悪い子と悪い事



 夏の暑さに浮かんだ幻だったらいいと、切実に願っていた。

 真夏日のある日、夏休み前最後の登校日。午前で終わった授業のおかげで足取りは軽い。
 そんな高校からの帰り道で、そっと佇む蘭くんを見つけた。外で蘭くんを発見するのは私にとってはよくあることで「鍵忘れたから家入れない、ちゃんちにいてもいい?」なんていうのは日常茶飯事だった。
 いつもと違うことといえば、蘭くんのいつでもひんやりとしていそうな頬に汗がいくつも流れたあとがあったのと、顔全体が真っ赤に染まっていたこと。

「蘭くん、顔真っ赤だけど大丈夫? うちで冷たいものでも飲もっか」
「うん。ちゃん、ありがとう」

 身長こそ私より高くなってしまったけれど、はにかむ蘭くんは小学生らしさをまだ残しているなと思った。
 初めて会った時、蘭くんは小学三年生、私は中学に上がったばかりだった。金色の三つ編みを揺らして歩く姿は、小学生には見えなくて驚いた記憶がある。
 中学に上がるのと同時に引っ越した先が、ちょうど蘭くんの家の近くだった。親同士が仲良くなったのがきっかけで顔見知りではあったけれど、ここまで仲良くなる決定的な出来事がひとつあった。

「あれ、蘭くん?」
「ア? ……あ、ちゃん」

 時間は十九時過ぎ、小学生がひとりで出歩くには遅い時間。夕飯のカレーで、一番大事なルーを買い忘れたお母さんに代わり買い物をした帰りのことだった。
 声をかけると、蘭くんは一瞬訝しそうにしてから、いつものにっこり顔になった。

「どうしたの、こんな時間に」
「んー……」

 蘭くんは少し考える風にしてから、口を開いた。

「家の鍵忘れちゃって、今日お母さんたち遅いの忘れてて。竜胆も習い事でいないし」

 だから、ちょっと散歩しようかなって。と言った蘭くんの表情は不安げに揺れていた。
 こんな時間に一人で散歩だなんて、危ないだろう。ここで私と出会って、両親も弟の竜胆くんも帰るのが遅いとくれば選択肢はひとつしかない。

「それなら、うちにくる?」
「……いいの?」
「うん、いいと思う! 今日カレーだし、夜ご飯も一緒に食べていけばいいよ」

 そう言うと、蘭くんはパッと表情を輝かせた。不安そうな影は一掃されて、かわいらしい笑顔が浮かぶ。その変化の要因が私の言葉だと思うと、なんだか誇らしかった。
 そこから一緒にご飯を食べて、蘭くんのご両親が帰ってきた頃にお家に送っていった。その一連の状況を、蘭くんも楽しんでくれたのだと思う。こういうことが何度かあった後、

ちゃん、やさしくて好き」

 頬をほんのり染めはにかんでそう伝えてくれた。容姿はもちろん、そんな言葉も相まって、私にとって蘭くんは本当に天使みたいに見えた。
 うちの両親も蘭くんのご両親も、この状況を日常と捉えるようになった。たまに竜胆くんも一緒に、鍵を忘れても忘れなくても、よく家に遊びに来るようになった。


 そうして蘭くんが小学六年生、私が高校生になった今も交流は続いている。
 このくらいの年齢になれば、性別の違う幼馴染と遊ぶなんて嫌がりそうなのに、蘭くんはそんなことがなくて。
 ちゃん、と呼んで慕ってくれるのが当たり前になっているけれど、中学生になったらそれも変わったりするんだろうか。この日常がなくなるのは寂しい。ずっと一緒にいれたらいいのにな、なんて人知れず心の中だけで思う。

ちゃん、一学期終わって、高校どうだった? 楽しかった?」
「うん、なってみると中学生の時とあんまり変わらないけどね」

 ジュースなんて気の効いたものはなかったから、グラスに氷を詰めて麦茶を注いだ。それからいつも通り、私の部屋でお喋りをする。椅子に蘭くん、ベッドに私が定位置だ。
 今日はうちの両親も仕事で遅いから、家には誰もおらず私の部屋も夏の暑さに晒されたまま。エアコンが効くまで、じっとりとした暑さが肌に纏わりつく。鞄から下敷きを取り出して蘭くんにも風を送る。

「あ、でも」
「なあに?」
「中学の時より、恋バナが多くなったかも」

 中学生の頃よりも、みんなが恋愛に興味を持つようになった。それもあって、みんな恋人を作ることや恋バナに精を出している。保健の授業で習った、思春期ってこういうのだよなあと思う。

「……ちゃんも、彼氏作りたいの?」

 ぽつりと聞かれる。
 私も欲しいなあとは思うけれど、目下好きな人すら見つかっていない。けれど、

「高校生になったからね。まあ、私にだってもうすぐ彼氏くらいできるよ」

 ……たぶん、きっと。と付け加えた言葉は外には出さなかった。今まで彼氏ひとりできたことのない私と、きっと学校でもモテているだろう蘭くん。
 そんな蘭くんの前で、まっさらな未来予想図を晒すのは恥ずかしかったから、些細な嘘をついた。

「……ふうん」

 そう呟いた蘭くんの様子はいつもと違っていた。声が低く、じっとりと熱に沈んだ部屋に響く。

ちゃん、高校に好きな人いるの?」
「え、えっと……まあ、いるかな?」

 嘘だ、見栄を張りたいがためにいもしない架空の男を作り出してしまった。小学生相手に何をやっているんだろう。羞恥で頬が熱くなっていくのがわかる。
 ——この時、私は冷え切った蘭くんの表情に全く気付いていなくって。この言葉が、引き金だったなんて、思いもしなくって。

「……へえ。ねぇ、ちゃん。今日おばさんたちは?」
「お母さんたち? 今日、仕事で遅いって言ってて。だから夜ご飯、」

 どうしようかなって、と続けようとした言葉は蘭くんによって遮られた。
 蘭くんが立ち上がって、私の肩を押したから。その一押しだけで、簡単に体がベッドに倒れたことにびっくりした。
 目を白黒させる。こんな行動に出た蘭くんの、真意がわからなくて。
 驚きっていう感情が、ここまで体を固くするなんて知らなかった。声も出ない、なにも行動を起こせないままの私に、蘭くんは馬乗りになった。

「あーあ……もうちょっと待ってやろーかと思ってたけど、やーめた」

 蛍光灯を背景に、知らない男が私を見下ろす。姿形は蘭くんなのに、中身がごっそり入れ替わったような気さえした。
 うすらと細めた瞳、色気のようなものすら漂う声、凶暴さを潜めた言葉遣い。気怠げな様子は、いつもと全然違くて。

「ちょ、らんくん、っ」

 どいて、という意思を込めてぐっと腕に力を入れる。蘭くんのお腹あたりを押してみても、びくともしない。細いなと思っていた蘭くんの、硬い腹筋の感触に驚く。

「あは、それ力入れてンの?」

 小学生に馬乗りになられて、押し返すことすらできない。冷えた笑い声が、私の心臓をぎゅっと握り締めたような感覚。
 こわい、目の前にいる男がこわいのだ。これは怖いものなのだと、本能が言っている。

「ら、らんくん、ほんと……冗談やめて。ど、どいて」

 逃げなきゃ。自分の家、その中でも自分が一番安らげるはずの部屋から、どこに逃げられるかはわからない。でも、
 ——ここから、逃げないと。

「ジョーダンだったらよかったのになあ。……オマエが悪いのに逃げられるワケねぇだろ」

 あ、ダメだ。紫色の瞳が、凍てつくような熱を持って私を刺す。
 ——今から蘭くんの思うがままにされてしまうのだと、刻みつけられるように、鮮明に理解させられた。