花になるための呪文



「僕をいちばん愛してくれる人は、誰だろう」

 こちらに投げられたわけではなく、ただそこに落とされた。誰も拾わない、拾ってはいけない空気感を漂わせたその言葉に、私はどきりとした。

 この本丸に顕現してすぐのこと、近侍を任せて数日経ったある日。大和守くんはそんな言葉を口にした。一緒に書類整理に精を出していたところ、外では強く風が吹いた。季節は春だったので、桜がさらさらと風に身を任せていたのを覚えている。
 そんな折に、一言だけ。舞っている桜を見て、彼はポツリと一言零したのだ。
 その横顔が、懸命に何かを探しているように見えた。桜の花びら一枚一枚を手に取ってどれが自分にとって本物か探すかのように、途方もない気持ちに感じられた。触れたらぼろぼろと崩れてしまいそうな大和守くんに不安になる。
 それでも、付き合いが短いからなのか、私の元々の気性のせいか、なんて声を掛けていいかわからず、出かかった言葉を腹に押し込んだ。開きかけた口も、自然な動作に見えるようにゆっくり戻した。ぐうっと鳩尾辺りから、熱い塊が私の心臓を押し上げる。
 ふと、こちらを振り返った大和守くんは、私を見てきょとんとしてから、へにゃっと笑った。なんて声を掛けていいかすらわからない、へたれている審神者でごめんね、大事にしていきたいよ、って心の中でつよくつよく思った。けれど、ついぞ言葉を吐き出すことはできなかった。


 「ねえ」と前置きをされたので、私は書類とペンをそのままに顔だけ向き直った。声を掛けられるまで、昔のことを思い出していた。ちょうど一年ほど前、その時の近侍も安定だった。目の端に桃色が薄っすらと映った。

「ねえってば」

 まだ少しぼんやりとしていた私にずずいと顔を近づけてきて、こちらの瞳に自分を映す。
 逆もまた然り、揺蕩う水をうすく伸ばして張ったような、安定の瞳の中に私が揺れていた。そういうと聞こえはいいけれど、普通に距離が近すぎて戸惑いに揺れている私がいた。近いわ。

「なに、ちか、なんでしょう、近い」
「話、聞いてた?主、たまにぼんやりするよね」
「ごめん、なんかフラッシュバックしてた。で、なに?」

 私がちゃんと返事をしたことに満足したのか、少しだけ身を離した。それから真面目な顔をして、私の目を真っ直ぐに見て、聞き覚えのある言葉を口にした。

「僕を、いちばん愛してくれる人は、誰だろう」

 音の並びは全く同じ。一年前とそのまま変わらない羅列に、私はまたしてもどきりとした。しかも今度は拾われることを待っている、私に向かって発せられた言葉だ。拾わざるを得ない。
 それでも、なんて言っていいかわからないからまごついた。
 今までも今もこれからも、大切に思いながら過ごしてきたと思っているし、そうしていきたいけれど"一番"なんて大それたものを語れるほど、安定に何かしてあげられたとは到底思えなかったのだ。

「もちろん私だよ!って、言わないの」

 私がまごついている間に、安定は綺麗に整った眉をぎゅっと縮こめて言った。顔の造形が綺麗なのでより不機嫌がわかりやすい。怒っているというよりも、自分の思い通りにいかないことが不服だという子供のような表情に少し笑いそうになった。
 安定を一番愛してあげられるのは私です、任せてよね! そう言えたらかっこいいけれど、それを口に出すのはとても難しいことだなと思う。たぶん、昔から思っていたけれど、引っかかるのだ。
 「一番」って、全ての中からなにか一つに定めることだ。今も昔も、それはとても難しいこと。
 だんまりを決め込む私に、追い討ちのように言葉を投げかけた。

「一年前くらい前の主は言おうとしてたよ」
「……え、えっ?」

 いや、いやいやいや。さっきまで私も思い返していたけれど、あの時の私が言えたはずがない。だって、出会ったばかりで距離感が分からなくて、言葉すら掛けられなかった。
 大事にしていきたいけれど、相手に伝えて信じてもらえるかもわからないし、そんな実績もない。一年経った今だって、そんな大それたことを口にしていいのかなって思う。もちろん、大事にしたいと思っていることに変わりはないんだけれど。
 「自覚ないの?」と安定はさらに不満そうに言った。あるような、ないような。

「いや、だって一番って、愛するって……難しいよ」
「何も難しくないよ。だって、主は僕のこと手入れも手当てもしてくれる。それに僕に近侍を任せるし、万屋で美味しいお菓子を見つけたら分けてくれる。あと、毎日まあまあ美味しいご飯作ってくれる」
「まあまあは余計なんですけど……いやでも、それって全部あたり前のことだと思うんだけど」
「そうだよ?」

 しっとりした雰囲気だったはずなのに、「何言ってんだ?こいつ」みたいな表情をする安定に全てが破壊されていく。
 私だって真面目に回答しているつもりなのに、そんな風にされてしまうとお腹の中がちくちくと荒れる。けれど、彼はそんな私に御構い無しにさらりと言葉を続けるのだ。

「"当たり前"とか、"いつも通り"とか、そういう風に言えるものを作ってくれるってことは、愛してくれてるってことになるんじゃないの?」

 視線も言葉も、まっすぐに届けられたものだった。私の手元に、溢れないようにしっかりと。

「それに、いちばんっていうのも、唯一じゃなきゃいけない訳じゃないと思うんだ。君は僕のことも、例えば清光のことも、同じくらい大切にしてくれる。それって僕らのことを、いちばんに愛してくれているってことじゃ、ない?」

 もちろん、唯一だったらそれはそれで嬉しいんだろうけど。安定は悪戯っ子のように笑って、目を伏せた。
 しぱしぱと瞬く視界の中で、問い掛けが胸に落ちてきた。とてもしっくりくる形に自分でもびっくりした。
 今まで、特定の誰かに対して特別な思いを抱くとか、特別扱いをするとか、そういうものが”愛すること"だと思っていた。
 今まで、すべてのものの中で、ただひとつを決めるだとか、そういうものが”いちばん"だと思っていた。
 安定がしっかりと言葉にして伝えてくれたことを前提にして考えていいのならば、それは。

「うん……そうだ、そう。私は安定をいちばん愛して、いきたいと思ってる……うん、思ってる。最初の、あの時から」
「でしょ?……よかった、主の口からその言葉が聞けて」
「……でも、なんでこんな話をしたの?」

 満足げにくちびるを緩めていた安定は、私の言葉に油断していた!と言わんばかりに表情を歪めた。バツが悪そうに、視線でくるくる空中に絵を描いた。
 あー、とか、えー、とか彷徨い歩いた言葉の終着地点は、安定の長い長い溜息の先にあった。

「……主が、」
「私?」
「そう、君が一年前の春に、泣き出しそうな顔をしていたのを、思い出したんだ」

 はて、と首を捻った。泣きそうになったことなんてあっただろうか……いや、考えてみれば審神者になっていくらかの時はできないことのほうが多くていつも曇り空を描いたような気持ちを抱えていた。

「僕も顕現したてでいろいろ思い返すことが多くって、舞った桜を見ながら考えてたんだ。僕をいちばん愛してくれる人って誰なんだろうって。声に出してるつもりはなかったんだけど」

 でも、その後に君を見たら、すごく苦しそうな顔をしていたから。あ、声に出てたんだって思った。どんな顔をしていいのか分からなくって笑顔を作ってみたら、情けない顔で主が笑った。大したことじゃなかったかもしれないのに、ずっと胸の奥の方に引っかかっていたことだった。

 安定はつらつらと、私が先ほど思い返した景色の中の話をした。
 あの時、彼から見ると私は泣き出しそうな顔をしていたのだと知った。必死に感情のざわめきを飲み込もうとしていたことしか、覚えていなかった。

「でも、一年ここで一緒に過ごして、答えが出た。僕を、いちばん愛してくれる人」

 彼はくちびるの端っこを緩ませてはにかんだ。照れたように、むず痒さを隠すように、机の上に無造作に置かれていた私の手を取った。
 山ほどある花びらの中から、安定は自分にとっての"本物"の一枚を見つけたらしい。
 それが--私で、いいらしい。

「い、いいの……それ、本当に私で大丈夫?いいの?」
「いいに決まってるだろ、むしろそうじゃないと困るんだけど」

 温度を持った指先に触れられると、自分の指先がひんやりとしていたことに気付いた。緊張していたのだと、触れられて初めてわかった。
 手の甲をするすると撫でられる感触が心地よくくすぐったい。温度を取り戻していく感覚がじれったい。
 君が主でいいのだと言われたようで、心臓が踊り出したみたいに優しい苦しさが胸の内を締め付ける。

「……あ、それと、」

 ひっそりと内緒話をするように、安定は声を潜め私の耳元にくちびるを近付けた。

「僕も、君をいちばんに"あいしているもの"になっても、いいかな」

 ひそやかな声から生まれた、大きな内緒話に私はまたも瞬いた。安定のいちばん、そんなのいいに決まっている。
 一年前の春、お互いに答えを持たず、くちびるを戦慄かせることしかできなかったあの日。私たちは共に歩いた時を経て、しっかりとお互いを探すことができたのだ。
 鳩尾から胸の内を攻め立てるあつい気持ちを押さえ込みながら、何度もなんども頷いた。私は、力の抜けていく頬を引き止めることすらできないでいる。
 「じゃあまずは……打倒清光、打倒長谷部さん、かな!」とあの春とは異なる、零れず崩れることもないはっきりとした笑顔で安定は大きく笑う。
 それから、もう一度私の指先を手繰るようにぎゅうっと握ったのだ。