まだ春の鼓動を知らない



 夏が始まる。
 ということは、オンボロ寮の灼熱地獄が幕を開けるということ。
 風が通らない、冷房がない、金もない。三重苦に苛まれた私たちが編み出した苦肉の策は、学園内のグラウンドにある水道を使った水遊びだった。
 考えてみれば、校内に入って涼めばよかったのに、私たちの頭は暑さで煮えきっていた。けれど、こんなアホな行為に思いっきり加担するエースとデュース、楽しそうに頬を緩める監督生くんを見ると、結構いいかも、とも思う。

「ふな~! 水、みず、冷たい水なんだぞ!」
「うわ、グリム! ホースを振り回すな!」
「オレ様が水をくれてやるんだぞ~!」

 魔法を使うときと同じように、右に左にホースをくるくると回すグリム。はじめてのプールにはしゃぐ子供のようだ。デュースが一番に水を掛けられて、監督生くんもグリムを止めようとして餌食になって。……ああ、夏だな、なんて感慨深く思っていた時だった。
 気付いたら、なんだか涼しく、そして体全体が重く、びしょっとしていた。びしょっと?

「ええ、ちょっと、大丈夫?」
「な、何が起きたの……え、待ってビショビショじゃん!」
「グリムがホース持って、テンション上がって高速回転したの。で、お前に被弾した」
「もうスプリンクラーじゃんあれ!!」
「まあ、避けられないが鈍臭かったっつーことで。まじで濡れ鼠、。」

 思いっきり被弾したらしい私に、ひとりだけ無事なエースが駆け寄ってきてくれた。濡れるにしたってもう少しライトなものを期待していたよ! むすむすと不満を噴出させていれば、エースが不意に黙り込むので、まさかエースも被弾したか!?と思って視線を向ける。
 すると、どうだろう。一点へ集中した視線は熱を持った凶器だ。凶器を向けられているのはどこのどいつだ、と視線を辿れば、そこには。
 貼り付いた白いシャツは機能を失ったようにその下に潜んでいるものを透かして見せた。暑さに極限まで対応していたから、キャミソールなんてものは着ていなくて。率直に言って下着全部見えてる。
 エースも無言、私も無言。意味しているものはわかっているはずのに、なんだか状況が掴み切れなくてエースと視線の先を何度も辿ってしまう。
 ――はっ!!

「み、見たなッ!!」
「……ハア!? いや、見たけど見てるけど……、誰がお前なんかの見て喜ぶかよ!」
「なにその失礼な物言い! 一応、私は、女子。この学園唯一の女子! オンリーワン!」
「お前が女子だとか思えないでしょ!」

 なんつー失礼な男! いやでも確かに、エースは照れてもいないし顔が赤らんだりもしていない。マジで女子だと思われていない可能性を見てなんだか悲しくなった。いや、別にいいんだけど。いや、私の尊厳的によくないけど!
 エースはめんどくせー、とでも言うように半目になって頭を掻いた。

「もーとりあえず着替えてきた方がいいんじゃね?」
「わかってるよ、そうするよ、しますとも」

 この男、情緒備わってんのか?と思いながら返答していれば、
「……おい! がどうかしたのか? エース」
 瞬いたデュースが純度百パーの善意でこちらに向かってくる。こ、これはまずいのでは。
 エースはともかく、デュースにまで見られるのは気恥ずかしい。デュースは私だろうと、こう、恥ずかしがってくれそうな気がするし、むしろ私が恥ずかしい。あとなんだか穢したような気持ちにこちらがなる。いつまでもそのままでいてくれ。
 どうにか下着だけでも見えないように、もそもそと試行錯誤を繰り返す。いやでも、そもそも胸あたりは隠せても肩の紐なんかはどうやっても無理だな。諦めるか。

「……いーや、別になんも。ちょっと話してただけ。この時期でこれなら、真夏のオンボロ寮じゃ死人出るんじゃないの、って」
「確かに。そうなると、今度こそうちの寮に泊まりにきた方がいいかもしれないな」
「あー……そーねー、寮長のオッケーが出るならな。……つーか監督生やばいじゃん。吹っ飛んでる」
「ああ本当だ! グリムやめろ、監督生が陸で溺れる!」

 一連のやりとりを、デュースがやってきて去って行くまでをぽかんと見ていた。
 だって、私は口を挟む暇がなかったし、グリムは水圧最大火力にしてるし、監督生くんは溺れかけてそうだし。そして何より、エースが。
 エースが、デュースと私の間に入るようにして体を傾けたから。会話のキャッチボールがエースという壁で跳ね返っていた。
 ううん、それよりもだ。まるで、デュースの視線から隠してくれるかのように、すっと自然に。

「エース」
「……なに」

 多分に空気が混じった返答に含有されているのは、呆れなのか照れなのか。めんどくさそうにしていたくせに。
 言葉と行動がマッチしない。なんだよなんだよ。なんだかんだ、優しいじゃん。いいとこ、あるじゃん! 嬉しくなり、見直したぞ!という意味も込め、思いを乗せて背中を叩いた。夏を溶かした青い空に、バシッといい音が響いた。
 「イッテェ! この馬鹿力!」と、声を張り上げる背中に、そっと笑いかけた。


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診断メーカーより。
「夏が始まる」で始まり、「そっと笑いかけた」で終わる物語。

そしてエースは夜、ぼやーっとこのことを思い出してしまい、ハッとした様子で「女子じゃねえし!」と一人で叫んでデュースを混乱させた。