きみだらけの最中
きれいだなと思ったのは、窓から差した陽の光がキィニチの横顔に触れたから。
空たちもアハウもいない、ふたりだけの室内は静かで、美術館で絵画を見ているような気持ちになって思わず息を呑んだ。
テイワットの長い旅路で、ナタへ足を踏み入れた際に出会ったキィニチとは帰火聖夜の巡礼や山の王であるユムカ竜 コンガマトーを鎮める儀式を経て、ナタを巡る中で仲良くなった。廻焔という古名をもち、代償を量ることに長けているという。
その言葉の硬さと本人の立場、いつも冷静で感情を表に出さないことに反して、彼の本質はやわらかく、空やパイモンだけでなく私にもやさしい。
今日も空たちが懸木の民からの依頼をこなすにあたって、お荷物になった私のお目付け役を引き受けてくれた。普段であれば当然、私も一緒に行動するのだけれど、前回の依頼で運悪く頭を打つ怪我をしたので今回はお留守番を空から仰せつかった。
これしきの怪我でと反抗したけれど、空とキィニチの間で流れるように私の引き渡しが完了したので、これは私の意思を介さない場での決定事項なのだとわかった。
この無用な取引の代償はどれくらいになったのだろうか。高かったらちょっといやだなと思う。だって、それの意味するところは一般的に面倒な仕事か引き受けたくない仕事ということになるだろう。キィニチにそう思われるのはなんとなく、ううん、絶対にいやだった。
キィニチは任された仕事はきっちりこなす。預けられてから一週間になるので、そろそろこの依頼の主も帰ってくる頃合いだろうけれど、この数日ですっかり彼にお世話されることに慣れてしまって怠惰な人間ができあがっている。
朝昼晩と手ずから用意したおいしい食事をご馳走してくれたし、彼の家に私を招いて寝床の提供も。朝になれば起こしてくれるだけでなく、濡れた髪を乾かして大袈裟に巻かれた額の包帯を変えることも手伝ってくれた。外に出る時も手を引いてくれる始末なので、本当に〝子守り〟でも頼まれたのだろうかと疑いたくなる。
至れり尽くせりの状況に、初日の時点で異議ありを申し出たこともあった。包帯を変えようとするキィニチに、そっと進言する。
「ここまでよくしてくれなくても、一人で生活くらいできるよ」
頭を打った以外には外傷もないのだから、生活することに支障はない。空からのこの依頼の意図は「考えなしにフラフラ外に出るな、大人しくしていろ」ということくらいわかっている。それくらい、監視されていなくたってできるのに。
「対価分はきっちり働く。それに、俺にとっても都合がいいんだ」
「そう、なの?」
この生活のどこに彼にとってのメリットが潜んでいるのかは皆目見当がつかない。キィニチが請け負えるはずだったここ数日分の報酬と釣り合いが取れているのかは不安が残る、けれど。
腑に落ちない顔で、それでも「ありがとう」を言えば「構わない」と短く、けれどすこしだけ笑みを含んだ声色が寄越される。
毎日キィニチと向き合うこの瞬間は、なんだか少し緊張する。キィニチは基本的にまっすぐこちらを見るので、その瞳の色に吸い込まれてぱちんと消えてしまうのではと、心臓がざわめくのだ。
私の前髪をやさしく払う時、なぜかキィニチは満足と不満を半分ずつ混ぜたような顔をする。その見たことのない表情にむず痒い気持ちになって、その瞳から逃れようと視線を窓の外へ。
目を瞑っていればだいたいのことがすぐに終わってしまうから、息をうすく吐き出してゆっくり瞼をおろすのだ。
◯
そろそろ空たちが帰ってくる頃合いだとキィニチが言ったので、名残惜しい気持ちになったのがよくなかった。毎日そばにあったその横顔を、もう少しだけ目に焼き付けておこうなんて思って。
包帯を変える準備をしていたキィニチが不躾な視線に「どうした?」と問い掛けてくる。そんなふうに純粋な疑問を投げかけられると、不純な考えを巡らせていた自分が恥ずかしくなってしまう。
ここにアハウがいなくてよかった。あの聖龍というやつは人の嫌がるところを見つけるのがうまいから、きっと「触りごこちの良さそうなきれいな頬っぺただな」と思っていたことを丸裸にされてしまう。脚色を加えて、さらに私が窮地に陥るような状況に仕立て上げようとするのは目に見えていた。
キィニチの瞳は、長いまつ毛の下できらきらとグリーンとイエローの虹彩を湛えている。その混色が急かすようにこちらを見るのでまごついてしまう。
「なんでもない」と言いかけて、くちびるを結ぶ。なんでもないとは言えない時間、その横顔を熱心に眺めてしまったと思い、どうにか言い訳を探すことができないかと視線をキィニチの頬に滑らせた。
すると、お膳立てされたように、反対側の頬に言い訳を見つけて「あ」と声を上げる。
「まつげ」
「まつげ?」
「頬っぺたについてるよ」
首を傾げたキィニチが、言葉をなぞるように自身の頬に手を当てる。見当違いの場所を触っては取れたかと聞いてくるので思わず、
「えと、キィニチ、目を瞑ってくれる?」
「わかった」
言われるがまま、すっと目を瞑って無防備な姿を晒されるとこちらが驚いてしまう。野生の獣がお腹を見せてくれたような、そんな気持ちだ。
簡単には自分の領域を侵させない、ましてや、誰かに顔を触らせそうにない人なのに。もしかしたら。特別、とか信頼されてる、なんていう言葉が私の心をどうにも浮つかせる。真偽なんてものはそっちのけで、ひとりでふわふわした心を抱え込む。
「はい、とれたよ」
「助かった、礼を言う」
本当に些細なことなのに、ていねいにお礼を言われて決まりが悪い。それでも、努めて平常心を保ったつもりだけれどどうだろうか。触り心地が良さそう、などといったよこしまな予想が事実に塗り替えられて、先般の考えを抱えていたことが羞恥を煽る。
じわじわと熱を帯びる頬に、キィニチが特に触れないでくれることをありがたく思っていたのに、仕返しみたいにじっと見つめられて心臓が跳ねた。もしかして、言い訳だってバレてる?
「……の頬にもついているから、目を瞑ってくれないか」
「えっ……私も?」
頬を触ってみても特になにもなく、キィニチが真剣な顔で頷くから言われた通りにするしかない。まぶたを下ろすと、少しだけ間を空けてキィニチが頬に触れた。
——いや、これは触れる、ではなく頬に手を添えられたと言った方が正しい。輪郭を確かめるようにされて、境界が溶けてしまうみたいに。
あれ?と思う間もなく、額に巻かれた包帯の上からやわらかい温もりを感じて思わず肩が跳ねた。傷には触れない距離を保ったその温度は、じわっと触れた箇所から全身に広がるようだった。これって、
「え、あ、……え?」
弾かれるように目を開けると、キィニチとしっかり視線が絡んだ。満足そうとも、不服そうとも取れる表情に、先ほどの温度を思い出してくちびるを開けては閉じてを繰り返す。
状況把握に手間取っている私を置いてけぼりにして、キィニチは昨日までのことやさっきのやりとりが無かったかのようなことを言う。
「軽率に他人の前で、いや、男の前で目を瞑るな」
「さっきキィニチだって瞑ってた、でしょ」
「俺は、その方が都合がいいと思っただけだ」
言葉と、先ほど差し出された無防備さが思い出されて、顔で炎を飼ってるのかと聞かれそうなくらい火照っているのがわかる。さらには、キィニチが熱を辿るようにもう一度頬に触れるから。
「はもっと警戒心を持ったほうがいい。男に無闇に触らせるな」
「それは理不尽すぎるでしょ! 今もキィニチが勝手に触ってるんじゃん」
「ああ。お前は、俺のことこそちゃんと警戒するべきだった」
「警戒って……キィニチはべつに変なことは、」
しないでしょ、と言いかけて先ほどの感触が鮮明に蘇る。やわらかい熱。あれがなんだったのか、わからないほど子供でもない。
けれど、そこに含まれた意図を明確に汲み取れるほど、自信はなかった。キィニチが、友情や挨拶だけでそうする人ではないと知っているから。
「俺はお前に危害を加えるつもりなんて、カケラもない。ただ、下心がないかと聞かれたら答えはノーだ」
はっきり言い切られて、もはや清々しさすら感じる。その表情とシタゴコロという単語がマッチしなくて何度か瞬いて、さらにちょっと笑ってしまった。キィニチでも下心なんて持っているのかと、感心してしまったくらいだ。
そんな私の反応が受け取りたいものとは違っていたらしく、キィニチは眉を寄せ大きく息を吐き「アハウがまったく姿を見せないのはなぜだと思う」と聞いてくる。それは、私もここ一週間思っていたことだった。
「いつもの、閉じ込めてるんじゃなくて?」
「違う。あいつが黙って一週間閉じ込められていると思うか?」
「思わないけど、実際いないし」
「今回、空と取引をしたんだ。を預かることとアハウを預かることをお互いに依頼した。だから、空から受け取るべき対価もないんだ」
「えっそうなの? でもそれだと、都合がいいってどういうこと?」
「そのままの意味だ」
そう言うと彼は、私の頬にかかった髪をさらい、熱を持った手のひらで指先を包んで、包帯越しに額を撫でた。
——それは、この一週間を辿る儀式のようだった。じっくりと、キィニチはそれが当たり前かのように私に刷り込んだんだって。
「なにごとも、準備が大切だろ」
はっとする。誰かに触れるということを簡単にしなさそうなキィニチが、触れること触れられることを許容していたこと。
その事実に、もしかしたらと考えた行動の意味がはっきりとした輪郭を持っていく。ぎゅっとくちびるを結ぶ。口元が緩みそうになってたまらなかったから。
「なんか、余裕そうで腹立たしいんだけど」
「……そうか? もしそう見えているなら、俺の作戦はうまくいったということだな」
「どういう意味?」
「好きなひとの前で格好をつけたいと思うのは、当たり前のことだろ」
今度こそ、重いストレートを一発くらってもうダメだった。夜の空みたいな色の髪から覗く耳の端っこが色付いていることに気が付いたから更に。
あまりの威力に動揺した。少しでもキィニチから距離をとりたくて身を引いても、さっきから離されていない手のひらのせいで失敗に終わる。どうにも逃げ場がない、この嵐みたいな感情をどうすればいいかわからず困り果ててキィニチを見ると、珍しく表情を崩して頬を緩めていた。
「……、包帯を変えるから目を瞑ってくれないか」
イエローとグリーン、とろりとしたオレンジ。ステンドグラスのような瞳が、やわらかにたわむ。
やたらと触れたり、警戒しろと言ったり、でも今は「警戒しないでくれ」と言われているのがわかる。
「答えを言わなくてもいい。ただ、意味をしっかりと考えてくれ」
「……ちょっとずるくない?」
ずるいなと思う。ここまで追い詰められて、取れる選択肢なんてもう私にはひとつしか残ってないのに。
キィニチの瞳に普段はない、熱がうねるような色が見えた。心臓がナタを駆け回ったみたいに走ってる。
どうにか静まってくれないかなと思いながら、ゆっくりと目を瞑ったのが答え。わかりきっていただろうに、小さく息を呑んだキィニチが少しだけかわいく思えた。
瞼の裏にここ一週間の思い出が映っては通り過ぎていく。どこにでもキィニチがいて、全部を埋め尽くしてしまうので、私は彼の計画通りにしてやられたのだと思い知らされた。
「……」
ぽつりとこぼれた言葉を拾う隙もなく、ぎゅっと握られた手があつく、くちびるにはやわらかなものが触れる。
確かめるみたいに何度も触れて、その隙間に何度も名前をなぞられて、心をくすぐられている気分になった。
くちびるに触れた熱が引いて、もう一度だけ触れるだけの口付けをしたあと、キィニチがそっと呟く。
「……やはり、この依頼は俺が支払うべき代償が少なすぎたな」
外から、この生活とのお別れの合図が近付いてくるのがわかる。少しだけ懐かしく感じる騒がしさと、キィニチとの離れがたさがせめぎ合う。
同じような気持ちでいるのだろう、目を伏せたキィニチに、今度はこちらから手を引いて一度だけくちづけた。
目を丸くして、耳だけでなく本格的に頬まで赤い色に侵食されてしまったキィニチを見て、またはじめて知る一面に嬉しくなって私は笑った。私の心を埋め尽くして、やわいところを掻っ攫った代償は、これでいいかなって思って。