにしろ今後の私のメンタルは死んだも同然なのだが。どっちもどっちならいっそ玉砕覚悟で告白でもするか。

(……ううん、それも気まずいなあ)

 電子板に無感情に表示された内容によって、三途の表情がごっそり抜け落ちたことを見ても、結果は見えていた。

「……三途、あの、さあ」
「ちょっと黙ってろ。いま話しかけんじゃねぇよ」

 そんなにイヤ!? 話しかけたら即座にバッサリいかれて、喉がきゅっと締まった。三途は頭を抱えている。いや、そんなにイヤ?
 キスうんぬんは置いておいても、そこまで嫌われてはいないと思っていた。思いたかった。なのにここまでの反応なんて、もはや玉砕覚悟どころかもう玉砕してるじゃん。ウケます。泣きそう。
 でも、そうだな。すでに玉砕が決まっているなら、ひとつ傷が増えるくらい変わらないのではないかとも思う。だってもう砕けているんだから、傷のうちに入らない。それなら、事故みたいなものだと思ってもらって、一瞬で終わらせる方が効率的だ。

「ねえ三途」
「ンだよ、今どうすっか考えてんだよ。ちょっと待」

 ごめんね、三途。
 三途は「て」まで言い切れなかった。私が食べちゃったからだ。
 斜め後ろから思いっきり腕を引いた。珍しく気を抜いていた三途は簡単にぐらりと傾いてくれたから、あとはくちびるを奪うだけ。せめてもの配慮で、触れるのは一瞬だけ。

「……は、」
 ガチャン、と響いた解錠音はスタートダッシュの合図だった。扉が開いて逃げ出せる。三途の拒否を見なくて済む。とても狡くてヒドイことをしたけれど、これも防衛だった。

「よし! 開いたっぽい。よかったね、さあ出よう出よう」
「オイ、ちょっと待て!」

 早口で捲し立てて、早足で出口に向かったのに。三途と私じゃコンパスも違うし、腕の長さも違う。呆けた様子からすぐに我を取り戻して、私の腕を強い力で掴んだ。

「オマエ、何してくれてんだ」
「え、あ、いや……ごめん」

 顔を見れなくて、ただひたすら俯くしかない。三途の声は、思っていたより怒りに震えていなかった。

「つーか、勝手にすんなや。考えてるっつっただろーが」
「ごめん。いや、三途からしたらめちゃくちゃイヤだろうし、事故的な感じで終わればまだ被害が少ないかなと思って……」

 三途のメンタルと私の恋心的にも。先ほどまでの勢いなんて萎んでしまって、しょぼしょぼとした声しか出てこない。

「オマエ、オレとすんの嫌じゃなかったのかよ」
「……嫌がってたのは三途でしょ」

 正直、早く解放されたかった。意見を聞かなかったのは謝る。そうしちゃったことも謝る。でも、きっと三途の意見なんて聞いていたら、一生ここから出られないかもしれない。
 ああ、三途は私とキスするのは嫌なんだなあ、という棘を胸に刺したまま、ここに二人でい続けるなんて拷問だ。人にひどいことをし続けている組織の中にいるけれど、それは勘弁してほしい。

「ハァ? 嫌だなんて言ってねぇだろうが」

 勝手なこと言ってんじゃねぇよ。ひりついた空気を割くみたいに。先ほどよりも、今の方が言葉の端が怒りに震えていたから驚いて顔を上げる。
 そうして、私は見つけてしまった。

「オマエは」
「え、」
「オマエはどう思ってんだって聞いてんだよ」

 やけに熱のこもった瞳だなって他人事みたいに思った。

「私は、」

 三途が一歩踏み出す。私が一歩後ずさる。そうやって繰り返して、部屋の真ん中まで追いやられてしまう。
 なんで三途がこんな行動に出るのかわからない。なんで、そんな。夏が透けた氷みたいな色の目をしているくせに、ぐるりと熱が巡ったように見えるのか。
 膝が触れるくらいの距離のせいで、バランスが崩れてベッドに尻餅をつく。三途はそれでも私を追い詰めてくるから。



 三途との距離は、鼻先が触れそうなくらいで泣きたくなった。めずらしく名前なんて呼ばれて。視覚からも聴覚からも、私を苛む。
 こんな勘違いを生むようなことをしないでほしい。灰谷たちがよくやる悪い冗談なんじゃないかって思うのに、三途がそんな風にしたことなんて一度もなくて。
 じゃあ、私は玉砕しなくてもいいってこと?

「いやじゃ、ないよ」
「……寝不足の頭だったから、って言い訳は通用しねぇからな」
「たかが寝不足くらいで、キスしたいか判断できなくなる女みたいに言わないでよね」

 挑むように言えば、ぐっと瞳のグリーンが濃くなる。三途は、確かめるみたいに私の輪郭をなぞった。
 それがあまりに丁寧でやさしかったから、三途が悪い人間だって忘れそうになる。目を細めて、今度は三途から口付けた。
 ちゅ、とかわいらしい音がして、辿々しく舌が口内に入り込む。まるで、はじめてキスをしたみたいな感触がくすぐったい。くちびるの端から熱い息が漏れた。
 なんだか、ちょっと意外でびっくりした。三途はもっとこういうことに慣れていて、暴くようなキスをするのかと思っていて。

「……三途って、今までキスしたことある?」
「ンなモンあるワケねぇだろ、オマエ以外に好きな女なんかいたことねぇんだから」

 胸の奥の方がぎゅっと掴まれたような感覚。三途の好きな人っていう単語だけで、こんなにもときめくものかと動揺した。
 潔癖症も、好きな女限定で薄れるってこと? だから、今までキスなんてしたことなかったのだろうか。そんな都合のいいことが起きていいのかなって、動揺が上塗りされた。

「も、もしかして、三途って意外と一途で今まで女の子で遊んでない……?」
「アァ?」
「だって……割と初心だよね」

 別に言わなくてもいい言葉が、つるりと喉を滑る。私の言葉に、三途は何度かばさばさの睫毛を瞬かせた。そのあと鼻で笑われて、はっとした。
 不要な地雷踏んだかもって。口角の傷も、瞳も笑みに歪んでいた。

「オレがウブなら、慣れるためにももう一回試してみたって、いいよなぁ?」
「私も三途が好きだから、何回でもいいよ」
「……後悔しても知らねぇからな」

 さっきまであんなに挑発的だったくせに。それは私もか。さっきまで、あんなに怯えていたくせにとても現金だ。
 ふい、と視線を私から外した三途は、白い頬がほんのりと染まっていた。そんな姿に、何回も胸がきゅっと縮む。
 別に、この部屋に入ったから三途のことを好きになったわけじゃないんだから、後悔なんてしない。するなら、反社会組織の男を好きになった時点でしている。

「三途の方が、後悔しないでね」
「しねぇわ、バカ」

 やわらかく笑った三途が、もう一度キスを落とした。今度はさっきよりも荒くって、体の奥まで浸食されるような心地がする。オレのものだと言われているようで、じんわりと熱が滲んでいく。
 せっかく扉が開いたのに、長らくここにいることになりそうだなって。三途を受け入れながら、それを嬉しく思った。

 それから後日、廊下で三途とふたりで話していたら。灰谷たちがにやにやと笑い近付いてきたから何かと思えば、そっとスマホの中の画像を見せられた。
 ——それはふたりで、同じベッドでくっついて眠る三途と私。
 前言撤回、後悔した。たぶんそれは三途も一緒で。鍵の開いた部屋で、無防備にやりとりしたことだけは後悔した。
 目下の課題は、鬱陶しく絡んでくる灰谷たちをどう躱すかだと、三途と顔を見合わせたのだった。