こっからが愛とか聞いてないよ



「最近、兄貴の様子がおかしい」

 夜中にこっそり家を抜け出したり、気付いたらふらりとどこかへ外出していたり。そう竜胆が訝しげに口にしていたことを、は思い出していた。
 原因、知っていますとも。なぜならば、いま彼女の目の前にいるのは、件の様子のおかしい灰谷蘭その人だ。

「よお、今日もお勤めご苦労さん」

 夜明け前、六本木の中心地にあたるその場所で彼に出会すのは、これが初めてではなかった。大学生らしく、健全にアルバイトに勤しんでいたの目の前にいつもふらりと現れる。
 時間帯こそ健全とは言い難いけれど、居酒屋で遅番やラストまで働けばいい収入になる。新作コスメに新しいワンピースも欲しかった。それに新しくできたという話題のカフェでケーキも食べたい。大学生活を謳歌するには、お金はあればあるだけよかった。
 昔からの友人である竜胆から「働くなら六本木にしとけ、口利いといてやるよ」と言われ、ありがたく恩恵に肖ったのがよくなかったのだろうか。
 灰谷兄の毎度の襲来は竜胆の差金か何かだろうか、と一瞬思ったのは確か。けれど頭を振ってその考えをかき消した。肺に重たく座り込むような感触を全てのせて息を吐き、一言目。

「なんでいつもシフト把握できてるんです? 怖すぎるんですけど」

 竜胆にも伝えていないのに、と漏らす。竜胆の口利きだと言っても、わざわざ友人のシフトを管理したりしないだろう。なのに、どこからこの男に漏れているんだと戦慄いた。

「竜胆関係なくね?」

 彼女の言葉尻をパチリと切り取るように、携帯を閉じて凭れていたガードレールから腰を上げた。
 お前と竜胆はただのオトモダチなんだから、わざわざシフト伝えあったりしねぇだろ。とと同じ考えを、さも当たり前のように吐き出した。

「そりゃそうですけど。でも実際に蘭さんには伝わってるじゃないですか」
「ハッ、オレらのシマで何言っちゃってんの。ウケんね」

 全く面白くなさそうに言うので、はほとほと困り果てた。出会った当初は人を食ったような笑顔で近付いてきたくせに、ここのところは表情がごっそり抜け落ちている。
 美形の無表情ほど怖いものはない、と心の隅で思うのだ。それ、どんな気持ちの表情なんですか?
 これなら、あんな笑みでもないよりマシだった。蘭との間には壁があって、隔絶されているのだということが目に見えてわかったのに。それがありさえすれば、良くも悪くも興味の対象外の他人だと明示的にわかったのに。
 ——今となっては、悪い意味で蘭の興味の対象に入っているようだが。それがなぜなのか、にはちっとも分からなかった。
 は一秒でも早くここから逃げ出したかった。友人の竜胆の兄というだけで、ほぼ知らない人間なのだ。それに、竜胆から「オマエは兄貴には関わらない方がいい」と口を酸っぱくして言われていたから。
 は素直にその言葉に従うことにする。

「じゃあ蘭さん、私の家向こうなので。さようなら」
「待て待てー、んちはあっちだろ。こんな時間に一人で歩くなんてあぶねェから送ってやるよ」

 六本木のカリスマ、暴力で界隈の不良をねじ伏せている人が何を言っているんだろうと内心思う。長い脚のリーチを惜しみなく使って、行手を阻まれては、になす術はない。
 治安を悪化させる最たる原因は彼ら兄弟で、彼のそばにいることが一番安全で一番危ないと肌で感じている。
 それに、灰谷蘭に好意も悪意も寄せる人間は五万といるんだと知っていたので、なるべく距離を置いていたかった。その危険な魅力に惑わされてしまうのではと思うと、怖いのもある。

「蘭さんと一緒にいると、ここら辺で生きにくくなるから遠慮しとく……」
「は? オマエに手出すヤツがいたってこと?」
「いや、女の世界の怖い話なので。ほら蘭さん、すっごいモテるでしょ」
「……へぇ、もそんなこと気にすンの」

 蘭の無表情が少しやわらぐ。白い目元にうすく赤い色が差す様は、絵画を見ているような心地にさせた。
 蘭も蘭で当たり前のことではあるのに、モテるでしょ、とから直接言われることに悪い気がしなくて。むしろ高揚する自分がいるのを隠せずにいる。

「モテるからこそ、蘭さんはそういうオトモダチばっかだから気をつけろって、竜胆が言ってたので」
「……へ〜? 竜胆が、ねェ」

 がつんと自分の機嫌に高低差がついたのを、蘭自身が驚いて反応が遅れた自覚がある。
 ——灰谷蘭は、この気持ちをどうしようもなく持て余している。
 ちょっとしたことで機嫌を損なうのは日常茶飯事だったけれど、女のこんな当たり前の言葉で機嫌が良くなって、悪くなってと振り回されるのは未知の出来事だった。振り回すのは蘭の仕事のはずなのに。
 こんな風に特定の女に構おうと思ったこと自体が初めてで。だって、毎日同じモン食ったら飽きるし、まわりに色とりどりの料理があるなら違うモン食ったほうがいいじゃん。というのが蘭の言だった。

「え、うん。竜胆からしか蘭さんのことは聞かないし」
「……竜胆竜胆うるせぇなァ、今と一緒にいんのはオレだろーが」
「ご、ごめんなさい」
「あー、マァいいんだけど、」

 誰かを許容する意味で、まあいいんだけど、なんて言葉を使ったのは生まれてこのかた初めてかもしれない。「ごめんで済むならケーサツいらなくね? 死んどくかァ?」の方がよく使っているくらい。
 そう、こんなことははじめてで。
 灰谷蘭は気に入ってもいない女の名前を覚えることなんてないし、どうでもいい人間には見向きもしない。竜胆もその性質はあるけれど、まだ取り付く島がある方。
 けれど、珍しいことに竜胆が長いこと心を傾けている女がいると知って、気にならない方がおかしい。セックスもしないのに、付かず離れずの関係を保つ必要性が蘭には理解できなかった。
 だから、すくすくと胸の裏側で育つ芽がどこからやってきたのか分からない。なのに、育つたびに自分の根幹すら揺らがすような衝動を生むのだから、たまったものではない。
 の隣は存外居心地が悪いのにどうしてか他に譲るのは不服だと思うので、下手にちょっかいをかけたのを後悔している。

「送ってやるって言ってんだから、大人しく甘えとけ〜?」
「…………はい、じゃあお言葉に甘えて」

 渋々、本当に仕方なく、というのが如実に表れているけれど、蘭はこの時間を勝ち取ったことにアメジストの瞳をやんわりと湾曲させた。
 最初っから今までずっと蘭のことを警戒している女が徐々に、ほんの少しだけ。顔をあわせるたびに、その心の端を綻ばせるのがたまらない。じわじわと自分の胸に広がる春先の香りが。
 も、何度も会った中で蘭が思っていたよりも恐ろしい人間ではないのかもと思い始めていた。竜胆とともに作り上げた灰谷蘭像は強固な悪魔像だったので、それと比べるといくぶんか。
 昔、竜胆と友人関係をはじめる時も同じようなことを思った。この不良、思ったよりも、もしかしてって。
 傍若無人な振る舞いに反して、歩みを進める速度はそのコンパスに似合わない。散りばめられた、読み取りにくいやさしさの理由はなんだろう。

「あの、蘭さんはなんでいつも来てくれるの? 待っててくれてますよね?」
「はぁ? ……アー、たまたま帰り道に知った顔見つけただけだわ」
「はぁ」

 そんなものは嘘であると、馬鹿でもわかる。先ほどシフトを把握して、自分から会いに来ているようなことを言ってしまったばかりなのに。
 あまりにも稚拙な言葉だったけれど、そんなことは蘭自身が一番よくわかっていた。けれど、そんな言葉で誤魔化すしかないのだから、六本木のカリスマも形なしだ。胸の内側を掻きむしりたくなるような感覚が蘭を刺す。
 耳の端がじんわりと熱くなっていく。からの視線が、蘭の輪郭をじっくりと焼いていく。
 アー真正面から受けたら、焦げるかも、と蘭はらしくないことを考える。じりじりと心のふちを炙るから、こんなのらしくねーと心の中だけで呟く。

「あの」

 蘭の心のうちなどひとつも知らないが意を決したように口火を切る。

「いろいろ言っちゃいましたが、……ありがとう」

 やめとけやめとけ、と唱えていたのに、なんとなく今見ておかないと後悔する気がしてに視線を向けたのがやっぱりダメだった。ああ、しくじった、焦げたわ。
 はじめて見るの笑みにくらくらする。どうしてこう、日常の代名詞みたいな女の笑顔ひとつで頭の芯までダメになってしまっているのか。ビビって逃げ腰のくせに、どことなく心を許してくるのではと勘違いさせる隙がある。寄せて返す波のように掴めそうで掴めない。
 耳だけに留まらず顔全体が熱を持ち始めていることに気付いて、口元を手で覆う。
 六本木のカリスマはこの日、自分の好奇心を大きく後悔した。

「……勘弁してくんね」

 だってもう、人生の中で観測したことのない春一番が胸に到来しているのは避けようがない。掻き乱されて、荒らされてしまうのは自分の方なのだと。きっと本人が一番わかっているから。