きみはアザレア - 02
思えば、「好きだ」とキィニチから聞いた時も、彼は自分で口にしたその言葉に驚いてすらいた。言うつもりなんてさらさらなかったのに、零れたという感じで。
驚いて、嬉しくなって、舞い上がり思わず「私もすき」と言った時のキィニチの表情といえば、アハウが今でも笑いの種にするくらいのものだった。(アハウがそれを話題に出す度に閉じ込められることになるのだけれど、あの聖龍は全くめげない)
キィニチの言う「好き」は、もしかしたら私と同じ熱量を持っているわけではないのかもしれない。例えば、友人としての親愛や仲間として好意的に思っているとか。それなのに、私が息つく間も無く同じ言葉を返してしまったから、キィニチは私が傷付くと思って本当のことを言わないのではないだろうか?
一度泥濘に足を取られてしまうと、ずぶずぶとその深みにはまってしまう。
けれど、空の言葉やキィニチのやさしさ、真面目な性格を考えると、同情で恋人同士になりそのまま関係を継続する、といった無責任な行動は取らないだろう。
キィニチの言葉と、あの時の表情を信じたい、と思う。あの朝の陽射しみたいにやわらかな眼差しを思い出すと、まとわりつく悩みはふっと霧散した。
◯
空からの提案を雛鳥のように実行してしまう自分をすこしだけ照れくさく感じる。本当に親のように思っているのかもしれない。なんといっても命の恩人なので。
「キィニチ、予定が空いている時に塵歌壺に遊びに来ない?」
キィニチに誘われてウィッツトランの麓を散策している。
ケネパベリーを摘み、寄越せと喚くアハウを諫めながら水辺のちょうどいい場所に腰を下ろした。ベリーに釣られてやってくるのは見知った聖龍だけでなく、ユムカ竜も同じできらきらした目で見つめられるとあげないという選択肢はなくなってしまう。
誘いを受けた当のキィニチはというと、目を丸くしてから数度瞬いた。人生ではじめて好きな人に声を掛けたような心地で答えを待っている。
スマートフォンのないこの世界の連絡手段といえば、専ら手紙になる。ナタには伝達師がいるため、情報の伝達は早い方だと思うけれどどうしてもタイムラグは発生する。だから約束はその時にしてしまわないと、次の機会を得ることが難しく、さらには期間を要してしまう。
いつもはキィニチがその言葉を用意してくれることが多かった。その時、どんな気持ちだったのだろう。私はというと、気兼ねない相手のはずなのに夏にやってくる全てを拐っていく嵐が来たみたいな心中だ。
キィニチは逡巡した後で「いいのか?」と神妙な面持ちで聞いてくるので、思わず笑ってしまった。
「もちろん。いいから誘ったんだよ。むしろ、空が提案してくれて。パイモンにも許可はとってるから、大丈夫」
「……そうか。じゃあ、次に会うときに」
ひとまず頷いてくれたことにホッとする。けれど、どこか違和感があった。私の言葉を聞いた時にキィニチの表情が僅かに歪んだような。
そう思って見つめれば、なんともなかったように「どうした?」といつもの眼差しを向けられるので、勘違いだったかと思い直した。心配や緊張もあって過敏になっているのかもしれない。
「ううん、なんでもない。あの、楽しみにしてるね」
「ああ、俺もと過ごせるのを楽しみにしている」
「オイ、。このアハウ様を招くんだ、どんなもてなしをするかちゃんと考えておけよ!」
「招かれたのは俺だ。お前は誘われていないだろう、図に乗るな」
「なんだと、このちんちくりん!」
「あはは、おもてなしの準備をしておきます」
了解の意をもって敬礼の真似をすれば、アハウは満足そうに鼻を鳴らしたし、自分も招かれたと思ったのかはたまたベリーのお礼かユムカ竜がペロリと私の頬を舐めた。
キィニチだけが、むっつりと黙り込んで腕を組んだ。その様子が珍しく、今日はいろんな表情が見れるなとすこしだけ嬉しく思っていれば、キィニチが舐められた頬を拭うように触れる。
それだけで跳ねる私の心臓が、頼りなくて参ってしまう。キィニチにもう少し触れてみたい、なんていうのは夢のまた夢なのでは、と熱い頬をそのままに思った。
次に会った時は、塵歌壺にお招きする。
キィニチに会うことが楽しみだったこともあり、それは案外早くやってきた。塵歌壺に入る前に、もう一度「本当にいいのか」と問いかけてくるので、彼にとって〝家〟というテリトリーを他人に晒すことは、かなりハードルの高い行為なのだと考えた。
けれど、私からすれば日々空やパイモンと過ごし、ある程度気心が知れた人間が訪れることは日常茶飯事なのだ。そう伝えれば、キィニチはまた、誘った時と同じような複雑そうな表情を見せた。
キィニチとの間に価値観の差があるのは仕方がないことだ。でも、そんなものはこれからいくらでも埋めていけばいいと思っていたから、そこまで気に止めなかった。
「以前も招いてもらったことはあったが、すごい場所だな、ここは」
「うん、私もそう思う。壺の中にこんな場所があるなんて、魔法みたいだよね」
フォンテーヌの景色を取り入れた様相は、水の中で生活しているような気分になる、外の景色は元の世界では決して見れなかったように思う。人魚にでもなった気分だ。
以前、キィニチを招いた時は空たちもいる邸宅の方だったと記憶している。今回はもう一つ別の「が自由にしていいよ」と言われている場所に招いた。大きな島の中にぽつんと一軒の家があり、植えた花やフルーツは元気に光を吸って大きくなり、池には外で釣ってきた魚が跳ねている。
一歩ずつ、キィニチへここに来てもらうことは難しいことじゃないと語るようにゆっくり歩いた。私の歩幅に合わせてくれるキィニチは穏やかな表情で相槌を打ってくれるので、ここに来てもらったことは間違いではなかったかもしれないと思えた。
部屋には小さなキッチンとテーブル、一人用のベッドなど生活に必要な最低限のものがある。まずはお茶を淹れようとキィニチに椅子を勧めて、今まで感じたことのない静けさの正体にそこでやっと気付いた。
「そういえば、アハウは?」
「あいつは来る前に閉じ込めてきた。出掛けにあまりに騒々しかったから」
「あらら、そっか。それは残念」
「……あいつが来ないことが、不満か?」
キィニチの声が、ほんの少しだけ低くなって私たちの間の空気を揺らす。不服かと言われれば、そんなことはなかった。ただ、アハウ用にいくつかフルーツを育ててみたので、感想を聞いてみたかっただけなのだけれど。
あまり表情を大きくは変えないキィニチだが、今はほんのりと不機嫌が滲んでいるように見えた。普段見せない感情の揺れを垣間見て、それが自分に向けられていることに瞬いた。その間も、表情はぶれずキィニチがその不服さを隠す気がないのだとようやく気付く。
まごついている間に、椅子に収まっていたキィニチはこちらに歩み寄り、私の手首を掴む。
「え、と。キィニチ?」
「……お前には、ずいぶん多くの拠り所があるんだな」
「え、」
小さな音だったのに、揺れのない水面に落とされたみたいにその言葉はよく響いた。意味を飲み下せずにキィニチを見ると、眉間をぎゅっと詰めふいと視線を逸らされた。普段はどんな時でもまっすぐにこちらを見るのに。
そんなキィニチらしくない様子に、どうすればいいのかわからなくなり、意図を汲めない自分に苛立ちすら募る。けれど、まるで自分はそこに入っていないかのような言い草にも、思うところがあったのも事実だ。そのことに私の方がすこし傷付いた。
「それって、どういう意味?」
「事実を言っただけだ。空やパイモン、アハウも、他の友人とやらも、が心を配る相手の多さに驚いた」
「そうかもしれないけど、他に何か言いたいことがあるんじゃないかと思ったから聞いてるんだよ」
「それは、」
言い淀むということは、その先があるということだ。なのにその先を言うつもりがキィニチにはないらしく、明確な鋭さを持って私を刺す。だってそれは、気持ちもこの関係性も信頼されていないということの証明のように思う。
「……キィニチは、なんにもわかってない」
キィニチの分かりづらい表情の中に、明確な傷を見た。自分だって、キィニチに言えていないことがあったくせに、棚にあげた発言だとその時は気付けずに。
喧嘩をふっかけるためにここに招いたわけじゃ決してない。けれど、キィニチがずっと密かに持ち続けていた感情の発露なのだとしたら、ここで紐解かないといけないと思う。
維持と変化は相反するものだけれど、どちらが悪いなんて一概には言えない。
キィニチとなら変わってみたいと思った。でも、彼がそれを良しとしないのであれば、このままでも、別によかったのだ。
穏やかで、でこぼこのない関係性を保つこと。今まで彼がどれだけそうあろうと努めていてくれたのか、それを私は深く知らされることになる。