眉間に刻まれた皺は、不快感によりもたらされたものではないことを知っている。
難問に取り組もうとする彼の顔のつくりを、私は何度も見てきたなと思う。けれど、片手に卵を持って、なんていう状況は初めてである。卵鑑定士。あー、腹筋痛い、この状況どうしてくれよう!

飛行船を降りた私たちがここに座っているのには訳がある。
あのクラピカが、何か食べないか? と提案してきたのだから、私としてはおっかなびっくりその要望に応えようと思ったのだ。飛行場にはおみやげ屋さんや飲食店が併設されているから、いま食べてしまうのならこれ以上に適した場所はないだろう。
クラピカから何か食べたい、なんて台詞が聞けるとは! あれだけ食をおろそかにしていたのに! と大袈裟に、演技がかったふうに驚いたら、物も言わずに黙らされた。
"目は口程にものを言う"ということわざは、クラピカのためにあるのかもしれないね。納得したよ、と深く頷いて、オマケにグッと拳でサインまで付けてやれば、侮蔑を込めた一瞥だけ残して彼はすでに歩き出していた。
「ちょっと待って待って、ごめんってば。じゃあ、何か食べたいものないの?」
「…………あまり重くないものがいい」
たっぷりとした沈黙と大きなため息で、怒りを消化させたらしい。さすが、私の扱いには慣れている。今後もその調子で頼む。
そして、クラピカの返答からいくつか候補を思い浮かべる。軽めの食事、サンドイッチ、スープバー、サラダ……んん、でもここはジャポンだ。ならば、ジャポンに寄り添ったものを食べてもらう方がいいのではないだろうか? おにぎり、素麺、お茶漬け。
脳内をぐるりと見て回って、埃をかぶった記憶が「はい! では、私はどうですか!」と立候補してきた。ジャポンの人間なら、多くの人が朝ご飯として食べたことがあるだろう。濃厚なのにサラッといける、最高の栄養食だと思う。
「クラピカ、丁度いいのがあるから、そこに行こう。特に好き嫌いはないよね?」
「ああ、一般的に食用とされているものであれば問題ない」
オーケー、ならば行こう! 久しぶりに食べれるのだと思うと、ウキウキと一歩が弾んだ。クラピカは不思議そうにしていたけれど、久しぶりの帰郷になるのだものなと、静かにほんの少しだけ笑ってくれた。
「、これは……?」
「これ? 生卵だけど。生卵をご飯にかけて、お醤油をちょろっとかけて食べるんだよ」
「生……!? 私は、一般的に食用のものであればと言ったはずだ!」
「え、」
店員さんによって運ばれてきた卵と定食セットを見てひどく混乱した様子で話すクラピカに、こちらも瞬く。一般的に食用のもの、では? 何がどうしたってんだ。
先導してやってきたのは、"たまごかけごはん"の専門店。定番の朝食だと思う。ここの生卵は新鮮だしとろっとした黄身が美味しいし、卵を三つもおかわりできるのだ。
栄養補助食品だらけで栄養偏りまくりもいいところのクラピカに、少しでも栄養を取ってもらおう! そして旅をより良きものに、という配慮なのだが、なのだが……?
クラピカは怒っているというよりは、困惑した表情でこちらを見ていた。しばしお互い訳が分からず見つめ合って、気付く。……そ、そうか! ジャポン以外の国では生卵は食べていないはずだった。
そう考えると、この反応は当たり前なのかもしれない。説明不足もいいところだ、申し訳ない。そう思った。
それと並行して、私の内心にはにょっきり悪いが現れた。
——ちょっと、クラピカをからかってみてもいいのでは?
無理やりこの旅に連れ込んだにしろ、飛行船の中で全ての会話をスルーされ私の神経は磨り減ったのだ。少しだけ仕返しても、バチは当たらないのでは?(実際はいつも通りなのでほぼノーダメージだけど)
悪い私に語りかけられてしまえば、もうダメだった。だって、こういう面白そうなことにとことん弱いんです、私。(そして返り討ちに合うまでがワンセットということを、この時点ではいつも忘却している)
「クラピカ」
なるべく、その一言が重みを持つように。言葉の輪郭を意識しながら発した。神妙な面持ちは、クラピカにも伝染した。
「……なんだ」
「落ち着いて聞いて、私の話」
幾つも重ねられた卵を前に、鎮痛な面持ちを浮かべるクラピカ。面白すぎる、やめてくれないか?
ざわざわと背筋を狩る感覚に笑いそうになるのを堪えながら、潜めて声を出す。
「これは、選別だよ」
「選別だと……?」
「そう。ジャポンは他国からの旅行者に厳しい場所だからね、入国者の見極めが必要だってこと。卵はその道具、私たちがジャポンに滞在するに相応しい存在か、今も見極められてるんだよ」
試しの門みたいなものだよ。いや、むしろハンター試験の方が近いかな。メンチさんたちの二次試験とか。なんて言ってみたけれど、まあ、すべて真っ赤なウソなのだが。
二次試験と聞いて何を思い出したのか、クラピカは頭を抱えて少し呻いた。
「つまり、サルモネラ菌に侵されていない生卵を引き当て食べろと?」
答えはイエスだ。私は深刻な顔で頷いた。基本的にどれでもいい訳なので、ある意味ノーだけど。
そういうことで、選別されよう。クラピカが一つとって頭を悩ませたのを追い、一番美味しそうなのはどーれだ、という気持ちで卵の山に手を付ける。すると、クラピカから待ったの声が掛かってこの茶番がバレたのかと身構えた。な、なに?
「は故郷なんだ、その選別とやらは関係ないのでは?」
「えっ、あ、うん。そうだね」
「ならば、わざわざお前が危険を冒すことはないだろう」
「い、や……でも、クラピカだけにやらせるのは、ね?」
「私だけで済むのならそれが最善だ。それに、に倒れられては困る」
それだと私はただのご飯セットを食べることになるのだが! というか、唐突にそんな思いやりのある発言をされると困ってしまう。私にだって良心の呵責くらいある。私にだって良心くらいある。
……正直に言おう。ちょっと引くに引けなくなってきてしまった。クラピカなら、呆れながら私の戯れを見破ると思っていたのに。どうしよう。本当のことを言った時の状況は身に染みてわかっている。
底なし沼から這い上がる時ってしんどいんだなと思った。悪いが沼の底に誘うように足を引っ張っている。このまま、嘘を本当にしてしまえばいいじゃない、って。
「あのぉ、……ごめん」
ああ、だの、ぐぬぬ、だの。呻きながらも結局、私は沼から這い上がった。このままでは流石に後味が悪い。いや、今の時点で十分に悪いのはわかっているので、それは端に置いておいて。
クラピカは卵片手にきょとんとこちらを見た。無垢だ、私の良心は悲鳴をあげた。
「本当にごめん、ジャポンに選別なんてものはありません! ジャポンの卵は生でも食べれるようになってます!」
「……は?」
「いや、クラピカが知らなかったみたいだから、ちょっとね。珍しいこともあるもんだなーって、からかってみようかな〜……って、え、えへへ」
私は、こういう場面に陥ってからしっかりモノを思い出すタイプだ。「えへへ」で済めばマフィアはいらない。私は何度だってこのパターンで、
「貴様という奴はッ!」
「いっ……!?」
クラピカの怒りを喰らうのだ。
いつもであれば怒号が投げかけられるけれど、ここは店内。私への怒りはそのままの質量があるのに、声量だけは抑えられていた。つまり、声に収まらなかった怒りはどこに込められたのかというと、机の下、私の足を思いっきり踏んだのだ!
「この国に来ることだけならいざ知らず、お前という奴は……っ! ここまで軽薄な奴だとは思ってもみなかった!」
「いやいや昔から変わってないでしょ! ていうか、いったいっつーの!」
——ほら、センリツ、バショウ、リンセン、みんな見える? この怒りを前にしても、私が一緒でクラピカが喜ぶって本当に言えるのか?
もちろん答えはない。きっと、センリツだって私がここまで初っ端からフラグを回収するとは思わなかっただろう。というか、やっぱりやらかす前提で厄介払いされているのでは?
帰国するまでに懸念がふたつある。ストレスによって、クラピカが私の息の根を止めるのではないかということ。もしくは、クラピカの毛量の三分の二が蒸発するんじゃないかということ。どっちも勘弁願いたいけれど、望み薄な気もする。
彼のストレスを爆散させているのは私自身なのは言うまでもない事実なのだが。そんな真実からは目を逸らして、息を吐く。(そうしないと足が痛すぎる)おもむろに卵を持ち、何事もなかったように割ってやった。卵の黄身は私たちの空気に反して輝いている。
うん、これは新鮮なたまご! 私の足を救う取っ掛かりになってくれ!
「クラピカ、ひとまず食べることから始めよう。お腹が空いては戦もできないよ。悪かったから、今後は極力気をつけるからさ、ね!」
「その言葉でが態度を改めたのを見たことがない」
さっき以上に深く刻まれた眉間の皺は彫刻のようだった。これは不快感から来ているって私にもわかる。
「…………前言を撤回したい。私はこの旅を有益なものにできるか、不安しかないよ」
飛行船を降りた時のことを言っているのだろう。これからの旅が不安だって? 大丈夫、私もめちゃくちゃ不安だよ。(息の根が止まるかもしれないので)
そのあと、クラピカはヤケクソのように全てを完食した。もちろん選別は行われず、むしろ栄養摂取したことにより彼は元気になったように見えた。
私ももちろん完食した。空気が重すぎて卵は一つしか食べれなかったけれど。……旅は、前途多難である。
