とろり、いちばんぼし - 03



 竜胆が自分ではなく、他の誰かの手をとるということをはじめて経験した。というより、今までは相手か自分か、という土俵にすら上がっていなかったと言うのが正しい。
 明示的に私ではなく、他の人を目の前で選択されたあの冬のにおいがする夜に、私の恋は本当に終わったのだと思う。ながい、ながい片想いだった。
 私の人生の半分ほどを共に過ごした相棒だったので、いなくなってしまうと途端にひとりぼっちになった気分だ。隣にあってもひどく痛むのに、いなくなっても苦しいなんて、恋なんてするもんじゃない。


 あの日、竜胆とその彼女と別れて家に辿り着いたあとは、体の中がからからになるかと思うくらい泣いた。
 泣きすぎて倦怠感を背負った体は翌朝もその影響を受けたままで、ベッドから起き上がるのが億劫で仕方ない。今日が土曜日でよかったと思う。こんな顔で人前になんて出れないから。
 なにもやる気にはならないけれど、竜胆のせいで貴重な休日を失うのも癪だった。水分を吸ってずんぐりと重くなった瞼を押し上げ、時間を確認しようとスマホの画面を見れば通知が一つ。早朝、午前五時に竜胆からのメッセージ。

「ちゃんと帰れたか? 今日のこと、マジでごめん。ちゃんと埋め合わせすっから。本当に悪い」

 また連絡する、と締めくくられた言葉。一般的にはとても健康的な時間のはずなのに、あの光景を見た後だと「はいはい、とってもお楽しみだったんですね」という最悪の気持ちに陥ってしまう。
 反社会的組織に定休日はなさそうなので、土曜日が休みかもわからないけれど。竜胆は普段、蘭ちゃんよりは早起きでもここまでじゃない。だからあの時間の意味は今から寝ます、が答えなのだろう。〝彼氏が夜分に女と連れ立っていたことを彼女が問い詰めて、嫉妬を肴に盛り上がる〟っていうプレイしてそう。
 有り体に言ってくそだ。あまりに口が悪いし、品もない。そんなことを想像することだってナンセンスだ。けれど、ふたりの仲を深めるための当て馬に使われたであろうことへの悔しさが募る。

「さいあく、最悪だ。あーもう!」

 しかも、だ。まだ彼女と一緒にいるなら連絡してくるな!と思う。お腹の中に溜まった苛立ちを言葉にしないことには収まりがつかない。ああ。こんなに苛立つのに、からからになったと思っていた水分はまだ目の縁から滑り落ちるのかとびっくりした。
 竜胆への返信はしなかった。埋め合わせが必要な関係性なんて、もうここにはなかったんだって、思ったから。


 最底辺まで気持ちが落ち込むと、逆にいくらか楽になった。ふわふわと立ち位置がわからずにいる方が辛かったのだと、今になって思う。
 失恋の傷を癒すのに必要なのは、次の恋だとよく言うけれど、時間と適度に愚痴を言うことも必要だと思う。職場の先輩、大学の友達、同期の松井くん。友達との女子会や仕事帰りに同僚と飲んで帰ること。

「人生短いんだからさっさと次いこ、次! 私の会社の同期、紹介しよっか?」
「私も、もう付き合うかもって思ってた男に三股掛けられてて最悪だった。付き合う前に発覚してよかったけど!」
「俺も彼女と別れたんだけど、浮気されてたからちょっと気持ちわかるよ」

 一般に語れない職業の幼馴染のことなんて詳らかに話せるわけではなかったけれど、それでも、私のこの不毛な恋が確かに存在していたのだということを誰かに知ってもらえたのはよかったかもしれない。あと、みんなそれぞれの戦いがあるっていうことを知ると、ちょっとだけ前向きになれるというものだ。
 それから、蘭ちゃんもだ。いつもタイミングを見計らったかのように連絡をしてくるところが恐ろしい。私が落ち込んでいそうなときを狙ったかのようなそれは、長年女心を弄んでいるからできる芸当なのかもしれないし、竜胆が「からの返信がない」と零したからかもしれない。
 なんて、自意識過剰すぎる希望的観測だ。ただの幼馴染である私のことで心乱す隙なんて今更ないかもしれないのに。

「よォ、調子どー?」
「わかってて聞いてる?」
「わかってて聞いてる」
「蘭ちゃんサイテー!」

 電話に出ると初っ端から少しだけ笑っている蘭ちゃんの声がする。だから、きっと全部お見通しなのだろうけれど、大丈夫、という服を繕って、なるべくそう見えるようにと高めの声を作り込む。なけなしのプライドが、この人の前で意味があるのかどうかは微妙だけれど。

「竜胆が、この前会った日以降から返信がないって騒いでたけど」
「会社帰りに約束もなく誘拐した挙句、突然出てきた彼女を優先して置いてけぼりにされたのに、返信とか必要ある? もう、さすがに終わった関係だよ」
「あーあ、やっちゃってんじゃん。かわいそーなヤツだなァ」

 事実を言われただけなのに、心のやわらかい部分に爪を立てられた気になる。蘭ちゃんも竜胆も、いつも振り回す側で振り回される側の気持ちなんてきっとわからない。

「まあ、蘭ちゃんはいつでも竜胆の味方だもんね。いいよ、わかってるから、そっとしといて!」
「は? オレはの味方じゃん。いつもそうだろ?」
「どの口が言ってるんだか。そんな風に言うなら弟の不始末の責任とって慰めてよ。なんか美味しいもの奢ってください」
「してやりたいのは山々なんだけどォ、ちょーっと今立て込んでんだわ。落ち着いたらメシ連れてってやるから」

 オレへの返信は忘れんなよ、と語尾にハートマークがついた言葉を最後に通話が切れた。言いたいことだけ言って切られた。嵐のような男だ。


 そうやって少しずつ平穏を自分の手で作り直していく。けれど、本当に長い間抱えていたものだったのでひとつ捨てようとしても、またひとつ戻ってくるような不毛なサイクルが出来上がっていた。
 学校帰りに竜胆とよく行っていたファミレスはどこにでも店舗を構えていて、高校生の時の無邪気な表情を思い出させる。大学生の時、オールで飲んだ後に食べたマックのポテトが美味しくて、竜胆が「カロリーが、脂質が、明日のトレーニングは」とぶつぶつ言いながらもしっかり食べ切ったので笑ってしまったこと。遊んだ帰りは必ず送ってくれるとか。
 ダイエットしようと思って早朝ランニングをし始めたら、竜胆が一緒に走ると言って私のペースに合わせてくれる。〝灰谷兄弟〟の名前に合わせてカッコつけているのに、ふたりでいる時にははしゃいだように笑う、その表情も。
 緑が満ちる香りがする春にも、じっくりと煮込まれるような熱をもった夏にも、すっきりと晴れ渡る秋にも、じんと悴む指先をあたためた冬も。朝も昼も夜も、どこにでも竜胆がいた。
 大切にしたかった思い出が多すぎる。——私は、竜胆が好きだった。


 平に均した土というのは、踏み込んで足跡をつけたくなるものかもしれない。
 こちらの心中を知ってか知らずか(いや、ろくに返事も返さず話もしていないので、感知すらしていないと思う)やってきた。私の幼馴染は兄弟揃っていつも突然だ。
 会社帰り、竜胆が家の前に車を寄せて待っていたのは、しんとした雪でも降り出しそうな二月の夜。

「……なんでいるの?」
「なんでってオマエ……聞きたいのはこっちなんだけど。なんで、返事くれねェの。埋め合わせするつったろ」
「彼女がいる人と出掛けられないよ。この前も、彼女さん、私のこと警戒してたでしょ」
「は? この前のアイツは彼女じゃ、あー……とりあえず、アイツとはそんな関係じゃねぇから」
「え、じゃあ……セフレってこと?」

 ガツンと殴られたような気分だった。本命の彼女ならいざ知らず、一時の関係を築いただけの人よりも優先順位が低い。くちびるが震える。二の句を継ごうとしているのにうまくいかなくて。

「そんな関係でもないし、好きとかそんな感情もねェ相手」
「そんな関係じゃないのに、結局一夜を共にしました、ってこと? 意味わかんない、そっちの方が最悪でしょ」
「いや、っつーか、、なんでそんな怒ってるワケ? オレにセフレがいたとか、昔からあっただろ」

 そン時はなんも言わなかったじゃん。と、眉を寄せた竜胆が訝しむ。
 はっとした。まるで、彼女の立場に立ったような物言いをしてしまっていることに。そんな資格なんて持っている訳でもないのに、竜胆の傍にいることが当たり前だと思っているような。
 実際、そう思っていたのだ。幼馴染の気安い関係を崩さず、その関係性を笠に着て竜胆がいつか私に特別をくれるんじゃないかって。自分からはなにもせずにただ待っているだけで、言い訳ばっかりのずるいやつ。

、もしかして、」

 くちびるをひき結ぶ。情けなさと羞恥が込み上げてきて、鼻の奥がつんとして海で溺れたようだった。竜胆が私の様子を見て、目を丸くしているのがわかる。その後に続く言葉を聞きたくなかった。今この場で、竜胆の手で、私が隠していたものを暴かれたくない。
 ——竜胆が何かを言う手前の、静かな空気を割いたのは電話のコール音だった。
 急かすようになり続けるその音に大きく舌打ちをして、竜胆は電話をとった。助かった、なんて考えてしまったのも束の間、電話越しにも聞こえる「竜胆ぉ」という甘えた音は、件の彼女のものだとわかって心臓が跳ねる。
 狙って邪魔をするかのようにきた連絡に、その意図はないのだと思う。ということは、いつもこんな頻度で竜胆と彼女はやり取りをしている。そんなの、彼女じゃないっていうならなんだっていうのだろう。
 あの日をもう一度やり直しているような、そんな心地で、電話が切れるのを待っていた。二人のやりとりを、静かに聞いていた。
 同じ道を辿ることが目に見えていて、でももし、やり直すことができるんだとしたら、——私は、あの時どうしたかった?

「あー……、悪い。ちょっと野暮用ができちまった。また来るから、」
「行かないで」

 竜胆の手を掴んだ。息を吸うと、きんと冷えた空気が気管を通り抜けていく。次の言葉を言うのがこわくて、でももう後悔はしたくないなとも思った。真っ直ぐに、竜胆を見る。せめて、この温度をしっかりと知って欲しかったから。

「竜胆が好きだった、ずっと、ずっと前から」
「——は、」
「だから、……その人のところに、行かないで」

 ずっとずっとしまい込んでいた熱を晒す。誰かに見つけられるよりも、自分で手渡したほうが遥かにいい。
 ぎゅっと竜胆の手を握っていれば、熱が重ねられる。同じように重ねられた温度に、ほんの少しだけ、期待しなかったかと言えば嘘になる。

「ごめん、

 本当に小さな音だったと思うのに、いやに輪郭を持ってしっかりとした重量がある。思わず息を止めて、時間まで止まったかと思った。息を吐き出すのと一緒に視線も頼りなく下がっていく、もうなにも見たくなくて。

「……わかった、もう、いいよ。引き止めてごめん……じゃあね」

 最後に笑えていたかどうかは覚えていない。手を離して、一気に駆け出した。竜胆が後ろから名前を呼んでいるはわかったけれど、もう止まれなかった。本当は、追いかけて欲しかったのかもしれない。最後の望みのひとかけらはすぐになくなってしまったけれど。この後、きっと彼女に会いにいくのだろう。
 でもこれでよかったとも思う。私の恋は、本人によってちゃんと粉々にされたのだ。

 竜胆が笑うと、私の世界はいつでもきらきらと瞬いた。それは夜空に輝く星がまるで隣で瞬いたような、不思議な感覚だった。
 届かないと分かっていながら、星に手を伸ばしてしまう。捕まえられるんじゃないかって、少しだけ期待して身の程知らずを痛感して。星は、届かないところにあるからきれいで輝かしいってわかっているのに。