二度目なんか来ない
なんのはずみでこんなことに。
売り言葉に買い言葉、後悔は先には立たないとはこのことだ。耳の奥に残った蝉の声。暑さとは別の意味で嫌な汗が流れる。
目の前には、幼馴染の竜胆が瞼を閉じている。端正な顔の作りに余計に心拍数が上昇する。いいや、心臓の音がひどく早足で駆け抜けるのは、私が今からしなければいけない行動のせい。
「慣れてんなら、大したことねぇだろ。キスの一つくらい」
鼻で笑った竜胆に、望むところだ!と大きく出たのが間違いだった。慣れてなんてない、クラブで夜を深める竜胆とは違うのだ。私はキスのひとつもしたことのない、ただの高校生で。
キスのひとつなんて、と大したことのないように言う幼馴染に、胸がじっくりと痛んだ。
ことの始まりは、竜胆からの一本の電話。学校終わりの「ウチ来いよ」との連絡は、大抵は人を呼んで汚れた部屋の掃除や洗濯を押し付けられる。パシリか?
そう思いつつも頼まれたら断れないのは、相手が竜胆だから。あとは、応じれば美味しいものを奢ってくれるからだ。
いろんなツテがあるからか、竜胆は美味しいお店に詳しい。自分は脂質の多い飯はイヤだ〜なんて言いながら、お店のチェックは欠かさないからそういうところはすごいなと思う。(街で見かけた時に連れていた、かわいい女の子を落とすためのリサーチに連れ回されているだけかもしれないけど)
二人の家はウチからそんなに遠くないはずなのに、夏が我が物顔で居座っているからじっとりと汗が滲む道のり。額、首、背中と。汗が滲む、から流れるに変わるまではそうかからなかった。
家に着くまでにはもうべしゃべしゃでシャツが張り付いて気持ち悪いったらない。襟元をぱたぱたとして申し訳程度に風を送る。
高層マンションのオートロックを抜け、部屋の前まで行けば竜胆がドアから顔を覗かせていた。
めっちゃ待ち構えてる。そんなふうに出迎えるなんて、今日はそんなに部屋が汚いのか、とぼんやりと思っていると「オマエ」と不機嫌そうな竜胆がこちらを見つめて言う。わざわざ呼び出しに応じた相手に対する表情じゃなくない?
「どしたの」
「透けてんじゃん。そのまま来たのかよ」
「えっ」
胸元を指されたから急いでその先を辿れば、た、確かに透けてる……!
「わ、ちょ、っ見ないでよね!」
「……オマエさあ、」
ひとまず腕で隠すけれど、きっと背中も透けているに違いない。竜胆は呆れたように口を開いたけれど一度言葉を区切って、私の空いている方の腕を強く引いた。後ろから他の部屋の住人がやってきていた。竜胆の配慮にちょっとだけ感謝する。
「女の下着くらい見慣れてるっつーの。オマエの下着くらいで、騒ぐかよ。まあ……は男なんかいたことねェだろうから? アレだろうけど」
と思ったのも束の間、感謝なんて無に帰す言葉が吐かれてびっくりする。ちょっと棘のある言い方に、むっときてしまう。
「い、」
いたことはないけど、そんな言い方しなくても。と言いかけて、はたと思う。この感じ、いたことないなんて言ったらきっと馬鹿にされるに違いない。夜から夜を渡り歩くように遊んでいる竜胆のことだ。ちょっとくらい見栄を張りたい。
「……い、いたことくらい、あるよ?」
「は?」
「だから彼氏の一人や二人、いたことあるって言ってる」
盛った。ちょっとくらいじゃなく、大幅に見栄を張った。すぐにバレる嘘を吐く方が後で痛い目を見るのは分かりきっているのに。完全に勢いだ、なんかちょっと竜胆の言い方は嫌に心に引っかかった、から。
「だから、下着見られるくらい余裕、だけど。……慣れてるし」
「……へえ」
竜胆の声が、ぐっと低くなる。それだけで空気を支配するみたいな、竜胆のこわいところ。心臓を押さえつけられたみたいに、体が強張った。
「……じゃあ、試してみようぜ」
「は?」
「チキンレース」
掴まれたままだった腕にぐっと力が込められる。嘲笑うように竜胆が言う。
「目ぇ瞑っててやるから、オマエからキスしてみろよ」
「は?」
「下着見られンのもヨユーで? 慣れてんなら、大したことねぇだろ。キスの一つくらい」
突拍子もない提案は、もはや強制力を伴って。
なにが竜胆の琴線に触れたのかわからない。話を振ってきたのはそっちのはずなのに、竜胆の方が優位に立っているはずなのに。なぜだか機嫌を損ねているのは、竜胆のようで。
私に彼氏(幻想)がいたことがそんなに不満なんだろうか。「幼馴染の冴えない女に彼氏ができるなんて、生意気だ」って? 想像上の竜胆が言う。けれどあながち間違いではないだろう。そう言う様が容易に想像できてしまって、私も腹に据えかねる。
「……いいよ! やってやろうじゃん。目、瞑って!」
喧嘩なら買ってやろうとも! 竜胆相手に拳で語るのは無理でも、こういうことならば勝ち目もあるのではないかと。だって、相手は幼馴染なんだから、別に照れることはない。昔、小さな頃にはお互いに頬に口付けるなんてあったはずで。
そう、私たちは幼馴染というだけで、私たちの間にはそれ以上も以下も、他の感情は横たわっていない。
だから、私からキスされることは竜胆からすると大したことのない、ことで。竜胆にキスをすることは、私にとっては?
「……オイ、まだ?」
瞼を落としたまま、整った眉を顰めた竜胆に声を掛けられはっとした。勢いをつけて言ったのに、くるくると自分のうちで押し問答を始めていた。
意地悪な幼馴染は待ってはくれない。覚悟を、決めるしかない。
「するから。そのままいて」
「へいへい」
まったくできるなんて思っていませんよ、というのを音にするとこういう音になる。という調子で竜胆が言った。
できる、はじめてのキスくらい。だってくちびるに、という話はしていなかったのだから。頬っぺたにするならもっと簡単だ。
やわい果物を扱うみたいにそっと頬に触れる。ここまで近付くことなんてなかなか無いから、心臓の音が聞こえなきゃいいなと思った。
意を決した。竜胆の頬を少し傾けて、ゆっくりとくちびるを押し付けた。時間にして数秒でも、私にとっては果てしない空白だった。
顔を離すと、もう一度手首をしっかり掴まれた。びっくりして竜胆を見ると、
「ンだよ、今の」
「いや、えーと……」
「は、オマエの彼氏はキスもまともにできねェやつだったのかよ」
まあ、そもそもいないので。本当にいるとしたら、こんなチャレンジは願い下げだ。浮気みたいになっちゃうじゃんと思う。いやそもそも、私に彼氏がいたところで竜胆に不平を述べられる筋合いなくない!?
そんなふうに思ったのに。
「それとも、その男にはできて、オレにすんのは嫌ってこと」
ぎゅっと詰まった眉間に一度引き結ばれた唇。こんなに切羽詰まったような顔を見るのは初めてで。
そんな風にされると、まるで、竜胆が私にキスしてほしいと思ってるみたいな。いやまさか、そんなことは。これはきっと私への冗談や嫌がらせのはずで。
呆気にとられる私を置いて、一人でくるくると頭を回したのだろう。竜胆は振り切ったように目を尖らせて、私を壁に押し付けた。肩に添えられた手はびくともしない。
「キスっつーのは、こうすんだよ」
「え、ちょ……っんぅ!?」
ちょっと待って、という言葉は竜胆の唇にするっと吸い込まれてしまったあと。慣れた手つきで私の後頭部を抱え込んで、くちびるを押し付けられる。
角度を変えて何度も食まれて、さらには舌まで入ってくるものだから。逃げようとしているのに、結局は追い詰められてしまって、こちらは白旗を挙げることしかできない。全身の感覚で屈服させられていくのを感じて。
こんなの遊びのキスのはずだったのに、あまりに必死に私を食らい尽くそうと動くので眩暈がした。吐息が漏れる、くちびるの濡れた感触がこわい。知らないことを全部一気に与えようとしてくる、この幼馴染がこわかった。
呼吸の仕方がわからなくてくらくらして、視界までぼやけて足元から崩れてしまいそう。竜胆が腰をぐっと支えるから、良くも悪くも結局全部を受け入れることでしかこの時間は終わりを告げないのだと思った。
「は、……な、なん、っ、」
やっと離れたくちびるに、酸素を求めて深く呼吸をして。それから溢れたのは疑問だった。なんで、信じらんない、幼馴染への嫌がらせでここまでする!?
濡れた視界で抗議にもならない視線を送れば、竜胆は一回言葉に詰まったようだったけれど、それでも一言。
「はー、ヘタクソ」
竜胆の瞳はいやに冷たくて。ぐっと濡れたくちびるを噛んだ。
そりゃ、そうでしょ。はじめてしたんだから! 竜胆との経験の差は一目瞭然で、どれだけこの幼馴染が女の子とこういうことをしてきたのかを実技で発表されたのだ。今まで相手をしたかわいい女の子たちと比べられたのだと思うと。惨めで。
瞳の表面にしがみついていた水分の膜が、その言葉をきっかけにこぼれ落ちた。ついでに、思っていた言葉も、そのまま。
「は、はじめてだったのに……!」
「……は?」
嘘をついたのは、話を盛ったのはもちろん私が悪い。でも、それでも。ここまでしなくてもいいじゃん、と思ってしまう。私に彼氏がいようがいまいが、何が問題だっていうんだ。竜胆に迷惑なんてかけていないのに。
呆けた竜胆が力を抜いたから、壁に沿ってずるずると座り込む。竜胆も焦ったように追いかけてくるから、なんだか少し安心して、また涙がひとつ落ちた。
「ちょ、待って。は? オマエ、彼氏いたって、」
「……いたこと、ないし。竜胆が失礼なこと言うから、ちょっと見栄張っただけで」
「オマエさぁ……いや、悪いのはオレだけど、あー……」
ワックスで整えていた髪を乱雑に掻き回してから、竜胆ははっとして私の頬に流れた涙の跡を拭った。口の中でもごもごと言うべき言葉を探すみたいにして。
「……オマエが彼氏いたことあるっつーから」
「なにそれ、ヤキモチみたい」
「そりゃ、……そーだろ。彼氏なんて作る隙、与えたつもりねェのに」
オレが年少行ってた間かよとか、焦った。と竜胆は外した視線をそのままにぽつりと零す。すこしだけ色づいた頬骨の上、泳いだ視線がどこにも辿り着かなくて服の裾を引っ張れば、やっと私の方を向いた。
いつもより頼りない表情が。知らないことを全部一気に与えようとしてくる、この幼馴染が今はこわくなくて。
「りんどう、私のこと好きなの」
すとんと自分の中に落ちてきた言葉に、はっとする。竜胆が私のことで揺さぶられていたことと、私が、竜胆の言葉ひとつ、行動ひとつで、落ち込んで嬉しくなって腹が立ったことは同義なのではないかと。私は竜胆のことがすきなんじゃないかって。
問い詰めるつもりなんてなくまろびでた言葉を、竜胆は真剣に受け取ってくれて。大きく息を吐いたかと思うと、
「そうだよ」
はっきりとした言葉は、まっすぐな視線と一緒に手渡された。
「オマエが好き。昔っから。だから、彼氏なんて作ってたら相手ぶっ飛ばすとこだった」
私と同じ想いが成形されて竜胆の唇から転がった。ちょっと物騒な言葉と一緒だけど、私の胸を満たすのには十分な温度で、質量で。
昔から。じゃあ、いろんなところに連れて行ってくれるのも、他の女の子のためではなく、ただ私のためだったってことでいいのかなって自惚れて。
「は、どーなの」
まっすぐに見つめる瞳を受け止めるのは少しくすぐったい。自分に潜む想いに気付いて、それを受け入れるのも同じくらい。
「竜胆のこと、私もすき、なのかも」
「っ、かもってなんだよ!」
「さっき、すきなのかも、って気付いたから、まだちゃんと実感わいてない」
これはちょっとした仕返しで、意地悪をしてきた竜胆へのちょっとした反抗心。さっき反省したくせに、こう現金だからよくない。
「じゃあ、……もう一回試してみてもいい?」
竜胆の瞳が期待を満たしてこちらを見ている。「が、オレを好きかどうか。もう一回キスしてみりゃ、わかるだろ」こう現金だからよくない。それは、私だけではなく、竜胆も。
「それってさ……お試しだけなの?」
「は?」
「お試しだけで終われるんだー、竜胆は」
「オマエなんでこの後に及んで煽ってくるワケ? 本気だわ、腰抜かすなよ」
竜胆に火をつけたのは私自身で、売り言葉に買い言葉、後悔は先には立たないとはこのことだ。それでもお試しのキスのアンコールなんかはいらなくて。
本当はキスなんかしなくても、答えは分かりきっている。だって竜胆は視線だけで、私の体を溶かすことが可能なのかもしれないとすら思ってしまうのだ。夏の暑さでも溶け切らなかった私の体は、竜胆がなぞれば、竜胆の視線に晒されれば、ぐずぐずになってしまうんだって知ってしまった。
胸の内、ときめきにぎゅっと縮んでしまったような心臓を。今度はやわく解いてほしいと思う。
でもね、実は腰はもう抜けてるんですよね、というちょっと恥ずかしい事実は、私の名誉のため、ふやけた顔で笑う竜胆には内緒にしておこうと思う。