君のなごりが残ればそれで、




 まだ冬は本丸から去っていない。春の訪れを端に感じながらも、まだ居座っている。
 さむいさむいと言葉にしながら、書類を片付けていた主は重ねるように「いてっ」と呟いた。手の甲に服が引っかかったようだ。冬はいろんな形の攻撃方法を持っているって、人の形をとってから初めて知った。

「大丈夫?肌荒れ?」
「肌荒れって言わないでーー手荒れだから。手だけだから」
「ふうん、どう違うのかよく分からないけど、あの何だっけ。くりぃむ?塗れば」

 小棚に置かれた容器に視線を移しながら言う。手にそれを塗るとつるっと、いや、ふわっと? あ、しっとりとする、その道具。ささくれ立った僕の手を滑らかにしてくれたこともある。
 手渡してやれば、すぐに蓋を開けて容器の中腹あたりを力強く押した。いや、それはまずいんじゃ、

「あっ」

 悴む手で押し出したら、思ったより、いやだいぶ多く中身が飛び出したらしい。あの容器、形はかわいいけど実用性としてはどうなんだろう。主がああやって、間抜けな声を上げるのは日常茶飯事と化している気がする。「安定くん、こっちにおいで」そして、こうやって普段と違う呼び方をするのも。
 しょうがないなぁ、と思いながら僕は指を伸ばして彼女の方へくれてやる。

「はい、どうぞ。おすそ分け~~!」
「わあ、主と一緒の香りじゃん。ちょーーウレシーー」
「棒読みにも程があるぞ大和守安定!」

 こう何度もおすそ分けされると、ありがたみも何もない。普段より量が多いおすそ分けを手のひら全体に撫で付ける。うわ、べたべたする。

「加減しなさすぎじゃない?べったべたなんだけど」
「いやー、ごめん。でも私の方がベッタベタだから許して。全然減らない」
「どれだけ力任せなの?ゴリラなの?」
「うら若き女子捕まえてゴリラはなくない?」
「ぐふっ」

 うら若きって、自分で言う? ツボにはまって笑いを抑えれば主はじっとりとした視線を送ってきた。そうだね、主はまだうら若いね。笑いながら言えば、説得力のかけらもないと返ってきた。
 そんな風に話していれば、いくつかの足音が廊下の床を伝って届いた。「入るよー」という声と一緒に、顔を出したのは二振だった。

「おつかれさまです、おやつ持ってきましたよ」
「主、ちゃんとやってる?様子見も兼ねて来たよ」
「わーい、おやつ!みんなからの信用度が低すぎて悲しいけどおやつ!」
「主がすぐサボるからじゃん」

 呆れた様子の清光と主の様子に頬を緩める堀川。堀川が持っているのは桜餅とお茶で、おやつからも春の訪れが見え隠れした。机の上にお菓子が置かれて、さあ来たおやつタイム!と主が両手を上げて食べる意思を示した。が、ふと自分の両手に塗りたくられたものに気付いたようだった。ベッタリだもんね。

「清光、手出して」
「……えぇ、またなの」
「またなの!やってしまった!はい、あげます」

 ぺったりと清光の手にまで侵食したくりーむ。塗り込めるように手の甲をさすっていく。この出し過ぎ事件の被害者になるのは専ら清光と僕だ。近侍になることも最近多かったからなんだけど。呆れた顔を見せつつも、清光はこういう風にされるのが嫌じゃないのでされるがままになっている。
 そうやって僕ら二人に押し付けても、まだそのくりーむは主の手を占拠しているらしかった。彼女は少し考える風にしてから、チラリと堀川を見た。それから、ぐりん、とこちらに顔を向ける主。これはチャンスでは?!と主の顔に文字が浮かんだ。
 普段、堀川にはあまり触れたりしない主。僕らにはするのになんで?と聞いたことがあった。

「なんか緊張するし、安定と同じようにはいかないし、堀川くんってあんまり触れたらダメ感ない?」

 ないよ。そうやってすぐ否定してやりたかったが、堀川もなんだかんだ絶妙に距離を置いている気がするから否定するのはやめた。なんだろうこの、嫌いじゃないし、触られたくない訳じゃないけど、いざそうされると困る。みたいな。堀川はそんな風にして距離を保っている、気がする。
 僕を振り返った主はこの機会に、その一線を越えてみようという試みらしい。いいんじゃない? やってみないと分からないこともあるし。
 強めの目線で大丈夫かどうか訴えかけてくる主。それが鬱陶しかった、いや、可愛らしくて僕はとても応援したくなったので顎と視線で早く言いなよと促してやった。
 「あ、あのさ、堀川くんにも!おすそ分け!」とくりーむ塗れの手を伸ばした。そんな主に対して堀川はピシャリと言ってのけた。

「いや、触らないでください」
「えっひど!」

 主の目論見は無に帰した。
 ショックを受ける主を尻目に、堀川はお盆を持って素早く退室した。「そ、それじゃ、失礼します!」と出された声は思いの外大きくて、なんだか切羽詰まっているような感じがした。
 衝撃で固まっている主の頭を突いてみても返事がない。ただのしかばねようだ? その様子に肩をすくめた清光は、まあこっちは任せなよと言って堀川の後を追った。

「主、大丈夫??」
「大丈夫じゃない……すごい攻撃力のあるパンチくらった気分……今日はもう仕事手につかない」
「ええ、それは困る」

 今日の近侍は僕なので、日課はこなしてくれないと困るよ、主。僕が長谷部さんに怒られるし、そんな風だと「やはり近侍は俺が!」って長谷部さん言い出しそうだし。困ったなぁ。
 考えた結果、今の状況を解決するしかないと思った。だから、しょうがないので、僕は主に付き添って一緒に堀川と清光の様子を偵察することにした。なんだかんだ、僕も彼女に甘いんだよなぁって思った。本当だったら、そのくりーむを拭い取って仕事の続きをさせれば良い。でも衝撃を受けた様子の主は見ていてちょっとかわいそうだったから。どちらの所作が近侍の鑑なのかと言われればわからないけれど、僕の行動は間違ってはいないと思う。
 堀川と清光が入った部屋の襖にぴたりと身を寄せる。中から聞こえる様子で、さっきのことを話しているのは伺い取れた。緊張した様子の主を尻目に、清光が話し出した。

「堀川、ハンドクリームとか嫌いだっけ?」
「嫌いじゃないんだけど……」
「香りが強いのが苦手だったりしたっけ?でも前、主が“これいい香りなんだよ~”って言ってた時は頷いてなかったっけ?」
「いや、良い香りだなとは思うんだけど……だって、みんなどうして平気なの?主さんも同じもの、つけてるんだよ?」

 「えっ、なに、そんな私嫌われてんの……?」絶望を宿したか細い声で主が言う。そんなことないと思うけどなぁ。それを代弁するかのように清光が驚いた、というように問い掛ける。

「なに、お前そんなにあの人と同じ香り嫌なわけ?」
「いや全然違う、違うんだよ!手から主さんとおんなじ香りがするんだよ?!無理でしょ!」
「ええ……全然意味わかんないんだけど」

 本当に訳がわからないという風に、清光は息を吐いている。僕はなんとなくわかる気がする、最初は僕もそんな感じにそわそわしてたような。今はもうないけど。
 そんなことを思い返していれば、主が暗い顔で僕に言う。

「安定、心折れそう」
「大丈夫。主の心は軟体動物みたいな感じだから大丈夫だよ。折れない折れない」
「ん、え?は……?」

 硬いものほど折れやすいけど、主は割と柔軟な心を持ってるから大丈夫。僕はそう思う。そう伝えたつもりだったけど、混乱させたらしい。まあ、今はそのまま混乱しておいてもらって、続きを聞きたいなと僕は思った。堀川がどんな気持ちなのか、主がどんな気持ちなのか、前に見た「どらま」ってやつみたいでちょっと面白い。

「だって、それ香りが残るっていうのがウリだって主さんが言ってたよ。それって、寝る時とかだってその香りが残ってるわけでしょ。逆に心臓がおかしなことになって寝れないでしょ、なんでみんな平気なのか僕には全然理解できない」
「堀川、お前……ええ……ああ、そう、そっちの人……」

 なんだよ、心配して損した。そんな声が聞こえてきた折だった。

「……主?」

 ガタン、と音がしたので隣を見れば、いたはずの主がいなくなっていた。いや、限界が来たようで、廊下に這い蹲っていた。それはやめたほうがいいんじゃない?
 「今の、いま、不意打ちって、やつだ。むり……」と息も絶え絶えの主に追い討ちを掛けるように襖が勢いよく開いた。スパンッ!と軽快な音を立てて開いたその先には、わなわなと震え顔まで赤い堀川と「あちゃー」って顔した清光。

「い、いまの、あるじさん、き、聞いて……?」
「きいた……」

 「……っ!!」と言葉にならない声を発して、堀川もまた、主と同じように這い蹲った。いやいや、二人ともそれはやめた方がいいと思うよ? 両人ともに羞恥心に耐えきれないというように呻いている。
 とにかく、嫌われてなくてよかったね、主! そう言えば、小さく、本当に小さく「よかった……」と返ってきた。
 清光は呆れたような、安心したような声音で、あーもう、二人で勝手にやってよねーと呟いた。一件落着!……のはずだったが、結局、主はその日、仕事を手につけることができなかったのだった。まいったねこりゃ。