きみはアザレア - 01



 友人であれ恋人であれ、または家族であっても、最初から最後までその関係をきれいに保っておくことは難しい。すべてを開示する必要はないけれど、少しだけ心の内を相手に預けられるならば心地がいいとも思う。

 キィニチが「好きだ」と言ってくれたあの時から、いや、本当はもっとずっと前から。私たちの関係を保つ、ということがしやすいと感じていた。ともに旅を続けてきた空やパイモンとも異なる、ぴたりと自分の肌に馴染むような不思議な手触りの良さがある。
 ずっとそうやってキィニチが振る舞うので、彼はこの先もその調子を崩さず変わらないのだと思っていた。だから私はぜんぜん心の準備ができておらず、キィニチが今まで見せたことのない顔をしてこちらを覗き込むこの時も、ただ驚きを胸に抱いている。
 窮地に立つ、という言葉を恋人を目の前にして思い浮かべることは一般的なこと? そんなの、いったい何度あるのだろうか。
 しんと静寂が満たされた部屋の中で、白く清潔なシーツとキィニチが私を挟み込んでいる。太陽を溶かしたような瞳が、その光に反する感情をじっとりと蓄えてこちらを見ている。

「俺は、お前が思っているほど人間ができているわけじゃない」

 伏せられた長いまつ毛が、窓から入る陽の光にあたって影を落とす。キィニチが膝の方に体重をかけたことによって、木製のベッドフレームがぎしりと悲鳴をあげた。
 それはまるで、私の心中を表すかのようであり、キィニチの切なげな表情から発せられたものでもあるように聞こえた。


 今まで自分がいた場所とはまったく様式の違う世界に立っている。
 ある日突然、世界の境界線が混じって私はテイワットという地に放り出された。それはそれは、すごく困った。
 最初は生きていくだけで精一杯。だって、地図のどこにも日本の地名がないし陸地の形すら異なる。そもそも言葉はわかるのに文字が読めないし通貨は円じゃない。しかも、野生動物がそこら中にいたし、はたまたモンスターまで存在する。RPGゲームかよ、と心の中で少し笑って、心底泣きたくなった。どうしてこんな目に。
 明日があるかどうかすらわからない、不安な日があった。空やパイモンと出会ったから、命を繋いだと言って過言ではない。ただひたすらに幸運であり、私の生涯の運はここで使い切ったと思っていた。
 だから、誰かを好きになるとか、はたまた特別な関係を築くなんて思ってもみなかった。この世界の異分子である私にそんなイベントが発生するなんてこれっぽっちも考えていなかったのだ、この世界に落っこちた当初は。
 ——いまでも少しだけ夢うつつでふわふわ浮遊しているような気持ちになる時がある。
 私が見つめると、キィニチはほんのりとだけれど微笑んで「どうした?」と聞く。その声色はやわらかく、私の輪郭を辿ってくれる。
 それが、たしかに自分はここにいるんだという安心感を与えてくれるのだと、キィニチは気付いているだろうか。もらったものに対して、同等ではなかったとしてもそれと同じような温度を返せていればいいな、と思う。


 ——けれど、キィニチと恋人、という関係性に落ち着いてからいくらか経って、ふと違和感に気付く。ふつうの恋人同士ってどんなものだっただろう?
 〝ふつう〟なんてものは人それぞれの価値観や物差し次第で変わるものだし、こだわる必要もないのだけれど、ことこの世界の恋愛において私は自分の物差しがなかったので少しだけ不安になる。
 過去に一度だけ彼氏ができたことがあった。漫画でもドラマでも恋愛を題材にしたものは多かったので、ある程度お決まりの流れというものがあるのも知っている。当時、学校でも「誰が付き合った」や「もうキスしたみたい」なんて話が教室を飛び交うのは日常茶飯事で、私もよくある年頃の女の子としてその流れに乗ったことはあるのだ。
 だからこそ、キィニチと私の関係としてこれが正常なのか、と思い至った。でも、そんなふうに思うのは贅沢だろうかとも考える。

「キィニチって、ほんとうに私のこと好きなのかな」
「なに、今さら?」
「今さら、って……空から見て、キィニチって私のことを異性として好きじゃなさそうってこと?」

 塵歌壺の邸宅で朝食を三人でとっている際に、思わずぽろりと溢した言葉を空は見捨てずに拾ってくれる。トーストにベーコンとテイワット風目玉焼き、それからチーズを挟んで、チーズがとろりとするまで焼き上げたものを齧りながら空は呆れたように言った。

「そっちじゃなくて、まだそんなところを気にしてるんだって思って」
「だって、あまりにも前と変わらないから」
「変わらないのはいいことじゃないか? キィニチは前からずっとにやさしいとオイラは思うぞ」
「それが問題だと思って。付き合う前と態度が変わらないって、ある?」

 誰しも、関係が変わったのなら、それ相応の変化が伴うものだ。一歩踏み込んだ間柄になったのなら余計に。
 ——もしかしたら、キィニチは私に女性としての魅力を感じていない、のかもしれない。もしくは、そういった異性への関心が限りなく少ないタイプ。どちらもあり得そうで泣きたくなる。
 ふたりに対して、ことの核心を話すのは憚られた。だって、〝キィニチと恋人らしいふれ合いが一切ないんだけど大丈夫かな〟なんて、開けっぴろげに説明できるわけがない。ふたりだって気まずいだろう。だから、相談しておきながらこんな言い方しかできないのが心苦しい。

「でも、キィニチが適当に誰かと付き合うとかって、しないと思うし」
「それは、そうなんだけど」
「オイラもそう思うぞ。キィニチはすごくお前のこと大事にしてて、は心配しすぎじゃないか?」
「そう、……なのかな?」
「うん。とキィニチって、あんまり二人っきりになったりもしてないし、今度ここに来てもらって一緒に過ごせば?」

 ふたりでゆっくり話したらわかることもあるんじゃない?と空は言う。それもそうかもしれない、と私もまだあたたかいトーストを齧る。
 人の恋愛に首を突っ込んで、馬に蹴られたくはないというのが普通だろうに、付き合ってくれるふたりは優しいと思う。
 呆れ顔でいた空がこちらを見てふと笑顔を見せるのできょとんとしてしまう。まるで、子の成長を見守る親のような慈愛を感じるその眼差しに。

「なに?」
「ううん、がそういうことで悩めるようになってよかったなって思っただけだよ」

 ふふ、と空は笑う。一般的にいえば、悩みとよかった、という字面が並ぶことはあまりないのだろう。けれど、意図がわかって目一杯の想いが込められていると感じた。そんな言葉を朝からもらえたと思うだけで、今日一日が素晴らしいものになると予感させるから、素直にありがとうを伝えたい。