とろり、いちばんぼし - 04



「正式にフラれたので着拒したしSNSもブロックしました。なので蘭ちゃんの方もよしなによろしくお願いします」
「ウケる(笑)」

 簡素な文字列に傷口を抉られている。とはいえ、連絡をしたのは自分からだったので、しょうがない痛みだと受け入れるしかない。
 蘭ちゃんからの返信は本当に愉快そうで腹が立ったけれど、もはやエンタメとして消化してもらったほうが気が楽だった。失恋なんて、大した話じゃないんだって言われているみたいで。

「ちゃんと言えてえらいじゃん、拗らせチャン」
「拗らせも終了したから。もっといい男見つけてやるから見てて」
「しょうがねぇなァ……イイ男を代表して、頑張ったご褒美に良いトコ連れてってやるよ、オマエいつ空いてんの?」

 イイ男代表って自分で言う? 言うか、灰谷蘭だもんな……と思って返信に間が空いたら、お叱りの言葉が飛んできた。もしかしたら、蘭ちゃんなりに気を遣ってくれているのかもしれない。

「三月中旬にプロジェクトが終わるから、そこらへんがいいな」
「おー、その辺にはこっちも落ち着くから、……楽しみにしとけ?」

 たしかに、蘭ちゃんに最後に会ったのも数ヶ月前だ。反社も忙しいんだなと思いながら、スマホの画面をオフにした。
 それに、忙しいのは反社の男だけではない。私も抱えているプロジェクトが佳境を迎えていた。メンタルがほぼ死んでいる状況での旗振り役は本当に辛かったけれど、松井くんにサポートしてもらいつつ、着実に先に進んでいることは実感できた。
 打ち込める何かがあると人は他のことへの感情を抑えることができる。忙殺されることで、竜胆との関係性に終止符が打たれたことからは目を背けた。
 そうして寒さが過ぎて、少しだけ春の香りがした三月半ばには、プロジェクト完遂を松井くんと手を取り合って喜んだ。大きな問題もなく予定通りにやってきた終わりの日、今日をもってこのチームも解散になるので、頑張ってきたぶん寂しいね、なんて松井くんと話しながら帰る道もあと少し。
 雑談をつらつら続けていた私たちの間に、ふと、沈黙が降りて彼の方を振り向くと視線がかちりとあう。「あのさ、」と松井くんが切り出した声は、今までやってきたプレゼンの時と同じくらい硬い。

が失恋したばっかなのはわかってるんだけど、言っておきたいなと思って。俺さ、のこと」

 真剣な表情と雰囲気に、その先は聞かなくてもわかったけれど、彼は誠実に言葉をしっかりと並べた。自分が先月、口にした言葉を別の人から返してもらっている。どれだけ勇気がいることなのかは、身をもって知っていた。

「答えは今すぐじゃなくてもいいから、考えてほしい」

 いいや、でもこれはずるいなと思った。今日は金曜日で、明日は久しぶりに仕事のことを考えなくてもいい、ゆっくり過ごせる休日で。そんな時にこんなことを言われてしまっては「明日は俺のことずっと考えて過ごして」と言われた方が潔いくらいだ。
 「じゃあ、また来週」とやわらかく目を細めて言う松井くんと別れ、駅までの道のりでふと思い浮かぶ顔があった。
 きっと、すぐに頷いてしまったほうがよかった。なのに、まだ残火のように燻るものを手放せていなくて、これは目を逸らしていた弊害だ。
 誰か、今ここで恋に消費期限を設定してくれたらいいのに。そうしたら、私は、見えない未来を目指して走ることなくすぐに決断ができたのに。フラれたのにまだ引き摺っているなんて、本当に馬鹿らしい。

!」

 ——ほんとうに、夢見がちにも程がある。
 というか、幻聴まで聞こえるようになったら終わりでは? 焦った声で、私の名前を呼ぶ竜胆なんて。

「……っおい、!」

 ぐん、と手を引かれて仰け反り倒れ込みそうになるところを支えたのは、紛れもなく竜胆だった。思わず「なんで、」と呟いて、それから防衛本能が働いたかのように手を振り払って駅の方に駆け出した。
 もう会う理由もなかったし、心の中を掘り返されてぐちゃぐちゃになるのが嫌だったのに。なのに。

「待てって!」

 紫髪にカラースーツ。こんなに目立つ男が街の往来の中で一際大きな声を出す。逃げろ!という自分と、一部だけ冷静な自分がストップをかける。変に目立って、警察なんて呼ばれてしまったら終わりだ。そんなことが過ぎったせいで足の進みが悪くなったその一瞬を、この男は見過ごしてなんかくれない。
 もう一度手首を掴まれてその遠慮のない力に思わず眉を顰めたのに、竜胆はいつもみたいに「ワリィ、強く掴みすぎた」なんて言わなかった。引き摺られるみたいに竜胆が停めていた車の助手席に押し込まれて、まるでこれもあの日の再現みたいだった。

「さっきの、なんだよ。誰、あいつ」

 運転席に性急な動作で乗り込んだ竜胆の切羽詰まった声色に、じわじわと追い詰められている。やめてくれと思う。じんわり滲む涙が、限界なんてとっくの昔に超えているんだって告げている。フったくせに、なんでこんなことをされなきゃいけないのか。

「竜胆には関係ないでしょ」
「は? なに、もしかしてアイツと付き合ってんの? オレのこと好きだって言ったのに、嘘だったってことかよ」
「嘘なんて吐いてないけど、フラれたんだから別に他の人を好きになったっていいでしょ」

 竜胆の声がショックを受けたように震えていたから、あまりに悔しくて今度こそ、ぼろりと涙が頬に落ちたのがわかった。竜胆がぎょっとして「は?」と零す。それから慌てたように、私の頬に親指を沿わせて涙を拭っていく。さっきとはまるで違う触り方に、また涙が落っこちた。

「フラれたって誰に」
「竜胆に決まってるでしょ。この前、ごめんって言ったじゃん……覚えてすらいないの?」
「はあ!? フってねぇし、のことフる訳ねぇだろ」

 訳がない、と言われたって全然わからない。そんな根拠のない自信を持てるほど、私は何ももっていないのに。
 「なあ、泣くなよ」と竜胆が言うけれど、一度落ち始めた涙は留まるところを知らずに、枯れ尽くすまで止まらないようにも見えた。困ったように竜胆がオロオロする姿は少しだけ愉快だ、そう思う余裕が少しだけ生まれていることに驚く。
 竜胆が、ただの一般人の私の言葉に振り回されているように見えることが、少し嬉しくて。

「……あの時は、あの女のところに急いで行かなきゃいけなかったから謝っただけ。オマエは傷付いた顔して走ってくし、止めても聞かないし時間もねェし、連絡も取れなくなるわ、兄貴にフォロー頼んでもニヤニヤしてるだけだし最悪だっつーの」
「あの女の人って、結局なんだったの」
「仕事。あの女のご機嫌とって情報を引き出さなきゃいけなかったんだけど、お気に入りがオレになっちまったから対応してただけ」
「そ、れならそう言ってくれればよかったのに」

 それだけで解決するのに、遠回しの言い方に勝手に傷付いて逃げていたことになる。気まずくなって、視線を逸らす。
 言ってくれ、なんて、また彼女ヅラみたいで嫌になる。あの女性が、情を交わすような人ではなかったんだって安堵して、まだ諦めてないのかって自分でも思う。

「……あの時、詳細話してたとして、オマエがこっちに巻き込まれたら嫌だっただけ。あの女、のこと警戒してたし」
「え」
「……つか、昔からずっとそう思って言わなかったんだけどさ」

 言葉の隙間で、竜胆がふっと諦めとも自嘲とも、喜びとも取れる呼吸をこぼす。取り戻すみたいに、呼吸をして慎重に言葉を探してるみたいだった。

「それでもやっぱ、オレには無理だわ」

 逸らした視線も全部丸ごともっていくみたいに、竜胆がぐっと体をこちらに近付ける。腕を引かれて、そのまま竜胆に抱きしめられていた。まだ濡れていた目元があたって、竜胆の肩をしっとりと濡らしている。

「ダサいことこの上ないってわかってっけど、のことを他のヤツに渡すの、やっぱ無理。さっきの見て、やっぱりそう思った」
「ちょっと待って、なに言ってるの」
「は、この状況で話の内容がわからないほど、お子様じゃなくね?」

 わからないわけではないけれど、頭が追いつかないのは本当だった。だって、まるで、竜胆が私のことを好きみたいに言う。一言一言が、一挙一動がそう伝えてくるみたいで、訳がわからない。
 後頭部を撫でて髪に指を絡める仕草とか、まるごと自分のものだと主張するような力加減も、全部。今まで私が全く知らないもので、ずっと手に入らないものだと思っていたことのすべて。

「だって、私、自信ない」
「は? 今までオレたちとずっと一緒にいたくせに、今更かよ」
「幼馴染だったから、一緒にいてくれただけだと思ってた、だって竜胆の好みと違うじゃん。いつも一緒にいたような高嶺の花みたいな、きれいな人たちとぜんぜん違うもん。一般人だし」
「高嶺の花?」

 はは、と竜胆が笑う。本当にびっくりしたような音を含んでいたので、首を傾げようとすれば、首筋に竜胆が顔を埋めたのでどうにも身動きが取れなくなってしまう。かかる吐息がくすぐったい。どちらのものかわからない心臓の音が混じり合うみたいに響いてくらくらする。

「オレにとってみれば、の方が高嶺の花なんだけど」
「それは、流石に嘘じゃん」
「まあ、にはわかんないかもしれねェけど、兄貴だってそう思ってる」
「蘭ちゃんがっていうと、余計に信じられないんだけど……それに私、一回竜胆にフラれてるから。信じられないよ」
「はァ? ……じゃあいいよ、オレがをフった最低の男でいいけど、それでも」

 区切られた言葉を待つ時間がとても長く感じる。あの痛みも怖さも全て竜胆の言葉ひとつで掬いとられるなんて、現金すぎるし、ちょろすぎると思う。でも、でもね。
 月みたいにたわんだ瞳を間近で見て、そこに私と同じ気持ちがたることがやっとわかる。それが、奇跡みたいで嬉しくて。

「もっかいオレのこと好きになって」
「……竜胆から、言ってくれるなら、もう一回考える」
「カッコつかねぇから言いたくなかったけど、たぶんオレの方が片想い歴長ェから」

 ふっと竜胆が目元を崩して嬉しそうに笑うから。ああやっぱり好きだなと思う。同じ言葉が竜胆から繰り返し呟かれるのを聞いて、また涙が溢れた。

「悪いけど、全部諦めてオレのもんになって」

 私は、ずるいやつだなと思う。心の中でじっと佇んでいた恋に、消費期限がなくてよかったと心底安堵している。もう花が咲かないと諦めたものが、息を吹き返してくれたことが心底嬉しい。
 竜胆が笑うと、私の世界がきらきらと瞬いて見える。好きだと口にした竜胆の瞳がぱちんと光った。この先を真っ当に生きるなんて難しい、お先真っ暗の反社の男の目に、明るく光る星が見えた気がした。絶対に、この手を取らずに過ごした方がいいってわかっていても、それでも、手が届くなら触れてみたいと思う。星ってそういうものだろう。
 だって、もう全部なくしたっていいって思うほど、焦がれたものがここにある。