名もない痕ばかり
酔っ払って寝入った時の夢って、だいたいなんだかおかしい。
脳内劇場に芸能人やアニメのキャラが出演して一緒に冒険へ出る。そうすると気持ちが急速加熱されて好きになってしまったり。どこからか落下する夢を見たり。残る浮遊感はお墨付きで。
あとは、未練もないのに元カレが出演したりとか、そんな。夢は自分の記憶や感情に左右されるというのは本当だろうか。
でも、その日夢に出てきたのはそのどれでもない、幼馴染である灰谷蘭だった。金と黒の、誰にも似合うとは思えない三つ編みが、当たり前みたいに似合ったその姿はいつも通り。なのに、なぜか、頭に犬の耳が生えていた。
それを当たり前のように見つめて、撫でつけた。蘭は見たこともない表情でそれを受け入れていた。まるで他人事みたいに見ていた。蘭ってこんな顔するんだなあって。
撫でられるのを受け入れたのは序の口で、擦り寄って、あまつさえ口付けるみたいに私の頬を甘噛みして舐めた。本能に従って動いているみたいで、犬に脳内を占拠されたのかと夢ながら疑った。
だって私たちはそんな間柄じゃないし、蘭には似合わないくらいひとつひとつの動作が丁寧で。まるで、大切だと触れた部分が叫ぶみたいに。蘭でも誰かを慈しむことなんてあるんだなあと、夢独特のふわふわした感覚が私をくるむ。
「くすぐったいからやめてよ、蘭」
それを当たり前みたいに、ふちのぼやけた気持ちで受け入れたのも、夢だったからだ。ていうか、蘭が犬とかないない! 従順さのかけらも可愛げもない、気まぐれな幼馴染なんだから。役が妥当じゃないもん。
——なんか、痛い。その一点で、意識が現実にぐんと引き上げられた。酒浸しのぐずぐずの思考に対して差し込む蛍光灯の光は暴力以外の何者でもない。
「おー、お目覚め? はよ」
「お、はよ?」
ぼやけた思考のまま返事だけを返す。痛みの原因は、隣に寝転んだ蘭が私の頬を思い切り掴んでいたからだった。いつも見ている自室の天井、当たり前のような顔で横に寝転ぶ幼馴染。ミスマッチな光景に、ぬかるみを探るように記憶を辿る。
なぜ私の体はこんなにも怠くて、蘭がここにいるのか。そうだ。そもそも、今日は彼氏と別れて最悪な日だった訳で、幼馴染を呼び出してヤケ酒をした。その結果、私は酔って寝たし、蘭はきっと帰るのが面倒になったんだと思う。完全に二日酔いだ。
「間抜けヅラすぎてびっくりしたわ」
「寝顔なんて大体の人間間抜けでしょ。蘭だって口開けて寝てる時あるじゃん」
「は? オマエのそこら辺にありそうなツラと一緒にすんな」
投げ捨てるような返答にむしろ少し安心して、軽口の隙間、こっちは夢じゃないよなと確かめるように言葉にする。
「蘭は……犬じゃない、よねぇー。はは、よかった」
「は?」
ぽかんと間抜け面を晒しているのに綺麗な顔。軽口が真実味を帯びるのでむかつく。
「オレが犬とか、すげェ言い草。ボコられてぇなら早く言えよ」
「ボコボコなのはメンタルだけで十分なんで……」
本音だ。彼氏の浮気発覚、即別れた訳だけれど、その上身体的にまで追い詰められたら堪ったもんじゃない。
「夢に蘭が出てきて、犬みたいに頬っぺた舐めてきたからさぁ。起きて横に蘭がいたから、また夢かと思っただけ」
吐露してみたけれど「最悪な夢見てんじゃねェよ」とキレられるだろうか。それに関してはごめんとしか言いようがない。蘭の癇癪が発生した場合、この狭いベットの上じゃあ私には逃げ場がなくて困ってしまう。
けれど、そんな私の危惧は杞憂に終わる。ただし、そこには新たな問題が発生した。
「夢じゃねェけど?」
「は? なにが?」
「ん、」
「んん?」
布団を捲られ、指を差された先を見るとそこには下着だけの自分の半身といくつも散らばる鬱血痕。……え?
「は、は? なにこれ」
「あー、マジでなんも覚えてねェの?」
「覚えてな、……っぎゃ! てか布団捲んないで、見るなっ!」
「うるさ。つーかもう記憶から消せねェくらい見たけど?」
「さいてい、記憶消してほしい」
ちょっと笑う蘭から引ったくる勢いで布団を奪って体に巻きつけた。
露出した蘭の上半身もやっぱり服を着ていなくて、更には見たくもないのに目に付く。白い肌、凶悪な刺青、の、隙間にある赤い鬱血痕。私じゃない、他の女からのプレゼントだと言ってほしい。
なるべく、なるべく距離を取るように壁際に寄った。
「なに、オマエ今更怖気付いてんの」
「怖気付くって、なにが、」
「が誘ったんじゃん」
なんだって。蘭が目を細めて笑うところがいやらしい。嘘か本当か判断なんてつかない。
記憶がないにも程がある。彼氏と別れて、速攻幼馴染に手を出す女になってしまったってこと? それ自体の良し悪しはもうどうでもいいけれど、相手が悪い。
爛れた関係になってしまった。しかも、この女癖の悪さと不誠実さ、それから適当さをとろかして煮詰めて固めたような幼馴染と! さっと全身の血がシーツに溶けた気分。
「なんかシツレーなこと考えてんなァ?」
「いえ、なにも。ていうかそんなことより私、もしかして吐いたりした? それで蘭にかけちゃったとか? だから私たち服着てないの?」
「ハッ、ンな訳ねェだろ。清純ぶってんじゃねーよ」
嘘でも良いからそうだと言って欲しかっただけだ。この部屋に残った空気は熟れて篭っていて、何があったのかわからないほど子供でもなくて。
「さいあくだ……」
あれは脳内リバイバルだったのだ。酔った脳が奥底にしまおうとしていた記憶を変に改竄して、再上演とは最悪の極みだ。頭を抱える。
「蘭、なかった事にしよう」
「……あ?」
「一夜の過ちだし、私たちは明日からも何もない幼馴染ということでひとつ」
一度過ぎたものは戻らない。だったら、どうにか丁寧に装ってやるほかない。竜胆含めて変な空気になるのも嫌だった。蘭がいつも通りちょっとつまみ食い程度だったんなら、別にこんなことは言わなくてもいいことかもしれないけれど。
そう思ったのも束の間、思いっきり布団を剥がされてベッドマットに押さえつけるように組み敷かれて息が詰まった。蘭の髪が世界を分断するみたいに私を覆う。
「い、った……、っ蘭! ちょっと!」
「オマエ、オレが適当に手ェ出してると思ってンの」
部屋の空気が剣呑なものに変わって、蘭の目に黒々としたものが揺れていた。怒りっていう言葉では包括できないような感情に見えた。私に向けられた疑問ではなく、自分の中で反芻するみたいに。
今までいろんな女の子に適当に手出してたじゃん、と口にできない私をおいて「アー……まぁいっか、これからで」と一人で納得する。これからもなにも、この話はここで終わりのはずなのに。
「オレが犬だっつってたな、オマエ」
ひとりで勝手に話をとんとん進めていく蘭は、部屋には私たちだけしかいないのに声を潜める。
「首輪つけられてんのはどっちだろーなァ」
そう言ってゆっくりと、夜の熱をたぐるみたいに私の首を蘭がなぞる。首に輪をかけるように蘭が首を掴む。華奢なように見える蘭の指は存外男のそれで、冷たく見えたのに温度があってくらくらする。
ぐっと力を込められると、もう一生逃げられないような錯覚に陥った。夢に出てきたものは、記憶や感情に左右されるという。夢によって感情は揺さぶられるものだろうか。
ふと視線を上げる。蘭の首にくっきりとついた噛み跡。そういうこと。はは、どっちが犬かもうわからない。お宝を見せびらかすように蘭は、私がそれに目をつけたと知ると自慢げに笑った。