ちから持ち得ぬ獣の使い



 信濃藤四郎が傷を負って帰ってきた。薬研に肩を借りながら歩く姿にすっと、体の中を冷たいものが通り過ぎていく。重傷ではないけれど、ぽたりぽたりと床に染みを作る血液を見るに中傷レベルではある。駆け寄れば、信濃は俯いていた顔を上げてパッと笑顔を作った。そんな緩い笑顔で片付く怪我じゃないよ!

「ちょ……っと大丈夫?!」
「あ~~大将、ただいまぁ。大丈夫大丈夫、ちょっとしくじっちゃっただけだから」
「大将、こんなこと言ってるが、奴さんの投石が頭にぶつかったんだ。丁重に手入れしてやってくれ」
「あ!薬研、それはかっこ悪いから言わないでって言ったじゃん……っいたた」
「騒ぐからだ」

 それみろ、と言いたげな薬研は手入れ部屋に信濃と私を押し込んで「後はごゆっくり」と意味深に笑った。なんでだ。信濃も信濃で「お心遣い感謝~」なんて笑っている。だからなんでだよ。
 ごゆっくりも何も、手入れをのんびりなんてしないし、早く治してあげなければと使命感に駆られる。いつ見ても、彼らの怪我した姿は慣れないし、慣れたくない。できれば、怪我なんかしないで帰ってきて欲しいのに、この刀剣たちときたら割と好戦的なもんで怪我しない時なんてない位だ。
 信濃だって、いつもは「大将のフトコロ~!」なんてぱたぱた笑って引っ付こうとする癖に、戦場になるとまた顔が変わる。それは彼が修行に出た後は顕著な気がする。

「ほら、信濃は寝ときなよ」
「あー、うん。でも、俺もこっちでいいや」
「え、だって頭痛いんでしょ?石ぶつかったって」
「ぶつかったけど!大丈夫なんだって。秘蔵っ子でも俺、結構逞しくなったと思うんだけど?」

 逞しいとか逞しくないとかそんな話ではないんですが、と思いながら刀を受け取って手入れの準備をする。ちら、と彼の方を見遣れば痛々しい姿とは裏腹に口元は緩く月の形を作っている。少し、いけないものを見たような気持ちになって急いで手元に視線を戻した。
 そう、信濃が修行を終えた後から、なんだか雰囲気が違う気がするのだ。例えるならば、昔は可愛い弟分だった隣の家の子供がちょっと見ない間にすごく男らしくなってしまったみたいな。驚きと少しの寂しさと、あと心臓が変な音を立てたりするから、何これ病気ですか?と思ってしまう。だから、修行前に懐フトコロ、と引っ付いてきたのと、今同じことをされるのでは訳が違う。私のメンタルに支障を来すか来さないかの瀬戸際だ。
 今だって、寝ておいたほうがいい、と言ってみても私の隣にピタリと寄り添っている。じとり、と視線を這わせてみても、子犬みたいな丸々とした瞳で返された。自分がとても汚い人間に見えてきた、平常心!
 でも、これにも訳があるのだ。これは私が悪い訳じゃないと思う、だって、

「それにしてもさ、信濃くん」
「ん?」
「毎度毎度思うんだけど、服が大破しすぎでは?」

 眩しいくらいに肌が白くて、なんだかいけないことをしているような気持ちになる。私が何かした訳じゃないのに、やめていただきたい。
 中傷や重傷になると、みんな服が破けてしまったり、武具が壊れたり、様々な影響が出るのはわかる。けれど、これはなんだ! むしろ君、自分で脱いだの?レベルのこの肌の晒し方。惜しげなさすぎてこわい。しかも距離が近い。
 最近、信濃がよく怪我をしてくることも相まって、この姿をよく目にする。逞しくなったよ、と胸を張るならば、怪我をしても大丈夫という意味ではなくて、怪我をしないよという意味で胸を張って欲しい。先行して修行を終えていた薬研はそこまで中傷になったりしないのに。
 そんなことを考えながら、拭い紙で刀身を払う。すると、大破した衣服を気にすることなく、信濃が私の方に身を乗り出したから、逆に私が身を引いた。だから近いんだって! 危ないし!

「え、なになに?大将、ちょっとドキッとしてたりする?」
「してませーん。してないので、はい、もう寝てください」
「なんだよー、釣れないな、たいしょー」
「信濃が大人しくしないからだよ。怪我人は怪我人らしくちゃんと寝てなよ」

 そう言えば、信濃は眉間にぐっと皺を寄せて唇を引き結んだ。うーん、こういうところは前と変わらず少年らしくてかわいらしいんだよなぁ。修行に出る前の彼の姿を脳裏に思い浮かべて、胸に懐かしさが湧き上がる。姿形はほとんど変わっていないのに、とても大きく変化した。雰囲気だけが、少年から青年にまで成長してしまったみたいな。
 頑なに寝ていろと言う私の顔をじっと見て、それから手元まで視線が降りていく。その過程の中で、信濃は何を思いついたのか突然表情を明るくして「あ、」と零した。薄く開かれた唇も、私を端っこからじりじり燻らせていくような視線も、なんだか危うく思えてしまう。

「大将、俺寝るよ」
「え、あ、うん。それが良いと思うよ、手入れまだ時間掛かるし」
「だよね。だからさ、貸してほしいんだよね」
「何を?」
「まくら」
「は?」


 別に俺だって、わざと怪我をして帰ってきている訳ではない。少しの下心はあるにしたって、わざわざ大将を心配させるようなことがしたい訳ないよね。痛いのは極力避けたいし、資材だって有限だ。まあ、この状況はおいしいとしか言い様がないけどさ、と俺は大将の膝に頭を乗せたまま、胸の中で独り言ちる。
 下から覗き込むようにすれば、大将の視線をしっかり捕まえることができた。俺はにんまりしそうになる頬を抑え込む。なるべく、彼女が俺を、昔と違うと認識するように意識して言葉を口にする。

「大将、ゆっくりでいいよ。ゆっくり、念入りにね」
「わかった、わかったから大人しくしてて」
「ふふふ、はぁーい」

 返事をしながら目を細めれば、大将の頬に朱い色が差したのがわかった。やっぱり、そうだよね。大将のそういう、分かりやすいところが俺はいいと思うよ。
 修行に出て変わったことは二つある。どちらも俺が前から胸の内に秘めていたこと、それを解決する糸口になりそうなもの。
 短刀は小回りは効くが、物理的な攻撃力や耐久値は他と比べて低い。それは利点であり欠点だ。修行によって、その欠点はだいぶ改善されて強くなった、と、思う。これが一つ目。でも、体が新しくなったような感覚にまだ慣れていない。ま、だから投石食らったりしちゃったんだけどね。それが今の状況への駄賃だっていうなら、俺としては全然構わない訳だけど。
 戦場を駆ける感覚はより軽く、けれど食らわせる一撃は重く、気配を隠すこともより得意になった。それは言い方を変えれば、どんな場所にも、どんな人がいるところでも気配を溶かすことができるということだ。短刀の中でも、俺はこれが得意な方になった。その変化が、二つ目の変化を俺に気付かせた。

「ね、こんなところで何してるの?俺、この人と約束があるんだけど」

 それは買い出しで街に出た時に、俺の中で確信に変わった。街中で女性に絡んでいる悪漢を見つけた時、間に入ったことがある。
 いかにもな風貌の厳つい男が、肩を震わせ小さく縮こまる女性に迫っている。そんな状況に出くわした。刀である俺が人に怪我をさせるとやっかいなことになるし、しかも処罰を受けるのは大将ときた。だから、俺が直接助けに入るんじゃなくて、人を呼ぼうと思った時だった。
 か細い声で「や、やめてください……っ」と女性が零す。その声があまりにも弱々しく、吹いたら飛んでしまいそうな声だったから。俺の首は糸に引っ張られるように彼女の方を向いてしまった。

 あれ、あれって、

 彼女の姿を視界に入れた時には、もう考えるよりも先に動いていた。
 男と女性の間に自身の体を滑り込ませて男の肩をトン、と押す。相手は人だ、遡行軍じゃない。相手は、人だ。言い聞かせるように心の中で唱えて、できる限り相手への衝撃は少ないように。
 俺の後ろにいる女性に非道なことをしようとしていた奴だ。情けなんかいらないんじゃ?という気持ちが無いわけじゃないけど、考えるのは大将のこと。大将が処罰なんて絶対にいやだ。
 すると、俺が込めた力に反して、男は肩から吹っ飛んだ。あ、あれ、俺そんなに力入れたっけ? 俺は内心あれれ?って感じで、キョトンとしたけど、顔には出さず男を睨み付ける。この男より大きく、威圧感を与えられるような男の姿を想像しながら。
 吹っ飛んだ男は腰を抜かしてキョトンとしていたけれど、視線に込めた殺気に気付いたらしく固まった。一先ず怪我はないみたいだね。処罰は回避。後はこの場を離れてしまえばいい。

「ね、俺の方が先約なんだ。この人、もらってくよ」

 いいよね?と問えば、素早く縦に振られる首に満足する。「じゃあ、行こっか」と手を取って歩き出せば、ゆるやかな足取りで彼女は着いて来た。細い手首が折れそうだなと思った。大将と同じくらいかな、でも大将の手の方が割と怪我とか多い気がする。畑とか弄ったりしてるし。でもそんな手が俺は大切だと思うし、触れたいなと思う。
 人通りの多い道まで出て、彼女の手を解放すれば安心したような少し不安なような表情になった。眉の間がちょん、と寄っている。

「あの、ありがとう、ございました」
「全然いいよ、見過ごせなかっただけだし。それに、」

 見過ごせなかった一番の理由。それは、

「俺の知ってる人に似てたから、余計にね。だから気にしないで、これからは人通りの少ない道には気を付けてね~」
「っは、はい、ありがとう、ございました……」

 その女性の姿形が大将に似ていたから。視線をそこに縫い付けられてしまったみたいに、どうしようもなくなっていたんだ。まあ無事に連れ出せてよかったけど。
 不安げな中に、何か違う熱を溶かし込んだ表情。頬を染めて俺を見るその人は、やっぱり大将に似ている。大将も照れてこんな顔をするのだろうか、こんな、熱に浮かされたような、恋でもするかのような女の人の顔。今まで、こんな表情を女の人に、ましてや大将になんて向けられたことがなかった。
 そこで俺は思ったんだ。自惚れかもしれないが、今この人は俺のことをちゃんと男として意識してくれたんじゃないかなって。助けに来てくれた頼もしい大人だと認識されたんじゃないか。
 それなら、修行を終えた今ならば、大将にもやっと一人の男として意識してもらえるんじゃないかって。今この人がしているような表情を、俺が大将にさせられるんじゃないかって。


「大将、懐入っていい?」

 今まではするりと、とはいかないけど、なんだかんだ抱き付かせてくれていた大将が抱き着かせてくれなくなった。寂しい反面、いい傾向だと思った。
 あの女性を助けたその日から、俺はなるべく今までとは違う雰囲気を纏うようにした。少しでも、大将が俺を意識してくれるように、大人、みたいなね。それを作ってる時点で駄目なのかもしれないけど、やらないことには先に進まない。それに、俺はその場に溶け込むのが得意だ。それって、どんな人の雰囲気にだって寄せられるってことだと思うから。

「ねえ、大将」

 もう一度、大将の頬を、視線が外せないように包み込みながら俺は呼ぶ。膝に俺の頭が乗ったままの大将は、本当に動けないんだ。優しいから俺を落とすようなことはしない。だから今は絶好のチャンスだ。

「な、なに、しなの」
「大将の懐に、是非入れていただきたいんですが」
「その言葉遣いなんなの?」
「んふふ、丁寧に聞いてみたら大将の懐のガード、緩くなるかなーって」

 まあ、正直今回に限っては、大将の言葉はもう関係ないかなとも思ってるけど。嫌がられていない、ということが分かれば、もう後は攻め入るだけだ。彼女の、どんどん色付いていく頬や上がっていく体温が俺を後押しする。
 くるり、と俺は体を返す。そして大将の「え、」という呆けた声を耳に入れながら、えい、と彼女の腹に腕を巻き付けた。

「懐、いただき」 

 息を飲んで「ちょ、っこれセクハラって言うんだからね!おい!こらっ、し、信濃!」なんて、上擦る声の割に肩を押す手に勢いはない。修行に出た成果か、はたまた彼女の腕力が元々そこまでないのか、多分両方だ。必死な表情も、どんどん朱い色を増して行くその頬も、いくら見ていたって飽きないよね。
 ぐっと、彼女の胸に耳を押し当てるようにすれば、脈打つ音が聞こえる。どんどん早足になって、攻撃的な音になっていくそれは、少しでも俺を意識してくれている証拠だと思いたい。腰に巻きつく俺の腕すら振りほどけない、そんなか弱さも愛しく思うよ、大将。