きみはアザレア - 03



 あの時、本当はキィニチのことが好きだと伝えるべきではなかったと思う。
 元の世界に戻れるという希望がほとんどないと知った今でも、広い空から降りてくる一本の蜘蛛の糸を探すように見上げてしまうことがある。
 テイワットを巡る旅も大詰めで、七国の中でもあとはスネージナヤを残すのみとなった。もしそこに希望が埋まっているとして、選択肢が生まれてしまった時に私はどうするべきなのか、ずっと、ずっと考えている。


「なにもわかっていないのは、の方だ」

 ゆっくりと刻み込むように放たれた言葉は、先ほど私が言ったのと同じものだった。
 強い光には影が寄り添うものだという。キィニチの瞳にはいつも太陽が息づいているのではと思うけれど、今は夜のような深さが潜り込んでいるように感じた。
 じりりと肌を焼くような感触の言葉を放たれ、掴まれた手首が強く引かれたので前のめりになりながらキィニチの背中を追うことになる。
 狭い室内だ。行く先なんてすぐにわかってしまうのに、自分の中のキィニチが行うであろう動作と現状に乖離があるから、この後の展開に結びつかないチグハグさが生まれた。

「え」

 気付いた時には、ベッドのスプリングが二度軋んだ。一度目は私がシーツの上に転がされた時。二度目は、キィニチがベッドに乗り上げた時に。
 急展開、急旋回のジェットコースターに乗っているように、全く展開についていけない。まるで、違う生き物と対峙しているような心地が襲ってきて、先ほどの威勢はどこかへ消え去っていた。



 顔の横に置かれた手に、覆い被さるキィニチの体に、逃がさないと言われているよう。

「俺は、お前が思っているほど人間ができているわけじゃない」

 ——まただ。様々な感情が煮詰まって表出したような、複雑な表情をする。この前から何度もほんのり滲んでいたのは見間違いなどではなく、けれどこんなにも直接触れることははじめてだった。

「そんなこと、ないと思う」
「お前に見せてこなかっただけだ」
「伝えるべきことかどうか、ちゃんと考えて配慮してくれてるってことでしょ」
「人の良心的な部分を捉らえられるのはの美点だと思う。ただ、そうではない人間もいるんだと知っておいてくれ」
「そんなのわかってるよ。ただ、キィニチはそうじゃないって言ってるの」
「なら、空とパイモンにまで、思うところがあると言ったら?」
「…………え?」

 思いもよらない角度から飛んできたパンチをもろに正面から受け取った気分で、目を丸めてしまう。ぎゅっと結ばれた唇が嘘はないと告げている。

「二人に思うところって、……え? 私関連でってこと?」
「それ以外にあるわけないだろう。……二人に対して、こんなことを考えていること自体、申し訳ない限りだが」

 確かに、キィニチらしからぬ思考だと思う。人間誰しもネガティブな感情は持っているけれど、キィニチはそういった感情とは距離があるように思っていたから。
 けれど、私は悪いやつなので、高潔な精神を持っているキィニチが自分のことで感情を乱しているという事実にすこし嬉しくなってしまう。でも、それは飲み込んだ。今はそんなことを言うべき時じゃないだろう。

「それでも、二人のことは飲み込める。だが、には過去にも大切に思う相手がいて、——俺がはじめてでは、ないだろう」

 キィニチが、固い声で私の耳元に言葉を落とす。その言葉がなにを意味するのか数秒は理解が追いつかなかった。遅れてハッとする。それは、どうにも埋められない事実だ。
 ——血の気が引く、ってこういうこと。

「だ、誰から聞いたの」
「強いて言うならお前から、だな。ムアラニたちと以前、話していただろう」
「え、……でもその時、キィニチは空と話してたよね?」
「……想い人のことなら過敏にもなる」

 おそらく、ナタを巡る戦いの慰労も兼ねてみんなで流泉の衆の温泉に入った時のことだ。確かに温泉で体も心もじっくりと溶かされて、口の紐が緩んだ記憶はある。どの世界においても、恋愛の話ってみんな好きなものなのだ。
 けれどそれはかなり前のことだったし、キィニチに聞こえているなんて思ってもみなかった。

「俺には恋愛ごとで話せる話題もなかったが、のことなら耳に入る」
「あ、え……と、」

 至極当然のように言うので、参ってしまう。ただ事実を述べただけだというようにしているけれど、事実だからこそ厄介だ。
 ——だって、そんな頃から私のことを好きでいてくれたの? 心臓がぎゅっと縮んで跳ね、お腹から熱が迫り上がってくる感覚に追い立てられる。

「キィニチって、……私のことちゃんと好きだったんだ」
「……は?」
「疑ってたわけじゃないんだけど、仲間として好きとか、そういう意味が大きいのかなって最近考えてて」
「そんなわけないだろう」

 語気が強まり、顔を歪めて、今度こそわかりやすくキィニチは怒っていた。細められた瞳の中に、翳りよりも鮮烈な熱が浮かんでいる。
 けれど、私の方を一瞥してため息をついたかと思うとすっかり脱力した。そのまま、私を抱きしめるようにベッドに転がるので、動揺する。
 こんなに長いこと、直接的なスキンシップをとったことなんてなかったので、話していた内容が吹っ飛ぶような心地だった。展開が早い、急速な変化についていけずに目が回る気分。

「キ、キィニチ、ちょっと」
「やっぱり、なにもわかってないのはの方だったな」
「な、そんなことないんですけど!」
「俺は気がないのに、プライベートで異性とふたりになるようなことはしないし、こんな風に触れない」

 ぎゅっと腕に力を込められて、体の中心から熱くなりそのまま破裂するかと思う。どっどっと、前後に揺れるように脈打つ心臓に、ぴたりとくっついているキィニチが気付かないわけがない。

「すごいな」
「っ……それは、言わないでほしいんですけど……」

 耳もとで微かに笑う声がして、さらに羞恥心を掻き立てた。けれどそこにあるもう一つの鼓動が案外同じようなリズムを刻んでいたから、私たちは似たもの同士かもしれないと少しだけ落ち着きを取り戻す。
 望んでいた体温が思ったよりも熱くて、全身を巡っていくようだ。まるであの日の温泉みたいに、心を解くから。だから。
 ——一つ、聞いてみようと思い至った。今なら聞けるかもしれないと、先ほどとは違う意味でも鼓動が早まる。

「……好きだって最初に言ってくれたとき」
「ああ」
「自分でもびっくりした、みたいな顔してたでしょ。え、そうなの?みたいな。それに、私に言うつもりがなかった感じがした」
「あれは別に、自分の気持ちに気が付いていなかったわけじゃない。逆なんだ」
「逆って?」
「気付いていたが言うつもりがなかった。お前が困ると思ったから」

 異なる世界から来た人間だと教えられ、さらにはテイワット中をくまなく旅していると聞いて、そんなことを言い出されたら困るだろうと思っていた。
 ただ、自分でも気付かないうちにこぼれた言葉に驚いていれば、あまりに嬉しそうに笑うから、観念した。もう、自身でも抑えることは難しいとその時には気付いていた。
 そんなことをキィニチが言うので、鼻の奥がつんとした。どこまでも自分本位ではなく、相手のことを思いやれる人。同時に、絶望的な気持ちにもなった。そんなやさしい人を傷つける可能性をまだ手放していないことに。
 やはり、私がその言葉に答えてしまったばかりにキィニチの選択肢を消し去ってしまった。やさしいこの人は、私が喜んだらその言葉を撤回なんてできない、きっと。
 それでも、キィニチが応えてくれることは嬉しく、そして途方もない後悔の海へと旅に出る。そんな資格はないくせに涙が滲んでくるから厄介だ。

「空にも言われたんだ」

 気付かれないように、キィニチの胸に顔を押し付けてしまうとやわらかな声が知った名前を紡ぐ。

「〝はキィニチといると普通の女の子でいられるみたいだから、のことをよろしく〟と。保護者のお墨付き、だな」

 ——まあ俺たちの前でもそうだけど、特に、ね。と笑う空とパイモンが思い浮かんだ。いつでも心がすぐそばにある気がする。キィニチの言うとおり、私には心を預けられる先がいくつもあるのかもしれない。でも、そこには確実にキィニチの存在が大きく占めるのだということをちゃんと知っておいてほしい。

「私、キィニチに対して、すごくひどいことをしてる」
「そう思うなら、やはりの方がわかっていないな」

 先ほどのような苛烈な温度ではなく、緩やかな感情の乗った声。少しだけ、嬉しそうにも聞こえる不思議な音階。

「だが、もしそうだとしても——のことが好きだ」

 確かな熱がこもった、はっきりとした言葉だった。一度、抱きしめる手を緩めたキィニチは、覗き込むように私を見ると目元を拭った。ユムカ竜に舐められたところを拭うよりも、もっと繊細な動作で。
 それから一度、額にあたたかなものが触れて、そのやわらかさにぴくりと肩が跳ねる。窺うようなキィニチと視線が絡んで、それが合図だと思った。
 キィニチの体も、瞳も、言葉も、大きな質量のある熱源みたいだ。普段のやさしさで包んだ熱などではなく、直接的でうねるようなものを瞳の奥に見て瞼を下ろすと、くちびるにやわらかに触れた。