部屋に戻っても、繋がれた手はそのまま。離されることはなかった。いくらが靴を脱ぐのに不便だ、手を洗わなきゃ、と言っても清光は器用にその不便を片付けてしまう。どこに器用さを使っているんだよ、と彼女は内心舌を巻いた。
 なんとなく、気恥ずかしいような気まずいような空気が二人の間に揺蕩う。先ほどの清光の言葉はを、はたまた清光自身をも揺らがせていたから。
 それもあったからだろうか、ありもので夕飯を済ませてしまった後、はものすごい睡魔に襲われていた。くらくらとする様なそれに、ぐっと堪える様に力を入れる。それを見た清光が「く、ふっ」と吹き出すのが聞こえた。人の顔を見て笑うなんていただけない、そこまでひどい顔か?と思いつつも、つっこむ気力もない。

「ちょっと寝れば?眉間の皺がすごいんだけど」
「……でも清光、」
「……まだちゃんといるからさ」

 ぽん、と耳のあたりに触れた手のひらがちょうどいい温度で。の中からひょっこり顔を覗かせた睡魔を誘い出してしまう。誘い出してなんて欲しくないのに、清光は彼女と睡魔を甘やかすように耳をするすると撫でた。
 そんな風にされてしまってはもう抗えない、はベッドに体を預けてゆっくり瞼を下ろす。ちゃんと、まだいてよ、と回らない口で言えば、心地いい音で肯定の意が届いた。絶対絶対、約束だぞ!と思っても、思うだけでは彼に届くことはない。


「……寝た?」

 しばらく経ってから、清光は小さく彼女に尋ねた。呼吸の音だけが緩やかに続く。聞こえているか、いないか。覚えているか、いないか。夢と現実の境目。まだ、寝てないよ、そんな言葉を口にすることも憚られるくらいには睡魔がの足を引っ張っているだろう。ずるずるずるずる、少しずつ確実に清光がいる場所から彼女を引き離していく。それもそうだろう、一日の始まりをだいぶ早めてしまったし、自分がここに来てしまっていたのだから当然の結果だ。
 清光は彼女がピクリとも動かないのを確認してから、ゆっくりと言葉を紡ぐ。本当の話をするのは、少し緊張する。の指先を握る手に力が入った。

「今日が、なんの日か覚えてる?」

 返事はない。でも、そうでなければ、自分は話し続けることができないと清光は思う。この人に嫌われてしまうのが、とてもとても怖いから。
 それでも、この話をしなければならないと思ったのは、ただ一人、に会えたという幸運が清光にあったからだ。ずるいと言われても仕方ない方法で勝ち取った幸運が、清光を苛んでいる。

「俺はね、覚えてるよ。本丸中、この日のためにって大騒ぎだったから」

 もう一週間、いやそれ以上前から本丸はそわそわと浮き足立った様子だった。本当はを本丸に呼んでどんちゃん騒ぎの予定で、みんな準備をしていたのだ。そう、彼女が審神者になってから一年が経った今日この日に。
 審神者就任から一年の日に、彼らは審神者へ干渉する許可が与えられる。政府から審神者へ、そして刀剣へのご褒美。一日だけの特別な権利、刀剣たちが浮き足立つのも無理はなかった。画面越しでしか知り得ない自分の主に会えるそんなタイミングを、各々が程度は違えど楽しみにする。
 例に漏れず、もちろん清光も準備を念入りにしていた。他の刀剣たちとは違う、幸運を掴むための念入りな下調べと下準備。いつだって、作戦は早めに立ててその欠点、対策を多く洗い出せた方が勝つ。本丸中の誰一人だって、清光がこんな作戦を立ているなんて知らない訳だから、勝ち戦であった。
 近侍でないと迎えにいくのには不適切、といろいろ理由を付けてみんなを諭した。少しずつ、少しずつ浸透させるように言い聞かせる。
 そして当日、近侍だから、迎えにいってくるよ。その一言が刀剣にとってどんな意味を持つのか、しっかりと分かっていた。それがどんな重みなのか自分は把握している。それを踏まえて、近侍という特権を振りかざした。みんなは自分を送り出し、清光はのいるところへやって来た。尾を引くような罪悪感はあったけれど、どうしても優先させたい気持ちがあった。確かめたかった。

「俺は、初期刀でもないし、特別かなんて……わかんなかったけど。あんたが俺のことをかわいがったりするからさぁ、勘違いだってするよね」

 だから、どこかと二人で過ごせてしまう場所に行けたらと思っていた。夕陽を背に受けながら話した言葉は本物で。
 この人が、自分を近侍にする度に思っていた。画面越しに彼女が溜息を吐く度に、思っていた。彼女にとって、自分が特別なんじゃないかって。その度に、胸が高鳴った。そうであればいいなって。
 そんな様子に、我慢ができなくなっていた。これは本当にただの自分のわがままだったのだ。他の奴らと同じ括りの自分ではなくて、どうしても特別な一人として見て欲しくて。他の刀剣たちにも悪いことをしたと思っているし、もちろん、彼女にも。それでも、が自分をどんな風に見ているのか知りたかった。

「……ごめんね、本当はみんなにも会えるはずだったのにさ、台無しにしちゃった。でも、俺だけがあんたに会いたかった」

 謝罪の言葉を口にして、清光は深く息を吐いた。胸に詰まっていた何かが少しだけ外れた気がした。戻れば確実に怒られるし、みんなの気持ちを踏みにじってしまったことを咎められると思う。謝らなければいけないと思う、やらかしてしまった今の事態をみんながどう考えているかも気になる。
 でも今だけ、あともう少しの間だけ、と一緒にいることを許してほしいと思った。手のひらに感じるあたたかさに泣きたくなる。

「……ほんとは、すっごい緊張してさぁ」

 どうやったら、の目に映る自分をかわいく、いや、かっこよくできるのか。画面越しでない、そのままの自分をどうやったら彼女は好きになってくれるか、それを彼はずっと考えていた。
 清光はこれまでの一ヶ月間、寝るまでの時間を、はたまた意識のある時間全てを費やしたと言ってもいい。政府からこの話があった時から考えていた。何も言わず、何も聞かずに、が自分のことを受け入れてくれたら。
 そんなことを考えた。けれど、相手からしたら画面の中にいた奴が自分の側で笑うなんて考えつかない。現実ではないと思うなんて、そんなことわかりきった話ではあった。分かってはいた、それでもとても楽しそうに過ごすの姿を見て、水を差すようなことを言うのはやめようと思った。少しでも自分を記憶に残して欲しかったから。
 けれど、それでも欲は出る。少しでも、少しでも多く残ってほしいと思ってしまう。

、これは夢じゃないから」

 いつでも、あんたのことを考えているよ。画面越しでも、それでも。きゅうっと、握る指先にはあたたかさが宿っていた。自分が同じ場所にいることがわかって、辛くなってしまう。近くて、あと一年は感じることができない温もりだ。だからこそ、彼女には覚えていて欲しいけれど、忘れて欲しい。

「ちゃんと覚えていてね。目が覚めた時に俺がいなくても、ちゃんとここに俺が来たこと、覚えていてね」

 無くさないで欲しい。一緒に歩いた街並み、一緒に感じて笑った朝方に吹き抜ける風の冷たさ、一緒に踏んだ夕陽が作る影の形、一緒にお腹が空いたと話した夕飯ができていく街の匂い。隣で一緒に歩いていた自分の姿形とあたたかさ。

「夢になんかしないで。俺と二人で過ごした一日を、不確かなものにしないで」

 じわりじわりと視界が形をなくしていく。忘れられて無くなってしまったら、自分がここにいてはいけないと言われてしまうようで嫌だった。
 願うように一度だけ瞳を閉じる。ゆっくりと開いた瞳にしっかりとを焼き付ける。忘れない、清光は忘れない。
 それから、夜中のうちに閉じたパソコンを開けば、近侍が不在の画面が映った。本来自分がいるべき場所、それを眺めてから清光は静かに彼女の指先から手を離す。目にかかった前髪を頼りない仕草で払って、それから瞳を弓なりにする。最大限、彼女の前で自分ができる一番かわいい姿を作る。

「また、これからも一年よろしくね、主」

 加州清光は、今日この日を決して忘れない。そう、思うのだ。