ほらもうあとはきみが頷くだけ - 01
朧げな意識で探すのは、ただ一人だった。
思えば、ここのところ依頼が重なっていて、疲れていたのだと思う。帰路に着いたはいいものの、頭がうまく働かずぼんやりとした状態で引き摺るように歩いた。もう周りを警戒する必要はないはずなのに、ずっと息を詰めたような状態が続いている。
「おいチビニチ、なんだその情けない具合は! この至高なる聖龍の従者としてもう少し……あ? 本当に大丈夫かよ、お前」
なんて、アハウにまで言われる始末。その呼びかけにどう答えたのか、そのあとも喋り続けていたアハウの話も、あまり記憶がない。
睡眠を取りたい、汚れを落としたい、空腹を満たしたい。いくらでもやりたいことは挙げられるはずなのに、鈍った頭が弾き出したのはそのどれにも当てはまらない感情だった。
誰とも知らない人間伝てに彼女の名前を聞いた。友人から久しぶりに手紙が来たのだと笑ったが、稲妻に向かってからいくらか経つ。人間と妖怪が共に作り上げる祭りが開催されること、その手伝いをすること、友人との様々なやりとり。
細やかに手紙に記された近況に、無事であることに、安堵するとともに手紙が重なるごとに積もる感情を見ないふりで通した。
「旅人やがナタに戻ってきているらしい」
依頼をこなす合間に拾った声がそう言っていた。それだけのことで、胸が詰まるような感覚を覚えるのもお門違いであろうことは重々承知しているが、感情が波打つことを止めることはできなかった。
どこにいてどんな人間となにをしていたのか、一番に教えてほしいと思う。帰ってきたというのなら、いちばんに顔を見せてくれればいい。
そんなことがよぎって、頭を振る。自分がどんどん欲深くなっていくのがわかり、嘆息した。心の内がわずかに痛む、ぼんやりとした感情に名前をつけられずにいる。いつか、どこかでは感じたことがあることは確かなのに、朧げだ。
けれど、俺にこの感情を与えるのは、今となってはだけだということは事実だった。ならば、それに輪郭を与えられるのも彼女だけで。
——だから、これは当然のことだと言えた。懸木の民の集落にいるはずのない彼女の姿を捉え、自然と息を呑む。例えばそれが夢や幻だとして、その手を引かない理由が、俺にはなかった。
◯
私たちが懸木の民で受けた依頼を終えたのは、月が夜の濃紺に溶け出した頃合いだった。
稲妻から戻った際にナタの人々は熱烈に歓迎してくれたけれど、それは冒険者協会の依頼も同じだった。冒険資金が常に潤沢というわけではないため、依頼があるのは嬉しいことでもあり「やります!」と元気よく返事をしてしまうのはよくない癖でもある。
「つ、つかれたー……」
おもむろに伸びをする。やっと終えた、数日がかりの依頼にくたくたになったのは本当のことで、ぎゅっと蓄積されていた疲労がゆっくりと散っていく。
それから、集落の中をさりげなく見渡して息を吐いた。目当ての存在がいないことに心の真ん中の熱がすっと失われた気がした。
——もしかしたら、依頼を終えた後に都合よくキィニチに会えるのではないか。そんな淡い期待をしていたけれど、偶然はそうそう巡ってくるものではない。
テイワットを旅してまわる私たちと、腕利きの狩人であるキィニチ。アビスとの戦いが落ち着いた今でも彼は忙しそうにしていて、約束をしていなければ会うことは難しいと思う。それでも、都合のいい運命の糸的なものがぎゅっと私たちを結んでくれれば嬉しかったけれど、現実はそう簡単ではない。
気付かれないように肩を落とす。三川花祭の開催に先駆けて、神子から手紙をもらって稲妻へと旅立った。その前にキィニチと会ったのを最後に、顔を見ていない。近況報告の手紙を重ねたとしても拭いきれない気持ちはあるものだし、キィニチの歪みのないていねいな文字だけでは彼の心情はうまく読み取れず、心の欠けた部分は埋まらなかった。
ナタに戻ると送った手紙にもまだ返信がなかったので心のふちが頼りなく歪むような心地だ。
「なあなあ、どうせなら、今日はここに泊まろうぜ?」
私の気持ちを知ってか知らずか、口早に、目を輝かせながら言い出したのはパイモンだった。以前、マーヴィカにご馳走してもらった食事をもう一度食べたいのだとウキウキした様子で言う。空も、私と同じでそんなパイモンには弱い。
顔を見合わせて少しだけ財布の心配をして、けれど呆れたふりをして頷くまでにそう時間はかからない。頑張ったあとのご褒美って大事だと思うからだ。勝手な期待に対しての落胆分くらい、取り戻したっていいはずである。
そうして空腹を満たして、空とパイモンと共に宿屋で眠りについた……はずだったけれど、どうにも目が冴えてしまい何度も寝返りを打ちながら、キィニチのこと考えた。それから、しっかりとあたためたベッドから離れる決断をするに至る。
普段ならばそんなことはしないのに、こんな行動に出てしまうのはここが懸木の民の集落だからだろうなと思う。ほんの小さなものだけれど、まだ、期待のかけらを胸に抱えているのを否定できない。
夜の散歩は好きだ。いつもの賑わいが消えたその場所の、異なる表情を見ることができる。しんとした空気が、肌にやわらかに触れる。今日がすこし恋しくなり、明日が待ち遠しくなる。
集落の中で自分の呼吸と板張りの床を踏み締める音が一番大きく聞こえる。ところどころオレンジ色の明かりが照らしているけれど、人の姿は、よくも悪くも見当たらない。
散歩にはもってこいだと、ゆっくり足を前に出す。私とは違いしっかりと睡眠に身を委ねている誰かを起こさないように、宿屋から集落をぐるりと回るルートを辿るために。眠れない夜の散歩を理由に、キィニチの家に寄り道をして顔を見れたなら。
——けれど、それは乱入者によって突如切り上げとなった。集落の入り口あたり、突然背後から強い力で手を引かれ、お腹に腕が巻き付いたので体が跳ねる。
「ぇ、ちょっ……!」
悲鳴を上げかけて、すんでのところでそれを堰き止めた。
宿から抜け出したことを後悔したのも束の間、覚えのあるかすかな香りと抱き止めようとする手のひらの感触、温度に気付いて、瞬く。反撃に出ようとしていた手をゆっくりと下ろす。不安と期待を同時に満たしながら、その名前をなぞった。
「…………キィニチ?」
声の余韻だけがわずかに残る。言葉ではなく抱きしめる腕に少しだけ力が入ることで返事がなされた。けれど、どうにも要領を得ない。
普段であれば、相手の意図を汲んで動くキィニチが、それを放棄している。名前を呼ぶたび、腕の力だけが強まるので埒があかない。
その仕草と見える範囲の容貌で、呼びかけが間違っていないのだと認識する。
「あの、顔が見たいんだけど、……いい?」
久々の再会なのだから、しっかりと向かい合いたい。そっと声を出すと、ほんの少し力が緩んだので向き直ってみれば、やはりそこにいたのはキィニチで。けれど、どこかぼんやりとした表情を湛えており、ひどく疲弊しているように見えて目を丸くした。こんなにわかりやすく、自分の不調を露わにするところをはじめて見た気がする。
——普段は、たぶん気を張っているのだと思う。なるべく、誰かに弱みを見せないように。
いつもより乱れた前髪を手で掬ってやると、朝焼けのような瞳には雲が掛かっていて覗き込むと数秒遅れて視線が結ばれる。
「えっと、どこか怪我でもしてる? 具合が悪いとか?」
ここまで一言も口を開かないので、ぺたぺたと無遠慮にキィニチの体に触れてみるけれど、おかしなところは見当たらない。ところどころ土や血で汚れたようではあるけれど、本人の怪我には繋がらない様子にほっと息を吐き出した。
キィニチはされるがまま、頬についた汚れを拭う指先にやわらかに瞳を細めるので心配と同じくらい、じんと痺れるような心地が触れた先から胸を襲う。そんな場合じゃないと思いつつも、ぎゅっとくちびるを結んでおかないと見せられない顔になりそうだ。
なのに、そんな私の抵抗を笑うように、キィニチが先ほどと同じように肩口に顔を埋める体勢を取ったので困ってしまう。
探るみたいに、背中と腰に回された腕が私をぎゅっと引き寄せるので、その雰囲気に堪らなくむず痒くなって口を開く。
「キ、キィニチ……?」
すると、そこでやっと、キィニチが小さく頭を振る。まるで私たちの間に時空の歪みでも生まれているかのような時差回答だ。
「……いや、怪我はない。大丈夫だ」
「大丈夫な訳があるか!」
「うわ、アハウうるさ」
深夜の静寂も、仄暗い視界も、どちらも切り裂くように現れたのはアハウで、私の言葉に火がついたように怒り始める。
「この俺様の有難い言葉をこの腑抜けは聞きやしねぇ! その上、お前までうるさいとは何事だ!」
「ごめんって……でもアハウ、夜だからもうちょっと静かに喋って……」
「ハン、烈炎の国の至高なる領主の言葉を賜れるなら、臣民たちはわらわらと起き出してくるだろうよ」
「それが迷惑だって言ってるんだけど……ぅわ、」
きつくなる腕の輪が、接地面をなくそうとするみたいに動く。まるで、駄々をこねる子どものように、意識を向けさせようともがくみたいに。
「あーあ。腑抜けもここまでくると笑えてくるぜ」
「……いつもと様子が違うんだけど、なにかあったの?」
「ハッ! 別に、特別なことはなんにもねぇってのに自分の気力体力を見誤っただけだろ。全く、この聖龍の従者が聞いて呆れるぜ!」
饒舌に語るアハウは、そんな風に口では言いながらもキィニチの変化をつぶさに感じとっているようで、少し微笑ましくなる。
けれど、そんなことを口に出せば、それこそ寝静まっている人々が起き出すような事態になりかねないので口を閉ざす。それが最善の選択と言えるだろう。
「ったく、……そもそもお前のせいでこんなことになってんだ! この腑抜けは、お前が責任取って連れて帰れよ!」
「え、ちょっと……!」
普段なら、こんな言い草をすればアハウはしっかりとキィニチに閉じ込められているだろう。けれど、今日はその可能性が無に帰しているとアハウはしっかりと認識しているようで、苛立ちもそこそこに楽しげに鼻を鳴らしてどこかへ飛んでいってしまう。それは、キィニチにそんな余力がないことに他ならない。
肩口にぐりぐりと擦り付けるように額が当たっている。キィニチは弱みを人に見せることはせず、いつだって自分一人で立つことができる。どちらかといえば、誰かの心細さを拾ってフォローできるような余裕すらある。だから。
(……私のせい、ってアハウは言ってたな)
その意味を考える。夜の静寂に混じって伝わる鼓動、首筋に触れる肌と息遣い。
たまらない気持ちになって、誤魔化すみたいにキィニチの背中を撫でる。ふっと息が落ちるように、ほんの少し張られた肩が下がったので私も同じようにすることができた。
とはいえ、影が落ちていると言ってもこんな集落の入り口で抱き合っているのを誰かに見られたら、ちょっと気まずいのではないかと思う。
私だったら、こんな場面を見たよと指摘されたら羞恥心で弱ってしまう。キィニチにとっては、なんともないことだろうか。普段、人前で私たちが触れ合うようなことはほとんどないので、その辺のキィニチの感じ方は分からないけれど。
少し息を深めに吸って、言い聞かせるように口を開いた。
「とりあえず、家に帰ろう。ね、キィニチ」
「に、」
ね、そうしよう。と言い含めようとして、キィニチがぽろぽろと溢れるような声で口火を切るものだから閉口して耳をそば立てた。
私のなけなしの勘が、これは聞き逃してはいけないと告げているから、夜の闇に溶けていかないようにしっかりと掴みたい。
「——会いたかったんだ」
じわっと空に月明かりが滲むのと同じように、心にじかに触れるような声だった。キィニチが私の背を強く抱き込むので、ぐっと息を詰める。痛いくらいの力が心地よく感じて、その一言が胸にじんわりと沁み込んでいく。
この言葉を聞けただけで、今日、この夜に踏み出してよかったなと思えた。私だけが寂しさを覚えているわけではなく、ちゃんとお揃いの気持ちがあったこと。
忙しなく過ぎていく日々の中で、心に浮かべるのはただ一人なのだと、知ってほしいと思う。この静寂の端っこに火を灯すように想いを込めて、硬いその背中をゆっくりと撫ぜた。
「私も、……キィニチに会いたかったよ」
私がそうしてもらっているように、キィニチの心の芯まで届いてあたためることがあればいいなと思う。なんて、丸ごと言葉にするにはちょっと照れくさい。けれど、冷たさを伴う夜にキィニチをくるりと包んでくれればいいとも考えた。
そうして、いくらかそのまま体温を分け合っていた。けれど、ふと我に返るとやはりどうにもむず痒さが残る。だって、浮かれている自分を目の前に突きつけられているようなのだ。
羞恥心をどうにか誤魔化そうと「それじゃあ、帰ろっか」と言いながら改めて髪を撫でれば、少しの間をおいて了承が届いた。背を正したキィニチがこちらをじっと見るので、なにかと思えば手のひらにやわやわと触れられる。
「も来てくれるのか」
「え?」
「……まだ、もう少し一緒にいたいんだが」
言葉尻に向かうにつれ、視線が下がり伏目がちになった。それに反して、しっかりと指を絡めて繋がれた手があって、思わず閉口した。拒否権なんて、ないじゃんね。
自然と笑みが溢れると、キィニチにはじとりと睨まれたけれど、どうにも止められそうにない。
だって、普段あまり心の隙間を見せないキィニチの、寂しさの欠片だと思うとかわいくてしょうがない。