とろり、いちばんぼし - 02



 反社会的組織に定時っていう概念はあるのだろうか。幼馴染ふたりの顔を思い浮かべて、あってもなくても好き勝手に始めて好きに終えそうだなと思った。
 悪の組織になんの関連もない、私は一般企業に勤める一般的なOLである。基本的には平日九時十七時半の良心的な所定労働時間で仕事をして、必要があれば残業をこなして土日祝日はお休み。
 私の人生は一部——幼馴染が反社会的組織の幹部であること——を除いて平凡なものだ。
 人にはそれぞれ相応の立ち位置がある。一般人の私は、札束のプールで泳いだりはできないけれど、その代わり仕事帰りに買い食いするコンビニのホットスナックに心躍らせることができたりする。
 それでも、社会人経験を少しずつ積み上げて中堅と呼べる立ち位置になった最近は、ちょっと大きめのプロジェクトを任されている。同期の男の子と私、二人三脚で進めるプロジェクトはしんどさもあるけれどやりがいがある。頑張った分だけ成果が出るというのは、やる気にも嬉しさにも直結するのだ。
 ——それに、「忙しい」が全てを断ち切る理由になる。大義名分があるとこんなにも気持ちが楽になるんだなと思う。

 「なんね兄貴といんの?」不在着信。「オレとも飯いこーぜ」不在着信、不在着信。「オイ、なんかあった?」不在着信、不在着信、不在着信。「オマエ、既読になってんの見えてんだよ! 返事しろやオラ!」不在着信。「これでも返信しねぇワケ? オマエどうなるかわかってんだろうな」不在着信。

 蘭ちゃんとご飯に行った日の夜から、朝も夜も関係なく大量のラインや着信の通知が入るようになった。全て竜胆からで、最初のうちは目を白黒させてしまった。最初のメッセージなんて誤字まであるし、方言かと思った。
 それにしてもこの男、最悪だ! なんでこう、今度こそ諦めるぞと腹を決めようとした時に限って、熱心に連絡を入れてくるのか。ホストの営業に引っかかっているような気分になる。うまく繋いでおくためのタイミングのいい連絡。私は竜胆にお金を落としておらずどちらかというといつも奢ってもらってばかりなので、立場としては逆なのだけれど。
 というか、メッセージの合間に必ず着信を挟むな、メンヘラ彼氏か! 最後の方なんて、今までの経験値がわかりやすく言葉遣いに出てきてしまっている。反社こわすぎ。
 でも、今の私は仕事が忙しいので。私はこの決意を今回こそ曲げたくない。ラインのメッセージに既読をつけて「ごめん、仕事忙しい」の返事のみを打って画面をオフにする。
 仕事終わりの金曜日二十一時。プロジェクトが軌道に乗っている今、社内のさまざまな部署を巻き込んで調整をしたり、社外の協力会社との要件確定が大詰めだったりとてんやわんやだ。
 足並を揃えて頑張っている同期の松井くんも然り、くたくただ。なんでも自分で動くのは簡単だけれど、誰かに動いてもらうのってすごく難しい。
 重たい足を引きずって二人でフロアを出た。エレベータの下りボタンを押したら、一週間が終わったって感じがする。

「はあ」
「お疲れ、今日も結構大変だったね」
「そっちもおつかれさま。会議の時フォローありがとうね、すごく助かった」
「いや、俺が担当してる範囲だったし、当たり前でしょ。にもいつもフォローしてもらってるし」

 さらっと言う松井くんは本当にいいやつだと思う。同期の中でも有望株で名が通っていて、同じ部署の後輩の女の子からは「松井さん、なんでも卒なくできてホントかっこいい!」「この前、上司に怒られてたら間に入ってくれた、好きすぎる」と評判だった。
 そんな人と並んでプロジェクトを任されるというのは、ちょっとした誇らしさがある。

「まあ、今が踏ん張り時って感じだよね。終わったら飲み行こうよ、祝勝会ってことで」
「いいね! 私、お寿司か焼肉がいいなー。パーっと行こう」
「定番じゃん、いいとこ予約しよ」

 エントランスを抜けると、ひらけた道路には冬の匂いがする。冬が終わる頃にはきっとこのプロジェクトも収束に向かっているだろうなと思って、ご馳走は目の前だなと心が浮かれた。楽しみだね、と笑うと松井くんも「俺も」とはにかんでくれたので嬉しくなった。
 そうして駅に向かう途中、路線が違う松井くんと別れて晩御飯のコンビニ飯を思案している最中、事件は起こった。

「よお、。……んだよ、思ったより元気そうじゃん」

 ゆっくりと私の横を走る車がいて不自然だなと思ったけれど、よくあるドラマのように反社の幼馴染が車の中から声をかけてくるとは思わなかった。しかも一番会いたくない、竜胆の方が顔を覗かせたので「ひぃ」と声が漏れてもしょうがないものだと思う。

「ひぃ、ってなんだよ。つーか、なんでオマエ、あれしか連絡返さねぇんだよ。電話も何回もしたじゃん」
「ご、ごめん。仕事が忙しくてあんま見てなかった」
「こーやって捕まったからまあいいけどさぁ……てか、」
「うん? なに?」
「……なんでもね。よしじゃあ、乗れよ」
「は?」
「連行」

 その言葉は、拒否権を行使できない絶対的なものだった。傍若無人な幼馴染、それでも竜胆の方はまだ融通が効くけれど、このトーンはマジだと長年の経験でわかる。逆らったっていいことがない。
 素直に助手席に乗れば、ふわっと香る竜胆の香水に胸が詰まる。片想い中に、気のない相手とふたりきりになりたくない場所ベストスリーに入ると思うな、相手の車の中。意識したくなくても、刷り込まれるみたいに気持ちが揺らぐ。
 そんな私のことなんて梅雨知らず、竜胆は車を進める。行き先は、まだわからない。

「忙しいって言ってたけど、いつまで続くんだよ」
「んー……一応三月くらいまで、かな。でもその後も結構忙しいかも。任される仕事増えてるんだよね」

 プロジェクトの終わりが目処ではあるけれど、そう素直に言う必要もない。保険を掛けるみたいに言えば、竜胆はこちらを見ずに眉を顰めた。綺麗な顔はフロントガラスに映ってもきれいだ。

「さすがにさあ、……傷付くんですけど」
「え?」
「だぁかぁらぁ、連絡だよ。オマエ、避けてんの? 幼馴染にシカトされ続けてる身になってみろよ。兄貴だってもうちょい返す」
「蘭ちゃんとは一緒に住んでるんだし、連絡取り合うタイミングなんてあんまり関係ないじゃん。一日の最初と最後は一緒でしょ」
「そういうこと言いたいわけじゃねーの。、一日一回は返信マストな」
「……なにその束縛彼氏みたいなセリフ」
「は? 人間関係のジョーシキだろ。つーか束縛するならもっと縛るだろ」

 反社の男に常識を語られるとは思わなかった。避けてます、と素直に言うこともできず、少し揺さぶってやろうと思った言葉も効き目がないので本当に嫌になる。この恋の感触と、竜胆の要望がマッチしなくて私だけが首を絞められている。なんでこんなことに。

「返せる時はなるべく頑張ります」
「絶対だっつーの」

 やっと少しだけ機嫌が上向きになった竜胆が慣れたように左折のウィンカーを出してPマークの横を通り抜けて地下に潜る。「着いたぜ」と車を止めたのは誰でも名前を知っているホテルの地下駐車場で、一瞬だけ、息を止めてしまった。

「え、待ってまってここって、」
「あー、飯まだだろ? 時間も時間だし普通に食うのはキツいだろーから軽くなんか食ってこうぜ」
「ご飯はまだ、だけど」
「だろ? ここラウンジもバーもあっから、まだ時間も平気だし。帰り送ってやるから心配すんな」

 ここ一番の困惑顔を披露していれば、竜胆がわざわざ助手席のドアを開けにきたので更にびっくりの色まで重ねてしまった。まるでエスコート、みたいな。
 ほら、と降りる際も手を差し出されるので、竜胆の顔と見比べてしまう。幼馴染由来の気軽さは見えるけれど、今までなかった出来事に胸がぎゅっとする。

「ご飯食べるのにホテルとか、……びっくりしちゃったじゃん」
「……なんだよ、勘違いでもしたか?」
「し、てない!! 勘違いってなに!? 一般人のペーペーOLはホイホイこんな高級ホテル来ないからね!」

 一般のOLの事情は分かったもんじゃないが、少なくとも私は。反射的に竜胆がいじわるく瞳を細めたので、自分の傷つきやすいところは早急に隠すべきだ。ガードの姿勢を取るのに、遅いことなんてない。
 こういうところに、想いの置き場のなさを感じてひとりで苦しくなってしまう。エスコートがなくたって、私は一人で立てるんだって証明するみたいに竜胆の手を取らなかった。こういうところが、かわいくないから選ばれないのかもしれない、けど。

「なんだよ、かわいげねーやつ」

 地下からエレベーターで高層のラウンジ階まで上がる中、竜胆がぽつりとつまらなさそうに零すので少しカチンとくる。笑い飛ばせばいい場面でも、そんな余裕がないくらいすり減っているのが自分でわかった。

「そりゃ、竜胆が相手にしてきたかわいくて美人な女の子たちと比べたら、そうでしょうよ。そこと比べるのはなくない?」
「はあ? そう意味じゃ、」

 チン、と古めかしい音でエレベーターが到着を告げて、ついでに竜胆の言葉を齧りとった。じゃあどういう意味ですか、なんて低レベルな言い争いすぎて聞く気にならない。私、かわいげってどこに置いてきたんだろう。
 エレベーターを降りてそろっと竜胆を見遣るけれど、顰めっ面で何かを考えているようだった。名前を呼ぼうとすると、

「竜胆?」

 私じゃないソプラノが幼馴染の名前をきれいに形にする。それと同時にぴしりと音がしそうな様子で竜胆が動きを止めたのがわかった。
 その反応から反射的に音源を探すと気の強そうな美人が目を丸くしていて、その後はぱあっと芽吹くみたいに笑顔をこぼした。「やっぱり、竜胆じゃん」の言葉は気安さに満ちている。

「やだ、すっごい偶然。一昨日も会ったのにまた会えちゃった」
「……マジ? こんな時間にここで何してンの?」
「ふふ、今日はちょっと時間があったからそこで飲んでたの。せっかく会えたんだから、竜胆このあと時間ちょうだいよ」

 ほら、もう最悪だ。彼女は当たり前みたいに寄ってきて、あるべき場所に収まるみたいに竜胆の腕に自分の腕を絡めてしなだれる。

「ね、竜胆。そういえばその人、誰? 知り合い?」

 軽く跳ねるような口調なのに、確実な敵意で刺しにきている。値踏みするような視線は初っ端にその役目を終えていて、彼女にあるのは自分より価値の低い女を嘲笑う視線。それでも、自分の男とこんな時間にこんなとこで何してるんだっていう警戒心を忘れない。
 私には、ここ一番で戦える度胸もステータスもなかった。ワールドイズマインなお姫さまと、自分の世界だけで精一杯なOLで勝負になると思う? ないない、答えが明白すぎて言葉もない。
 竜胆がなんて答えるのか、だいたいわかる。うまく躱わす。自分の言いたいことを口にするのはきっと簡単なのに、私のほしい言葉を竜胆に言わせることはとても難しい。

「……コイツはちょっとした仕事の知り合い。ちょうどさっきまで商談があったんだけど、オレの見送りしてれたってワケ」
「そうなの?」
「そ、オレこれでもお得意さまだから。だからちょっと待ってて、仕事のハナシしてくっから」

 頬にかかる髪をまるで大切にしている恋人にするみたいに、耳にかけてあげる。もう、付き合っているのだろうか。
 昔喧嘩ばっかりで硬くなった手のひらは、こんなところではやわらかく使い分けられるらしい。「うん、でもはやくね?」と素直に見上げるかわいげが、あの人にはある。
 竜胆の発する言葉のひとつひとつが鋭利な刃物みたいに私を切りつけるから困ってしまう。一撃一撃が会心の威力で死にそうだ。

、わりぃ。……今度、埋め合わせする。ちょっと誤解されるとまずいんだわ。マジで、ごめん」

 色気のない絶妙な距離で耳打ちされて、気付かれないように歯を食いしばった。埋め合わせなんかいるか、金輪際ない、ばかやろう! 窺うような雰囲気に、どんどん自分がすり減ってもう底をつきそうだ。
 ——いかないでよ。今日は私と約束したじゃん。
 そう言って、スーツの袖口を引けたら。結局行き当たりばったりなだけで、約束なんかしていない。でも嘘だとしても私にかわいげがあれば、少しは竜胆の心を揺さぶれたかも。いや、それかせめて「そっちが誘ってきたくせに! 置いてけぼりとか最悪! この浮気野郎!」と喚けたらどんなによかったか。
 竜胆の焦りようを見て、ああ、この人が今の本命なんだと理解することは容易い。「じゃあ、気を付けてな」の言葉を皮切りに、私はもうこの二人の話の中から退場したのだ。既定のストーリーみたいに自然に竜胆が彼女の腰に手をまわす。

「なあオレも一杯飲んでいきたいんだけど、もう一回寄ってかね? 帰り、送ってくし」
「飲むのはもちろんいいけど、竜胆、その後帰っちゃうの? ……私ね、今日ここに部屋とってるの」

 これ見よがしに言われた言葉で、流石に踵を返した。エレベータが乗ってきたまま、下に降りていなくて助かった。はやく、はやく閉まれとボタンを連打した。
 だから、竜胆がその誘いにどう乗っかったのかはわからない、知りたくもなかった。もうどうでもよくなってくる。
 人にはそれぞれの立ち位置がある。それを履き違えるから、痛い目を見るのだ。唇を噛んだ。喉の奥がぐっと熱くなったけれど、いまは涙が出なかった。ただ悔しかった。
 私は本当に学びがない。何度も何度も見てきたことなのに、幼馴染の立場に縋っているなんてあまりに滑稽だ。こんなふうに蔑ろにされて、次がある女だって思われていること。いや、竜胆にとって女性枠にすら入っていない、都合のいい昔からの知り合い。

「……こんなんだと、いつ横から掻っ攫われるかわかんねェなあ」

 蘭ちゃんの言葉が呪いみたいに渦巻いてるの、わかってる。蘭ちゃんはやっぱりやさしくない。知ってるなら、もっとわかりやすく言っとけやい、ばーか。
 ホテルのロビーから出ると、さっきよりもしっとりと重い冬の空気が後ろをついてくる。無心で自宅の最寄駅に辿り着いて、コンビニで肉まんとチキンとおでんを買った。心の踊らない、こんな最低な気分ははじめてだった。
 立ち位置を弁えたって私は札束の中を泳げないし、高価なホテルには泊まれないし、楽しめるはずの些細な買い食いすら楽しめない。私の好きな人は、私のことを好きにならない。
 明日が休みでよかった。家に帰ったらゆっくりお風呂に浸かって泣き喚いて、もうこんな焼け残りみたいな気持ち、全部洗い流してくれよって。いもしない神さまに祈ってみたりするのだ。本当に、ばかみたいだ。