ゆるやかな仕返しを捧ぐ



 兄者は、彼女のこととなると少しばかり、いや、大分だろうか、意地が悪い気がする。

「やぁ、主。どうしたんだい、こんなにたくさん連れて……どこに行くんだい?」
「え、髭切?え?たくさん連れてって、何?またなんかいるの?!こっわ」

 部屋から主の姿が見えたと思った次の瞬間には、隣で寛いでいた兄者が姿を消していた。さっきまで「えーっと、きり丸?喉が乾いてしまって、お腹も空いてきたのだけど、何かないかな?」と呟いて、暗に飲み物と食べ物が欲しいなぁと伝えてきていたのに。自分は今は動く気はないぞ、という姿勢だったというのに。解せん。
 ちなみに、俺はきり丸ではなく膝丸なんだが、兄者。伝えるべき相手は主を目指して一直線だ。
 大きな袋をいくつか抱えながら、彼女は兄者の方を振り返った。その振動でガサガサと音がなったのを聞くと、袋の中にもたくさん詰まっているようだった。兄者の不思議な言葉たちに、主は戸惑っているようだ。

「うん?たくさん……だけど、見えてないようだから言い換えようかなぁ。そんなにたくさん袋を持って、何かあったのかい?」
「見えてないって、また、まーた変なこと言う!なんなの?こわいんだけど!」
「まあまあ主、わるいものじゃあないから。それで、教えてくれるのかな?」

 そのたくさんの袋は?と再度問われ、主は不服そうな顔をしながらも解答を用意したようだった。兄者の言葉によって惑わされ機嫌が下降しているのだが、兄者は気にせずふわふわと花が舞うような雰囲気を保っていた。
 彼女は袋の中身について話そうとして、はた、と何かに気付いたようだった。それから「むふふ」と笑って、口元を引き上げた。何か企むような悪い顔、と形容すればいいか。

「ふふふん、髭切、気になるんだね?気になるんだね!教えてあげようかと思ったけど、ここでクイズです!袋の中身はなんでしょう~?」

 いわゆる、ドヤ顔、というのだろうか。勝ち誇ったような顔で兄者に問い掛けを返した彼女。おそらく、いつも兄者に惑わされている仕返しだろう。
 瞳がキラリと光るところ見ると、今回は兄者もそうだが、俺たちが知らないようなことが要因なのだろう。自信に満ちた彼女は真っ直ぐと兄者を見つめている。
 一方、兄者はというと、真っ直ぐな視線がくすぐったいのか、瞳をうんと和らげて首をかしげた。口元に指先を当てて、まるで推理でもしているような風体だ。焦らすような空気感。その袋の中身が気になっているのは兄者だけではない、俺もだ。早く回答が聞きたいと、少し前のめりな気持ちになる。
 推理が終わったのだろう、兄者はやっと口を開いた。

「うーん……答えは、チョコレート、というやつかな?」
「…………えっ」

 瞳を零しそうな様子の主は、たっぷりと間を空けて、一言呟いて固まってしまった。ということは、その解答は正解ということだろう。さすが兄者、ものを忘れがちなところはあるが、博識でもある。さらに洞察力もあるのだろう。流石だ兄者!
 けれど、なぜチョコレートをあんなにたくさん? 主はそんなにチョコレート好きだったのだろうか。こんなにも多くの袋を抱えているのは初めて見た気がするのだが。

「な、なんで?なんでわかったの?」
「うん?簡単なことだよ?さっきも話していたけれど、主のまわりにたくさん飛んでいるからねぇ」
「それ、なんなの?今度は何が飛んでるの?前は妖怪とかだったじゃん……」
「うーん、妖精、かな?」

 ええ、妖精……?と訝しげにまわりを見回す主、それはそうだ。俺にも見えていない。兄者にしか見えていないのか、本当はいないのかも定かではない。けれど、いつも通りのその光景に、俺は溜め息を吐きたくなる。
 そんなことだから兄者は主によく怒られるのだ。嘘か真かが重要ではなく、楽しそうに朗らかに不思議なものの中に彼女を混ぜ込んでしまうからだ。そこら辺にしておいた方がいいぞ、兄者。
 そう声を掛けようとした時だった。「それに、」と呟いて、兄者が主の頬に触れる。刀を振るう、刀そのものとは思えないほどやわらかいその仕草に、俺は息を呑んでしまった。そこからは言葉を挟む暇もないほどなめらかな動きで、

 兄者は彼女の頬に口付けた。

「……は?」
「……うん、チョコレートっていうのは甘いものだね。おいしいおいしい」
「は……?」

 「は、」と空気の抜けるような声を出したのは彼女だけではない。俺もだ。唐突に行動を起こした兄者に、開いた口が塞がらない。な、何をやっているんだ、兄者。彼女は主で、主は女性で、そんな気軽く口付けていいものでは。
 言葉を掛けようにも、兄者がとても、とても嬉しそうに頬を緩めているものだから口も足も動かない。困ったものだ。すまない、主。

「妖精の話もからかっている訳ではなかったんだけれどね、今回は頬にチョコレートが付いていたから」
「チョコレートがついていたから……?」
「舐めてしまったね」

 舐めてしまったか、と復唱した彼女に、兄者はご機嫌そうにうんうんと頷いた。
 主はひととき硬直した状態を保っていたが、兄者が「主?」と呟いてからは、火にかけられた氷のようにすぐさま解凍された。そして最近自慢の脚力を発揮した。つまり、逃げ出した。
 ポカンとして「ありゃ?」と呟いた兄者を置いて、前にも増して強くなった脚力を披露した主。以前兄者に追い掛けられたのがトラウマになったらしく、最近は短刀たちとの鬼ごっこに余念がない。
 ボン!と音が出そうなほどの勢いで耳まで染まっていたが、主は大丈夫だろうか。そんなことを思いながら、俺は頭を抱えた。


「チョコ丸はあの子から二つもチョコレートを貰ったのかい?……ふぅん」

 問い掛けながら俺に斬りかかりそうなほどの気迫。表情こそ変わらないが、兄者は背に鬼を飼い始めた。
 兄者、斬る必要があるのは俺ではない、兄者の後ろにはしっかりと鬼が立っているぞ。まずはそいつらを片っ端から斬っていくべきだと俺は思う。彼女から貰った、チョコレートが入った二つの贈り物。それを視界に入れては、背に鬼を増やし、また視界に入れては……それを繰り返している。このままでは俺が斬られるのではないか、と少しヒヤヒヤするほどだ。
 先ほど、逃げ出した主。それと、ご機嫌に帰ってきた兄者だったが、話には続きがある。

「ひざまる……膝丸!ちょっとこっち、こっち向いて!」

 聞こえるか聞こえないかの声量で呼びかけてきたのは、先ほどうさぎのように駆けた主だった。キョロキョロと辺りを見回す様は、兄者の前で見せたものより更に警戒心を強めていた。
 先ほどのことが余程効いたらしい。兄者の不始末は俺の不始末でもあるだろう。あの時止めには入れなかったことも含めて謝罪すれば、彼女は少しむくれたようだったがすぐに大丈夫だと笑った。

「あ、でも助けずに見てたってことか!?……じゃあ罰ゲームでこのお願いは聞いてほしい!」

 その言葉と共に手渡されてたのは、二つの小箱。甘ったるい香りがふわふわと漂うそれは、確かに妖精でも舞っていそうな雰囲気がある。
 現代のバレンタインデーというイベントをこの本丸でも、という主の意向らしかった。チョコレートは彼女の手作りだということで、合点がいった。頬にチョコレート、作り手が主ならばおかしいことはない。まあ、今度からはまず鏡を見た方がいいだろうと、思いはするのだが。
 小箱に詰め込まれた宝物のようなチョコレートと親愛、そして、いつもありがとうの言葉。あわせてこの笑顔を受け取ってしまえば、お願いを聞かないなんてことはできない。自然と口元が緩んでしまうというものだ。俺も、兄者に負けず劣らずなのかもしれん。

「感謝する、主。これを兄者にも渡しておけばよいのだろうか?」
「ん、結果そうなんだけど、その前にね……」

 “お願い”の内容を告げ、軽やかによろしくー!と去っていった彼女。残された俺は、そのお願いを実行するしかなく、彼女からの贈り物を眺めた。
 主、その願いは、とても難易度の高いものではないのだろうか……?


 主への少しの恨み節も込めつつ、俺は咳払いを一つ。兄者から伝わるこの冷気に似た気迫を振り払わねば。「二つもチョコレートをもらったのか」と聞かれたが、答えは否、だ。けれど俺はその答えを軽率に口にすることはできない。それが“お願い”なのだから。
 このチョコレートは俺だけのものなぞではなく、兄者の分も含まれるのだと話せたら、この雰囲気を少しは和らげてくれるだろうか。いつものように、彼女をからかう時のように穏やかに笑い始めるだろうか。
 まだチョコレートの送り先の話もしてもいないのに、兄者は箱の一方の包装を解きチョコレートを摘み始めた。すると、さっきまで表情を歪めなかった兄者が眉間の距離をぐっと縮めた。
 主からのささやかな仕返し、「これ、髭切のだって言わないでね!自分のはないのか、ってちょっとこう、残念な気持ちにさせてから渡して欲しい!」とのことだった。けれど、主。その仕返しの効き目は抜群であったと俺が保障しよう。だから、もう本当のことを話しても構わないだろうか?
 兄者はチョコレートを食べる手を止めない。一箱食べ終わり、次の箱に手を出す。いや、兄者、彼女から貰った、俺のチョコレートまで食べ始めるのはやめて欲しい。兄者、それは俺のものなのだ、正真正銘俺が貰った……もの、なんだが……!
 そして兄者、最後に訂正させて欲しいのだが、俺はチョコ丸ではなく膝丸だ。