愛は麻痺だよ



 初夏のころ。夏なんだから海に行きたい、そう口にしたのは自分であると記憶している。
 その時、蘭はまるで他人事のように「へえ」とだけ言った。そこからは無音の時間が後に続く。やっぱりなあと妙に納得してしまう。
 じりじりとした陽射しの中、海辺で蘭がはしゃぐ姿も想像つかないので期待はしていなかったから。
 それに、言ってはみたものの、ただの幼馴染である私と蘭が仲良く二人で海というのも違和感があって。
 そもそも、竜胆も含めて3人で行けばいいのだけれど、その一緒に行ってくれそうな竜胆にいの一番に聞いてみたら、即座に、嫌そうな顔で断られた。マジで言ってる?の言葉付きで。
 ——ただ、夏に一度も海に行かないのはさびしいなぁっていう、どうでもいい感情から出た言葉だっただけで。結局叶わない話だった。
 それなのに。そんな私たちが、

「死にてェわけ?」

 海、それも秋の夜が満ちた海に触れていた。
 蘭の瞳だけが、月の光を受けて夜の中を泳いでいるように見えた。そこには殺意のような熱が唸っている。
 まるく浮かぶそれは、まるでもうひとつの月みたいだなって、場にそぐわずきれいだなと、ぬるい海水の中で思った。


 そもそも、こんなことになったのは、全部まるっと蘭のせいだ。蘭が寝坊して夜ご飯を食べに行く約束に一時間も遅れたことから始まっている。
 いいとこに連れてってやるよ、なんていう口車に乗せられた。蘭がそんなことを言うんだから、六本木のお高いレストランかなんかに連れてってくれるのかと思って、身だしなみにも気を遣ったというのにこのザマ。
 しかも、完全なる蘭の勘違いで私は海に浸っているという訳で。こんな馬鹿な話があるか! 
 待ち合わせ場所で蘭を待ち続けていた時のこと、隣にいた携帯片手の男の人に道を聞かれて。
 蘭のせいで慣れた街、六本木だ。暇つぶしも兼ねて、携帯の地図上で道案内をしてあげればお礼に笑顔を添えて去っていった。いいことをしたという充足感が私を救ったから、くちびるの端が上がった。
 たったそれだけ。その後すぐのこと。手首をものすごい力で掴まれたと思って、悲鳴と共に振り向けば、

「いった!? え、蘭!?」

 むっつりとくちびるを引き結んだ蘭がそこに立っていた。目が三角形に尖っていて、そんな顔をするのは珍しいなと呑気に思っていた。寝起きで機嫌が悪いの? 数時間単位の遅刻に怒りたいのは私の方なのに。
 その間も掴まれた手首は離されず、むしろ軋み、蘭が怒りで破裂しそうなことにやっと気付いた。人間風船だ、ひとつ突いただけで爆発しそうなこの男を前に、私は本気で驚いていた。
 引き摺るように手を引かれて、連れてこられたのは珍しく持ち出されたらしい蘭のバイク。怒りの理由もわからず、尺の違う歩みに足がもつれながらも必死についてきた先がこれ。

「乗れよ」

 地獄を引きずるような声だった。拒否権はない。そこからは、もう逃げられない。
 バイクって、もっと自由なものだと思っていた。走り出してしまったら、私には止める術なんてないんだから、蘭の後ろの席は一種の檻みたいなものだった。
 怒りに熱くなった背中に掴まっていいものかもわからず、それでも死にたくないから結局は蘭の背に縋るしかないのが滑稽だ。

「蘭、ちょっと、なんで、」

 夜の隙間を縫うように、苛烈なエンジン音が向かった先は、まさかの海で。着くや否やまたも腕を掴まれて、砂浜に足を取られることも気にできず波打ち際に足元が触れる。
 まるで崖の淵に立たされているかのようだった。蘭の瞳が熱でうねる。

「オマエさ、」

 次の音が聞こえてくるまでの間に、私の体は海水に浸かっていた。蘭が、私を放り投げたからだ。

「死にてェわけ?」

 瞳の中に渦巻いているものが、今か今かとこちらに押し寄せようとしている。こんな仕打ちをしているにもかかわらず、それでも蘭は何かを押しとどめるようにしているからタチが悪い。
 口の中が砂と塩に侵された私に向かって、蘭は足元が濡れるのも厭わずに近寄って胸ぐらを掴み上げる。ちょっといい服は、海水で重く、私の首を物理的にも精神的にも締めてくるから困る。
 なににそこまでの憤りを感じたのかわからない。けれど、幼馴染をやってきて蘭がここまで激情をぶつけてくるのははじめてだった。けど、このままじゃいられない。

「死にたい訳ないでしょ、なに言ってんの? なににそんな怒ってるの、八つ当たりやめてよ!」
「ア? 自分の立場弁えてねぇから躾けてやってるだけだろ」
「意味わかんない。私、蘭の飼い犬じゃないんだけど」
「ハッ、似たようなもんだろ、自覚が足りねぇなァ」

 自覚なんてないけれど、一時間も同じ場所で蘭を待ち続けていた私は、忠犬にあたるのではないだろうか。その評は不服だけれど、褒められることはあれ、ここまでされる謂れはない。

「ちゃんと待ち合わせ場所で待ってたじゃん!」
「待ってねぇだろ。他の男に尻尾振ってただろうが」
「は、あ?」

 思考が辿り着く先には、身に覚えがない。蘭の言いたいことはわかるけれど、そこにはその事実がなくて。そうして、なんで蘭がそんなことを言うのかが、一番わからなかった。

「オレが着いてんのに他の男と喋ってるオマエが悪いだろ」

 暴論だ。一時間遅刻してきた人間の言葉とは思えない。そもそも、私は蘭が来たことにすら気付いていなかったのに。無理じゃない? 着いたなら声かけろ!と言そうになる口を縫っておく。
 けれど、腑には落ちた。ただ拗ねているだけだと言うこと。

「しゃ、べってたけど、道を聞かれただけで、」
「ハァ? 道聞くのなんてナンパの常套句に決まってンだろ。あ、はナンパされたことねぇから知らねェか。カワイソー」
「な、ないけど……いや、されたことあるかないかは関係なくない!? ていうか、そんなふうに言うってことは、蘭のほうがナンパの時に使ってるってことでしょ」
「オレがナンパなんてするワケねぇだろ。女に困ってねーわ」
「そうですか……」

 暴君の論は以上のようだった。
 蘭は、自分より他を優先させることを嫌う。その他大勢より、自分がなによりも優先されるべき存在だと知っているような。よくそんな傍若無人で高慢知己な考えで生きてこれたなと思う。
 けれど、だいたいの人は蘭を優先するので、自尊心がぐんぐん育ってしまったのかもしれない。竜胆も私も、教育を間違えたのかもしれない。

「でも、今回は本当に違うもん。その人、彼女との待ち合わせ場所を間違えたかも、って言って話しかけてきてすぐいなくなったし」
「シラネー」

 そう言葉にしながらも、強く掴まれていた襟ぐりがパッと離されて、怒りが霧散したのを知る。
 だるだるの襟元、もう着れない服。結局、蘭の言う通り私は全くナンパもされたことない女なんだという無駄な自覚を植え付けられて泣きたくなった。
 なんだか、どっと疲れた。遅刻した蘭を待つのも慣れたものだけれど、一時間ともなるとこちらも苛立ちが募る。
 自分を優先して欲しいなら、ある程度こちらを優先すべきだと思うのに。

「これに懲りたら、ナンパなんてされてンじゃねぇよ」
「いや、それこっちのセリフなんだけど」

 これに懲りたら、遅刻するのやめなよ。そもそも、蘭が時間通りに来ていれば、こんなことにはならなかったワケで。

「しょうがねえから、次からはウチに集合しろよ」
「そこは迎えに行く、じゃないの? 惰眠を最後まで貪ろうとするな!」
「しょうがねぇなァ〜、そこまで言うならチャンのために迎えに行ってやるかあ」

 どことなくご機嫌になった蘭は、海にお尻をつけたままの私を助け起こそうと手を差し出してくるので素直にそれを握ることにした。
 そこに優しさを感じるなんて。そもそもの元凶なのに。毒されている、バイオレンスな日々に慣れすぎている。
 けれど、ふと、気付く。
 ——私がしてほしいって言ったことは、結局ぜんぶ蘭がしてくれているような。
 海にいきたいと言ったこともそう。迎えにくるというのも。そうしてほしい、と強く言った訳じゃなくても、蘭は。今までの記憶を辿ってもそういうやりとりが静かに、漣みたいに繰り返されていた。
 脳裏によぎる竜胆の言葉。私が笑い飛ばしたことが事実だったのかもしれないと言うこと。

「蘭って、めちゃくちゃ横暴なのに、ふとしたときにやさしいよね。だから女の子にモテるの?」
「は? 兄貴がそんな風にするの、オマエにだけじゃん」
「本気で言ってる?」
「そっちこそ。兄貴はオマエのこと相当好きだろ」

 いやいや、本気で言ってる?
 私は二度そう返して笑い話にした記憶がある。だって、そんな訳ないじゃん。だって、あの灰谷蘭だよ、って思って。
 いつも人を小馬鹿にしたような蘭が、やさしさをこぼして歩いていたこと。女になんて困っていないと宣う蘭が、ひとりの女に対してここまでの激情を開けっ広げに見せなければやっていられなかったこと。
 ——それってさ、相当ってことじゃん。
 さらには、それが嬉しいって心のどこかで思っていること。私も、相当じゃん。

「は? オマエなに笑ってんの?」
「いや、竜胆の言った通りだったのかもなあって」
「——オマエ、この後に及んでまだ他の男の話とか、いい度胸じゃん」
「他の男って、り、」

 竜胆じゃん、という言葉はするりと消えてしまった。
 繋がっていた手をぐっと引き寄せられたと思えば、言葉は全部蘭に飲み込まれていた。しょっぱくて、ざらついてるのに、やわらかくって熱い。
 音もなく離れたくちびるに、一瞬夢だったのかと思う。私たちが立てる音よりも波の方がずっと大きく聞こえる。

「え、」
「マーキング」
「……え?」
「ふらふらしてんじゃねェよ、バァカ」

 言葉の表面よりも、蘭の口調はやさしかった。
 マーキングする方が犬じゃん、とはとんでもないけど言えなかった。
 海水を吸った髪が解け、蘭の三つ編みが自由に振る舞う。私をどこからも隠すようになったそれに乗じて、もう一度、蘭の顔がおりてくる。
 蘭の世界ではこんな簡単にキスしちゃうんですか?とか、誰にでもこんなことしてるの?とか言いたいことは山ほどあるのに。
 ——困ったのは、蘭にこういう風にされるのが、いやじゃなかったこと。 
 毒は薬にもなるっていうけれど、蘭のすきは毒にしかならないんだろう。でも、私は長くながく体の芯までそれに侵されて痺れ切っているらしい。毒されて、慣らされていた。
 蘭って、私のこと相当好きなんだね。そう言うと、鼻で一度笑われたけれど否定はしなかった。
 代わりに、顔がまた海水をかぶることになったけれどあんなに熱烈な告白の後なのだから、もう否定なんてできないのだと蘭は体の芯まで理解するといいと、塩辛い夜の海に思った。


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2022/12/18 COMIC CITY SPARK 17
TOKYO 罹破維武 11 無配のお話でした。
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