可愛い子には狩りをさせよ
無防備な姿を見ると、無性に腹立たしくなる。誰にでもこんなふうに隙を見せているのだろうかと考えてしまうのだ。とはいえ、腹を立てるのもお門違いであることは十分わかっている。
だって、私たちの関係は、お互いのなにかを縛れるようなものではないからだ。自分の気持ちとの付き合い方は、いつだって難しい。
◯
塵歌壺を、自宅のように思っているところがある。
空から、自分だけの棲家を作ってみたらどうか、と提案されて一軒の家を建てた。思っていたよりも居心地がよく、今日も自分だけの隠れ家に帰ろうとしていれば、マルがにこやかに私を呼び止める。
「お友達がいらしてますよ」
その来訪者が「キィニチ」だと聞いたときは少し驚いた。彼がここを訪れるのはいつも約束をした時のみだったから。「いつでも来ていい」という少しの下心を含んだ言葉を伝えても、ふらっと立ち寄るようなことは今までなかった。
なにか用事でもあったのだろうかと帰路を急ぐ。胸に抱くのは驚きから嬉しさにすでに変わっていて、足は軽快に先へと進んでいく。
人間の一番まっさらな姿は、眠りについている時ではないだろうか。
お気に入りの窓際の一人掛けソファで、キィニチがすやすやと眠っていた。普段のしっかりした様子が抜けた寝顔は少しだけ幼くて、ガラスから入ってくる陽射しが頬にかかってきれいだと思う。
めずらしいことだ。けれど、ここを我が家のように感じてくれている証拠なのだとしたら、とても嬉しい。キィニチは、滅多に他人に隙を見せない野生動物みたいなところがあると思う。そんな人が心を解いてくれているのかと思うと、口元が緩んでしまう。
キッチン横のテーブルに荷物を置いて手を洗って、キィニチにそーっと近づいた。会話中に相手の顔をこんなにまじまじ見ることなんてない。だから、まつ毛が長いなとか頬が滑らかそうだなとか改めて思いながら、じっと見つめてしまった。
すると突然、はっきりと意思を持った瞳とかちあって心臓が大きく跳ねた。
「うわ! いつから起きてたの?」
「悪い、留守中に。気付いたら眠ってた」
「それは全然いいんだけど……」
「起きたのは今、ちょうどだ。さすがにここまで視線を感じれば、の気配だったとしても起きる」
「ごめん、すごい失礼なことしてたね。珍しくてつい……うん」
ちょっとだけ笑みを含んだキィニチの言葉に、咎めるような色は見られない。ただ、さらっと流してしまったけれど……私の気配じゃ、起きないくらい安心してくれてるってこと? いやいや、それはない。
キィニチにとって何気ない言葉だとしても、私にとっては致命傷になりうる。だから、もっと考えて発言してほしいと思う。受け取り手の認識次第で曲解されてしまう、ということを自覚せずに口に出すのはいただけない。
こうやっていろんな人を、自覚ゼロで口説いて回っているのではないだろうか。そう思うと、心配と腹立たしさが綯い交ぜになる。
自覚のない人間はタチが悪い。そんなことはわかりきっているのに視線が逸らせず、胸の中に棘が生まれてきて呼吸するたびに痛むのだ。
「どうかしたのか?」
不満に口を歪める私に、キィニチはなにも知らない顔で不思議そうに問い掛けてくる。
「な、なんでもないよ」
「そうか? ならいいんだが……そういえば、から甘い匂いがするな。今日は何をしてたんだ?」
「ああ、それはね……カチーナと一緒に作ってたんだ、ちび竜ビスケット」
テーブルの上の荷物の中にあった小さな紙袋からビスケットを取り出してみせる。はじめて作ったということもあり、カチーナが作っていたものとは比べるまでもなく下手くそだった。いま、私が外に出しているユムカ仔竜のそれは、健闘の甲斐あって少しはマシに整形された今日の成果である。それでも、仔竜の顔が福笑いみたいになっている。
かたちは少しいびつでも、込めた気持ちと味自体には問題ない。むしろ、生地の方は甘くておいしい。ショコアトゥルの種のおかげでバターの風味にさらにコクが出ていると思う。
「かなり頑張って練習したんだけど、顔を作るのが難しすぎるよ。ナタの人は器用だね」
「みんな、小さい頃から家で作ってるだろうからな、慣れてるんだと思う」
「まあ、これは売り物じゃないから、別に美味しければいいんだけど」
「カチーナと練習までしたってことは……これは誰かに渡すのか?」
先ほどまで軽快に話していたのに、声がワントーン下がる。どこかピリッとした雰囲気すら感じて、私の不恰好な練習作をナタ人に提供するなんて許されないぞ、と言われている気分になる。
「あ、ううん、もともと誰かにあげる予定はなくて……けど、空たちにはあげようかなって。パイモンなら絵柄はあんまり気にしないだろうし、あとは自分用かな。結構たくさんあるんだよね」
キィニチは「そうか」と少しだけ声にあたたかみを取り戻して頷いた。ナタ人にこのレベルのものをあげちゃダメだとしたら、キィニチにも渡せないということと同義だ。
練習と称して作り過ぎてしまった感は否めないので、いま一緒に食べるのはどうだろうか、なんて思ったけれど、ダメっぽい。消費役はパイモンに一任するしかなさそうだ。
肩を落として袋にビスケットを戻そうとすると、キィニチの視線がずいぶんと熱心に突き刺さってくる。
「そんなにたくさんあるなら、俺がもらっても困らないってことか?」
「え? ナタ人にこのレベルの品を提供したら怒られるんじゃないの?」
「誰もそんなこと言ってないだろ」
たしかに言葉として発されたわけではない、私の想像ではある。なら、なんであのタイミングでピリッとしたのか教えてほしい。
「念のため一枚食べてみてもらって、口に合いそうなら持ってって」
「わかった、それでいい」
じゃあ、とビスケットを差し出したのに微動だにしない。かわりに、じっとこちらを見つめるので、なにかと思えばうすくくちびるを開けてくる。
「えっ」
これは、食べさせろ、ということ?
「くれるんじゃないのか?」
これは、食べさせろ、ということ!
あのキィニチに? 手ずからビスケットを口に運ぶってどういう状況なんだろう。今日はキィニチの無防備さに拍車が掛かっていて、最初からどこか普段と違う気がする。
混乱をよそに、キィニチは「まだか?」と急かしてくるので、腹が立ってくる。誰のせいで!
もう本人がいいと言っているんだからいいのでは?とビスケットを運び、くちびるにくっつけた。
すると、キィニチは眉を顰めて、そして。
「ぇ、あ、えっ」
ビスケットはひとくちで、キィニチの口の中に吸い込まれてしまった。一口が大きいな男の子だな、みたいな感想を抱いていたら、——指までいかれたのだ。
ビスケットを持っていた私の指まで齧り、そしてさらにぺろ、と指先舐められたので今度は「ひぃ!」と言う悲鳴が自然に引き出された。
キィニチが指を含んだままくっ、と喉を鳴らすので、面白がられていることがわかる。喜怒哀楽の波に高低差がありすぎる。
手を引けばすんなり解放された指、キィニチはサクサクとビスケットを咀嚼した。
「甘いな」
そりゃそうだ。ビスケットには砂糖がたっぷり入ってる。それよりも、人の指まで齧っておいて平然と感想を口にしないで欲しい。
「か、齧った」
「そうだな」
「追加で舐めたよね!?」
「お前が悪い」
「え、わたし!? 希望に沿っただけなんだけど」
「せがまれたとしても、野生の獣に手を差し出すやつなんていないだろう。には危機感が足りない」
「野生の獣って……」
森にいる見も知らぬ竜やイノシシに餌付けしようとしているわけではないのだから、比較対象がおかしい。
それに、そういう話なのであれば、キィニチの方がずっと誰かからの感情に対して無頓着だ。今日は特にそう見えるから、また少しだけ棘が刺さって呼吸が痛む。
「……それを言うなら、キィニチの方がそうじゃない?」
「俺がお前みたいに、誰にでもあんなことをするように見えるのか?」
「いや、それは……なさそうだけど……」
しているのではないか、という憶測はあれどそういった場面を見たことはない。それに、キィニチの本質を考えると、回答は〝しなさそう〟に尽きるのだけれどそれでは説明がつかない。
キィニチは顔のつくりはかわいさも残っているのに、まっすぐ見つめられると、何も言えなくなるような迫力がある。瞳が不満そうに歪んでいく。じっと見つめられると、心の中が強い力でかき混ぜられるようだ。
そして、先ほどの言葉の中には、暗に〝お前はやっているだろう〟と詰めるものがあることにようやく気付く。心外である。
「誰にでもあんなことしてるわけじゃないですけど!」
「だったら、さっきのはなんだったんだ?」
「いや、さっきのは相手がキィニチだし、強請ったのそっちじゃん」
「じゃあお前は、強請られたとしても誰にでも同じことをするわけじゃなく、俺だからしたんだな?」
「まあ、そういうことになる……?」
空とパイモンに言われたらやると思う、というのは話が拗れそうだから言葉を控えておく。わざわざ確認のために復唱されると気恥ずかしくなってきて、肌がほんのりと熱を帯びる。……これって誘導尋問じゃない? キィニチのいいように言葉を引き出されている気がするのだが。
彼は私の回答に満足したのか、ほんのりと口角をあげて頷いた。
「なら、今後は俺以外の人間に、今みたいなことはしないでくれ」
「そこは、もうするな、って言うところじゃない?」
「それじゃあ困るからな」
「誰が困るの?」
「俺が」
……俺が? その真意を問おうとしたところで、手首を掴まれてキィニチの方に引かれた。触れる手から、私をていねいに扱おうとする意思も、逆に離してやるものかという意思も感じる。
導くような力のせいで、キィニチの膝に乗り上げる体勢になってしまう。あまりの距離の近さにソファの縁にもう片方の手をついた。抜け出そうとしても敵わず、大剣使いだけあって力が強い。
二人分の重みでソファがぎしり、と低い音で鳴いた。
「ちょ、ちょっと。潰しちゃうって!」
「が倒れ込んできたくらいで潰れたりするほどやわじゃない」
「そういう問題じゃ、」
「むしろ、お前はこうすれば振り解くこともできない」
掴まれていた手にもう一度力が込められ、下に引かれると重力に則ってしまう。支えていたはずの手も縁から滑り落ちて、キィニチの胸元で鼻を打つ結果になり「うぐ」とくぐもった声がこぼれ落ちた。
言葉の通り、キィニチは私の重みで潰れもせず、余裕そうな声で続けた。
「こんな風にされることを想定してないってことだろう。だから、警戒心がないって言ったんだ。塵歌壺の中とはいえ、家に鍵をかけていないことも含めてな」
「でも、ここに来れるのは信頼できる人だけだし、」
「その〝信頼ができる人間〟に、今こうされているのにか」
腰に手を回されて、ぐっと引き寄せられる。視線を上げると、ずいぶん近くにキィニチのきれいな顔があって悲鳴を上げかけた。飛び退こうとしたけれど、その前から阻止されているので不発に終わる。
なにが始まったのかわからず、ただ強くなっていく心臓の音を聞いていた。
「がしているのは、首輪もつけていない空腹の獣に、贅沢な食事をチラつかせるのと同じことだ」
森の木々に太陽を溶いたような瞳に、熱がうねっている。これは、だめかもしれない、すでに狙いすまされていて、逃げられない。
おかしい。これじゃあ、私が無防備であることにキィニチが腹を立てているように見える。
「ど、どうすればいいの」
「首輪をつければいい、の手で」
遠回りな告白みたいだ。冗談を言われているわけではない、というのはわかる。
キィニチに狩られるかもしれない、などと思っていた。けれど、ひょっとすると狩りをさせられているのは私なのかもしれない。キィニチは私がそうするように手招いているのだ。
「……懸木の民は自由に憧れてるんじゃないの?」
キィニチの言葉は〝束縛されたい〟というよりは、〝お互いを縛ることができるような関係性に名前をつけたい〟という意味だと受け取った。けれど、このまま頷くのは癪だった。だって、揺らされた心の分、キィニチにだってそうなって欲しいという欲が出る。
「俺は、欲しいもののためなら、必要な代償くらい支払う」
すり、と首元を何度か指先でくすぐられて身動ぎする。攻撃性を潜めていた瞳がやわらかく撓む。焦れたように名前を呼ばれて、きゅっとくちびるを結ぶ。渡す言葉を選ぶためだ。
「……なら、キィニチもそうやって無防備でいるのは、私の前でだけにしてね」
「ああ、元々そのつもりだ」
「まあ、俺は今までも以外にこんなことをしたことはないんだが」と追加で言うので余計だ。負けじと返そうとしたけれど、一瞬で呼吸を持っていかれてしまう。
どこかほっとしたような、嬉しそうな、今まで見たことないほのかな笑みが木漏れ日みたいにこぼれたから。そんなふうにされると、自分の内側からときめきが嵐みたいに襲ってきそうでこわくなる。もうちょっと手加減を覚えて欲しい。
「ああ、でも、やっぱり鍵はちゃんと掛けてくれ。心配になる」
「掛けるようにはするけど、そんなに心配しなくてもみんないい人だよ」
「だが、心の中なんて誰にもわからない。俺と同じようにお前を想っている人間がいるかどうかなんて、にはわからないだろう」
現に、俺の気持ちだってわからなかったんだから。そう言われてしまえば、首を横に振ることはたしかにできない。
けれど、そんなに簡単に都合よく、自分に好意を寄せる人間が現れるとも思えなかった。そんな思考を上書きするみたいに、キィニチは真剣な声色で言うのだ。
「それに、二人でいるところを邪魔されたくもないからな」
卑怯だ、と思う。こんなの、ぐうの音も出ずに完敗してしまう。もう白旗を上げるしかない。どんどん火照る頬を隠したくて、私たちの間に手のひらを差し込む。けれど、そんな些細な抵抗はキィニチの手で簡単に収められてしまった。
「隠さないでくれ」
空気が、ちび竜ビスケットよりも甘くなり始めている気がする。キィニチが私の名前をていねいに呼ぶと、胸の奥の方からじわじわと溶けていくような気持ちになった。
少しずつ、きれいな瞳が近づいてきている気がして、やっぱりもうだめかもしれないと思った。魔法にかかったみたいに瞼が落ちる。
——けれど、そんな空間を割く流星のように、ヤツがかっ飛んでやってきた。
「オイ、お前ら! 吾輩をいつまで寒空の下で待たせれば気が済むんだ!」
流星もとい、アハウだった。鍵を掛けずにいたことで、アハウは器用に部屋の中に入ってきた。たしかに今日はアハウがいないなと思っていたけれど、このタイミングでの登場は想定外すぎる。
強い感情を表情に灯したキィニチが、大きく息を吐いた。これに関しては戦犯は私である。ごめんね、と思うと同時に自分の心臓が形を保つ手段を得て安心する。
「……ほらな。が鍵を掛けないせいで、侵入者がやってきた。しかも最悪のタイミングだな」
「ご、ごめん」
「なんだチビニチ! 外に出ててやった、この慈悲深きクフル・アハウになんつー言い草だ!」
赤い風船みたいに膨らんでアハウが怒る。こういう時は貢ぎ物(という名の食べ物)を渡しておけば、大概が丸くおさまるだろう。量もあるし、ちょうどいいものがある。
「まあまあ……アハウ、ちび竜ビスケットあげるから機嫌なおして、」
「ダメだ」
立ち上がろうとしたのに、腰に巻き付いた手にまたしても阻止された。拗ねた口調で跳ね除けるように言う。
「あれは俺がもらうからダメだ」
「はは〜ん、お前ら……やっとってことか」
にやにやと笑い、深みを持たせた聖龍が私たちの周りを踊るように飛び回る。鬱陶しそうにキィニチが眼光鋭く睨むけれど、アハウはそんな視線をものともせずに口を開いた。
「よかったなあ、キィニチ。毎晩、なかなか寝付けずに〝に意識されてないかもしれない〜、どうしたらいいんだ〜〟なんてベソかいてたのに、もう見れなくなると思うと清々す、」
ポップな機械音が部屋に響き、アハウはまた閉じ込められてしまったようで姿を消した。けれど、ほぼ最後まで言い切っていたので、閉じ込めることに意味があるのかは不明だ。更なる追撃は避けられるのかもしれないけれど。
ただ、アハウはいつもあることないこと喋るので、情報の信憑性は低い。いやに静かになった部屋。不思議に思ってそろそろと視線を動かして、瞬いた。
「え……キィニチ、もしかして、」
「…………なにも言わないでくれ」
キィニチの胸元に手を置いて、そっと顔を覗き込む。
夕暮れの実を絵の具に溶かして塗ったような肌だ。そして、いまさらながらに気付く。手のひらの下で脈を打つ心臓が、私にも負けず劣らず強く早く走っていること。
さっきまではあんなに強気に出ていたのに、心が翳って不安に揺れる夜があったのだろうか。キィニチからの回答は期待できないけれど、たぶん、いま目の前にいる彼がその答えそのものなのだ。
心臓がぎゅうっと掴まれるみたいに震えてる。キィニチが熟れた頬を隠すように手のひらで顔を覆う。
けれど、はやる気持ちを抑えられそうにない。先ほどキィニチがしたように、私もキィニチの手のひらに触れる。
「隠さないで、ぜんぶ見せてほしい」
これは先ほどしてやられてしまった、私の小さな仕返しである。まるく零れそうな瞳が、熱を残しながらもやわらかに揺れるのを見ていた。
無防備な姿を見ると、無性に腹立たしくなる。こんなふうに隙を見せるのは、私の前だけにして欲しいと思うから。けれど、それはお互いさまだったんだって気付く。
惜しみなく晒され色付いた頬も耳の縁も、ちょっと弱った心の一部も。キィニチが見せるめずらしい表情に、一番はじめに気付けるのは私であって欲しい。
そう、わがままに願っているのを許してほしいと思う。