つまるところ下心です



 強いていうなら、今日のお昼に出先で見かけた小さな男の子が楽しそうに、嬉しそうにそうしていたのが頭の片隅に残っていたから。
 書類仕事やその他雑務、上司の無茶ぶりに塗れた生活とは雲泥の差だなって。清き時代だな、と心の隅で思った。
 だから、夜更けに溶かされた思考が、なんとなく弾き出しただけの言葉だった。

「竜胆さんって、スキップできます?」
「ハァ?」
「なんか、竜胆さんってリズム感なさそうだからどうなのかなって」
「バカにしてんの?」

 夜中というより、夜明けの方が近い。そんな時間帯に、事務所に詰めて溜まりに溜まった書類を捌いていく。もちろん、私のものではなく、上司である竜胆さんがすっかり忘れていたものたちだ。
 いつもいつも、事前にフォローしているのに、締め切り前日の夜になると「ワリ、書類あったわ」とどこからともなく書類をいくつも出してくる。徹夜直行コースで竜胆さんをどつきたくなる。
 徹夜の影響は仕事のスケジュールだけでなく以降の体力や肌荒れにまで影響するんだからもっと考えて欲しい。もう三十歳になるというのに、竜胆さんの肌には翳りもなくて泣けてくる。

「バカにはしてないです。どっちかというと、いつも締切ギリギリにしか提出書類の存在を思い出してくれない上司のことをバカにしてますし、腹立ってます」
「はは、ガキみてぇ」

 笑いごとじゃないんですけど? むくれた私の頬を眺めながらうっすら笑みを浮かべた竜胆さんが言うので、余計に腹立たしい。
 竜胆さんの書類なのに、なんで当人は手を動かさず私を観察しているだけなんだろう。嫌がらせなのかな。竜胆さんとは割と良好な関係を築けていると思っていたんだけどな。
 やってられるか、転職したい。反社の転職とか、意味する先は死って感じだけど。

「じゃ、やってみればいいだろ」

 私の思考とは真逆の言葉が耳に触れたのでキーボードを打つ手を止める。

「え?」
「スキップ。事務作業で固まった体ほぐそーぜ」

 誰のせいで固まったと思ってるんですか? じっとりと湿った視線で問いかけてみるけれどどこ吹く風で。竜胆さんはさっきから変わらず笑顔を浮かべていて、企みがありそうで上半身だけでちょっと距離を取る。
 お兄さんの蘭さんより、竜胆さんはだいぶ馴染みやすい。けれど、以前その馴染みにくい方の蘭さんに「ちゃんさ、竜胆の扱いには気をつけろー?」とめちゃくちゃ笑顔で言われたのだ。
 いつも何か企んでそうな蘭さんにそんなことを言われると、警戒せざるを得ない。もしかして、実は竜胆さんって蘭さんより激情家で、私は常に命の危機と隣り合わせなのかな?とか。(反社なのであながち間違っていない気はするけれど)

「ほら、行くぞ」
「え、は?」

 もしかして、この誰もいない事務所って危険? 今日が私の命日だったり……? 戦々恐々とする胸中をそのままに。竜胆さんはスマホで何かを確認したかと思うと、私の腕をしっかり掴むので仕方なく廊下に出た。

「誰か通ったら恥ずかしくないですか、これ」
「大丈夫だって。今日はほとんど人いねぇよ。あ、兄貴が後で来るって言ってたけど、まだかかりそうって言ってたし」

 なるほど、さっきスマホを見ていたのは蘭さんからの連絡か。さすがに、反社の男女が深夜にスキップは恥ずかしいし、見る側からしても怖いだろう。
 納得していると、竜胆さんがおもむろに右手を差し出してくる。

「……なんで、手?」
「オレ、リズム感ないみたいだからがリードしろよ」

 根に持つような言い方だな。その割には表情は楽しそうだ。
 大人気ないなと思いながらも、自分の言葉に責任は持つべきかと思い、しぶしぶ差し出された手を握った。言い出しっぺは私だからやらざるを得ない空気を感じて。
 ぎゅっと手を繋がれて、その力が思いの外強かったからちょっと尻込みする。竜胆さん、ベビーフェイスの割にキン肉マンだからなあ。骨が折れないかドギマギしてしまう。

「じゃあやるか」
「いち、に、のさんでいきましょう」

 「りょーかい」という弾んだ声を受けて、合図を口にする。言い出したのは私だけれど、私だってずいぶんと長いことスキップなんてしていなかったから、一歩目は緊張した。
 それから。なんだ、竜胆さんスキップできるじゃん。軽快に廊下を進んでいく。大人になってからスキップをすることなんてそうそうないから、ちょっと楽しくなってしまう。
 夜と朝のさかい目のような時間帯に反社所属の大人が二人で手を繋いでスキップなんて、もう一生しないと思う。おかしくて、ちょっと笑みが溢れてしまう。徹夜のテンションだな。
 そう思っていた矢先、

「おっと、」
「うわあ!」

 竜胆さんが、足を縺れさせた。偶然縺れたんじゃない……これは。
 大きく前に転がりかける竜胆さん、と手を繋いでいる私も。手は離れず、強く握られ続けているから竜胆さんの体重が向かう先へ私も一緒に倒れていく。頼むから転がるなら一人で転がってくれませんか、手を離してくれませんか!?
 心の叫びは届かず、けれど私が床に顔面から飛び込む事態は免れた。
 ——竜胆さんが、私を抱きしめるように受け止めたからだ。
 ふわっと香る竜胆さんの香水に、否応なく距離の近さを感じさせられる。
 受け身を取れている竜胆さん、何もできなかった私。原因が私ではないにせよ、眠気にちょっとやられているにせよ、不甲斐なくて唇を噛んだ。

「あー、大丈夫か?」

 窺うように竜胆さんが頭上で喋り出す。特に驚いた様子もないので、やっぱりこれは、わざと足を縺れさせたのだと気付く。

「だ、いじょうぶです……っけど、なんで!? わざとじゃないですか!」
「ふはっ、そーそーよくわかってんじゃん、わざとでーす」

 は? 上司に向かって口にする言葉じゃないけれど、思わず漏れてしまった音。
 楽しい、に感情を振り切った声で竜胆さんは言う。

「スキップなんて、できないワケねぇじゃん」
「え、じゃあなんで?」

 思考が縺れていく。そもそも、こんな茶番をやった意味はなんなんだ。やっぱり私、覚えのないことで粛清対象にカウントされている?

「わかんねェ?」

 ワントーン低くなった声が、耳たぶを撫でた。このトーンを以前も聞いたことがある、パーティで女の人を口説いて情報を引き出す任務の時に使っていた、艶のある声だ。
 なぜ今、私に対してそんな風にするのか。もしかして、転職の意思を見抜かれていて。裏切り者を逃さないように陥落させようとしてる? そんなまさか。
 ぎゅうっと背中に回った腕の拘束が強まった。背骨と肋骨を折られるのでは、とヒヤリとする。
 なんにせよ、早急にこの状態から脱出したい。転職の意思くらいで死にたくない。

「わ、分かんないですし、離してもらっていいですか? 起き上がれないんで」
「ヤダ」
「!?」

 さっきよりも、一段と抱き締める腕が強くなるから、声にならない悲鳴をあげる。
 驚きと苦しさが綯い交ぜになる。ヤダ、ってなに!? 子供か!

「なあ、マジでわかんねェの? なんでオレが締切前にしか、書類の存在思い出さないのか。なんでそれをだけに頼んでるのか」
「え、嫌がらせじゃないんですか?」

 私の睡眠時間を削ってやろうっていう。竜胆さんの胸に、ぎゅうぎゅうと顔が押し付けられているから喋りにくい。
 けれど、だからこそ、竜胆さんが私の言葉を聞いて息を呑んだのがはっきりとわかった。

「……え、マジで言ってる?」

 イエスの言葉を口にする前に、吹き出すような声とカシャ、という無機質な音が私たちふたりだけのはずの夜に響いた。

「二人してなぁにやってンの」

 顔は見えないけれど、見なくてもわかる。この声は蘭さんだ、しかも、今までで一番楽しそうな。
 事務所に戻るまでまだかかるはずでは?

「……兄貴」
「竜胆、残念だなァ。全然伝わってなくてウケる」
「うるせェよ!」

 突如として始まった兄弟喧嘩に、夜の満ちた空気が霧散したのを感じた。
 体を起こした竜胆さんに引き摺られて私も廊下に座り込む。やっと蘭さんの姿が見えて、わかりやすく肩が揺れていた。
 ……スキップではないにせよ、反社所属の男女が夜中に廊下で転がっている姿を見せてしまった。だいぶ恥ずかしい。

「竜胆さん」
「……なに」

 さっきとは違う意味でトーンの落ちた声を聞くと、ちょっと言いにくい。

「離してもらっていいですか?」
「ぶはっ」
「兄貴!!」

 蘭さんはひぃひぃ言いながら笑っていて、今度はむしろ蘭さんが床に転がりそうな勢いだった。
 竜胆さんは、それを見て機嫌が地の底を這うようになってしまった。今まで見たことのない顔をしている。反社幹部こわ……。

 渋々といった形で解放されて、一息つく。それも束の間、

「は、はい」
「オマエ、これから覚悟しとけよ」

 するりと私の頬から顎までを指先でなぞって、竜胆さんは言った。
 言葉だけ聞くと、私は身を縮こまらせるべきだった。なのに、竜胆さんの瞳がいやに熱を持っていて。元々私が考えていた方向の話ではないのだということは、私にでもわかった。
 しかも、その指があまりにもやさしかったから。

「兄貴は覚えとけよ」

 竜胆さんはそう言って肩を怒らせて来た道を戻って行く。
 残された蘭さんは、竜胆さんの言葉なんか意に介していない様子でやっと笑いを収めたようだった。兄弟の力関係が見え隠れする。

「はぁ、ちゃんさ」
「なんですか」
「扱い気をつけろって言ったのにな〜」

 語尾に(笑)って付きそう。え、私、扱い間違えたの? 命の危機は去ったと思うんだけれど。蘭さんを見る。
 もしかして、蘭さんも勘違いをしているのでは。ここはひとつ、私は転職なんてしない(できない)ことを明確にしておこう。

「あの、私、梵天を裏切ったりしてないんで。激務のせいでちょっと転職したいなーと思ったりはしましたけど、死にたくないので」

 なので、竜胆さんが手を下すこともないかと。

「は?」
「え?」

 お互い間抜けな顔で見つめ合った。けれど、蘭さんは呆けていても綺麗な顔のつくりで。竜胆さんと似ているけれど、ちょっと違う顔。
 その顔が、なぜか訳知り顔でまたも楽しそうに歪んだ。

「ふはっ、あー……そういうことね。オマエらおもしれェなあ。これからも竜胆のこと、よろしくなぁ、チャン」

 兄弟揃って似たような笑い方をするな、と思った。
 すぐ後に、焦れたように「! 何やってんだよ、早く来い!」と苛立ち混じりに竜胆さんの声が響いたので、言葉の意味を深く考えずに部屋に戻った。
 それが良くなかったのだと、私は身を以て知ることになる。


 それから朝になって。あの後、書類整理は結局朝までかかってしまった。
 朝が来ればまた仕事がある。だから、ほんのちょっとだけ仮眠を取っていたのだ。
 すると、大きな音でドアが開いて、部屋へ入ってきた三途さんがさらに大きな声で言った。

「オマエ、灰谷弟と付き合ってんだって?」

 趣味ワリィな。私の席までやって来て、寝ぼけた頭では理解できない言葉を発した。

「は?」
「仕事に支障出なきゃ何でもいいが、事務所で盛ってんじゃねぇよ」
「は?」

 組織のナンバーツーに対して利いていい口ではないことまでは理解できていた。それでもその言葉しか口にすることができなかった。
 私が壊れた人形のようになっているのを訝しんだ三途さんは、スマホをいじると「コレ」と一枚の画像を見せてきた。
 ——それは、竜胆さんと、その腕の中に納まった私がふたりで廊下に転がっている写真で。
 さらに、「うちの弟にヨメできてた〜(笑)」とメッセージがついていた。文面だけでもわかる、送り主は、

「灰谷蘭……!」
「あー……なるほどな。嵌められたな、ご苦労なこった」

 ちなみに、これもうだいぶ拡散されてたぜ。と、三途さんは徹夜明けの頭も冴える情報を投下した。
 夜な夜なふたりで抱き合っていた、という噂。それはもう梵天の周知の事実だと。通常時なら、さすが梵天と言えるけれど、今回のことにすれば無駄な組織力だ。なんて不要な情報を拡散しているんだ!
 三途さんはかわいそうに、という視線をくれたけれど、蘭さん、蘭さんこの野郎!
 事実無根じゃん、また蘭さんの悪ふざけだ。竜胆さんと話さないと、と立ち上がった時だ。
 徹夜明けとは思えない晴れやかな表情で部屋に入ってきた竜胆さんと目が合う。すると竜胆さんはしてやったりという風に笑った。噂など歯牙にも掛けない様子に、はっとする。

「お、。もう耳に入ってるよな? ……これからもよろしくな」

 その、いつもよりも甘さが滲む笑顔を見てようやく。私は、ようやく気付いたのだ。
 裏切り者として注視なんてされていなかった。むしろ、私は竜胆さんにもっと別の意味で執着されていたのだと。
 それに付随して、蘭さんが「扱いに気を付けろ」と言っていた意味も。
 私にその気がなく、竜胆さんに捕まりたくないなら身の振り方を気を付けろという意味だったのだ。私は間違えてしまったから、すっかり蜘蛛の巣に嵌ってしまった。逃げられない。
 いや、違う。は、嵌められた……!
 そう気付くも時すでに遅く、梵天内には竜胆さんと私が付き合っているという噂が事実として根付いてしまったのだった。
 蘭さんの単独愉快犯ではなく、灰谷兄弟がタッグを組んだ複数確信犯だ。いや、これいつも通りだな。
 あんなにタイミングよく蘭さんが帰ってきてあの場に居合わせるなんて不自然だ。写真は言い逃れできない証拠を作るため。竜胆さんがあの時スマホを操作した理由は確認ではなく、きっと依頼だった。

「もう流石にわかってるだろうけどさ。オレ、のこと好きだから」

 またあの声が耳に触れる。

「だから、逃さねェから」

 私だけに聞こえるように。あの時は違ったのに、今回はカッと全身に火がつくような感覚に襲われた。耳を中心に痺れるように。
 竜胆さんから体を離したのに、それは治らない。本人を見ると、ようやく手に入ったとでも言うように喜色を孕んだ表情で紫色の瞳が心底いとおしそうに歪むから。

「徹夜の事務作業からは解放だな、よかったな。

 くしゃっとかわいらしく笑う竜胆さんは、もう上司の顔なんてしていなかった。
 ……全然よくなんかない。自分の本能が、これはまずいぞって言っている。竜胆さんによって、より深みに嵌められる日は遠くない予感がする。
 その時が来る前に一刻も早くこの組織から転職したいと、私は、叶わない願いを胸に抱いている。